#6 新たな生活
どれくらい眠っていたのだろうか。
重い瞼を押し上げると、視界に入ってきたのは冷たいコンクリートの壁と、ハッチの隙間から差し込む、白く濁った朝の光だった。
腕の中に、確かな重みがある。
那奈花は僕のシャツを掴んだまま、まだ深い眠りの中にいた。
「おはよ、ちゃんと寝れたみたいだね」
頭上から、金属が擦れるような乾燥した声がした。
見上げると、凛がベッドの端に腰かけ、猟銃をいじくりまわしていた。
昨夜のけだるさなどは微塵も残っていない。
「……ああ。そっちは?」
「いつも通り快眠。三時間も寝れば十分なんだ、私。それより、そろそろ出るよ。ゾンビさんも夜勤明けで少しは動き鈍ってるだろうしさ」
凛は、猟銃を布で拭き上げると、迷いのない動作で立ち上がった。
「出るって……どこへ?」
「食料と弾薬の調達。この地下室の備蓄も無限じゃない。……あと、あんたたちのその格好。一緒に来るならマシな装備を剥ぎ取りに行くよ」
凛の視線が、僕の着ている天文部のシャツと、那奈花の華奢な肩に向けられた。
確かに、凛の装備と比べると、無防備と言っていいほどだろう。
「那奈花、起きろ。……出発だ」
僕はそっと彼女の肩を揺すった。
那奈花は、夢から引き剥がされたような呆然とした表情で目を覚まし、数秒後、現状を思い出して顔を青くした。
「夢じゃなかったんですね……」
「……先輩。あたしたち、また外に……」
「大丈夫だ。凛についていく」
那奈花は不安げに凛を見上げたが、凛はそんな視線には構わず、梯子を登り始めた。
「いい? 外に出たら私の指示に従うこと。一秒でも遅れたら、置いていくから。……それから、そこのお姫様」
凛がハッチに手をかけたまま、那奈花を振り返った。
「その曲がった三脚。まだ持っていく気? 鈍器にするにしても効率悪すぎだよ」
「……持っていきます。これだけは、絶対に」
那奈花は、昨夜よりも強く三脚を抱きしめた。
凛は「ふーん」と鼻で笑うと、一気にハッチを押し上げた。
流れ込んできたのは、冷たい空気。
そして、肉が腐ったような腐敗臭。
僕たちの、この世界での最初の一日が始まろうとしていた。
◆
ハッチを押し開け、小屋の一階へと這い上がる。
レンガの隙間から差し込む朝の光は、空中に舞う埃を白く照らし出していた。
「……静かですね」
那奈花が呟くと、凛は小屋の窓に打ち付けられた鉄格子の隙間から外を覗き、短く鼻を鳴らした。
「夜の間、扉を叩いてたやつらはもういないね。こっち来なよ、あんたらが昨日居た温泉街が一望できるよ」
凛に促され、僕と那奈花は恐る恐る窓の外を見た。
木々の隙間から、眼下の谷に広がる温泉街が一望できる。
「……っ」
那奈花が息を呑み、僕の腕を強く掴んだ。
そこにあるはずの「活気」は、どこにもなかった。
美しいはずの朱塗りの橋は崩落して川に沈み、軒を連ねていた旅館の屋根はあちこちが抜け落ちている。
かつて湯けむりが上がっていた場所からは、いまはただ、建物の腐食による黒ずんだ染みが広がっているだけだった。
何より異様なのは、温泉街全体が沈黙に支配されていることだ。
木々はアスファルトを突き破って成長し、三年前から放置された車は、錆び果てた骸骨のように路上に転がっている。
「これが、あんたたちがチェックインしたはずの街の正体だよ」
凛は淡々と告げると、背嚢の紐を締め直した。
「さあ、出発。ここから山を降りて、まずは温泉街の入り口にあるスポーツ用品店を目指す。……一色さん、そのローファーじゃ一時間も持たないよ。ちゃんとした靴を取りに行かないと」
僕たちは小屋を出て、手入れの止まった荒れた登山道を降り始めた。
道中、那奈花は何度も後ろを振り返っていた。
展望台の燃え跡、あの猟師の死体が、そこにあるはずだったが――。
「……いない」
那奈花が小さく呟いた。
昨夜、確かにそこに転がっていたはずの男の姿が消えている。
ただ、そこには引きずられたような黒い血の跡が、深い藪の奥へと続いていた。
「ゾンビ化したね」
凛の声には、一切の感情がこもっていなかった。
その言葉が、改めてこの世界の異常さを突きつけてくる。
十数分ほど歩き、ようやく温泉街の入り口まで辿り着いた。
目指すスポーツ用品店は、割れたショーウィンドウからカビ臭い風を吐き出していた。
「……那奈花、中に入ってマシな靴と上着を探そう」
僕が促すと、那奈花は壊れた三脚を抱きしめたまま、恐る恐る店の中へと足を踏み入れた。
「……凛。君は、三年前からずっと一人で……」
「ん? いや、仲間と過ごしていた時もあったよ。みんな死んじゃったけどね」
凛は事も無げに言って、カビ臭い店内の奥へと視線を向けた。
その横顔には、悲しみというよりは、冷徹な諦めのようなものが張り付いているように見えた。
店内の奥では、那奈花が棚の間に埋もれるようにして靴を探している。
カサリ、と乾いたビニールの音が響くたびに、僕の心臓は跳ね上がった。
「この温泉街、私の故郷なんだよね」
凛の視線は、那奈花を追うでもなく、ただ埃の積もったカウンターの奥を見つめていた。
僕は言葉を失い、彼女の横顔を盗み見る。
「……ここが? じゃあ、凛は三年前、ここでその……パンデミックに?」
「そう。中学の修学旅行から帰ってきたその日に、駅前がパニックになってた。私の家は温泉街の一番上にある……神社なんだけど、お母さんがお父さんを喰い殺してた」
あまりに淡々と、ドラマのあらすじでも話すような口調だった。
けれど、猟銃を握る指先が白くなるほどに強く握りしめているのを、僕は見逃さなかった。
「元々神様なんて信じてなかったけど、その日から完全な嘘っぱちだって考えるようになった」
凛はふっと自嘲気味に笑い、僕の方を向いた。
「私も平和な世界、見てみたいな……」
凛はそれきり口を噤み、再び周囲の警戒に戻った。
店内の奥から、那奈花が古いスニーカーを抱えて戻ってくる。
彼女はこの会話を聞いていなかったようだが、僕と凛の間に流れる重い空気を感じ取ったのか、不安げに首をかしげた。
「……先輩。凛さん。どうかしましたか?」
「なんでもないよ。……靴、見つかった?」
「はい。サイズも大丈夫そうです……それと、これ」
那奈花が差し出したのは、薄汚れた、けれどまだ丈夫そうなアウトドア用のパーカーだった。
「これ、先輩に。シャツ一枚じゃ、夜になったらまた寒いですから」
那奈花の手からパーカーを受け取る。
その表面は冷えていたけれど、彼女が一生懸命選んでくれたという事実が、僕の胸を微かに温めた。
「準備できたなら行くよ。私、お腹空いてきちゃった」
凛は一瞬だけ、かつて自分の故郷だった街並みを忌々しそうに睨みつけると、迷いのない足取りで店を出た。
僕たちは、彼女の背中を追いかける。
錆びついた風が、僕たちの頬を撫でて通り過ぎた。
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