#5 いつのまにか終わった世界
山道の突き当たり、生い茂る木々に隠れるようにして、そのレンガ造りの小屋は建っていた。
かつては登山の緊急避難用として使われていたのだろうが、今は窓に鉄格子がはめられ、要塞のような拒絶感を漂わせている。
「ここ。早く入って!」
凛が重い鉄扉を蹴るようにして開ける。
僕と那奈花が滑り込むのを確認すると、彼女はすぐさま複数のボルトを締め、太い横木を閂として渡した。
しばらく後、扉の向こうで「ドスン」と何かがぶつかる音が響いたが、分厚い鉄板はびくともしなかった。
「ふぅ……。ひとまずは、ね」
凛は銃を肩から下ろすと、暗闇の中で慣れた手つきでランタンに火を灯した。
オレンジ色の淡い光が、埃っぽい室内を照らし出す。
「先輩……ここ、まだ奴らの声が聞こえます」
那奈花が震える声で僕の腕を掴んだ。
確かに、壁の向こう側からは、獲物を見失った異形たちの不気味な咆哮や、爪で石を引っ掻く音が絶え間なく聞こえてくる。
「地上は壁が薄いし、音も漏れるからね。……本命はこっちだよ」
凛が足元の古い絨毯を剥ぎ取ると、そこには頑丈な鋼鉄製のハッチが隠されていた。
彼女がそれを引き上げると、下からひんやりとした、けれど不思議と清潔な空気の匂いが立ち上ってくる。
「地下貯蔵庫。昔、ここの管理人だったじいさんが自分用に改造したんだって。……今は私の独り占めだけどね」
僕たちは梯子を伝って、地下へと降りた。
そこは四畳ほどの狭い空間だったが、簡易的なベッドや棚、そして備蓄用の水や缶詰が整然と並べられていた。
ハッチを閉めると、あれほど耳障りだった外の喧騒が、嘘のように遠のいた。
「……静かだ」
僕は壁に背を預け、ようやく深い溜息をついた。
那奈花は、隅の方で膝を抱えて座り込む。彼女は震える手で、ずっと離さなかった三脚を自分の前に置いた。
「……あっ」
小さな悲鳴のような声。
那奈花が三脚の脚を伸ばそうとしたが、先ほど男の頭を殴りつけた衝撃で、アルミ製の支柱が無惨に曲がっていた。
関節部分は歪み、こびりついた血が乾いて固まり、スムーズに動かなくなっている。
「……曲がっちゃった」
那奈花の瞳に涙が溜まる。
「いいじゃん、そんなゴミ。壊れたなら捨てれば?」
凛が棚から水のペットボトルを取り出し、無造作に僕たちへ放り投げてきた。
那奈花はそれを拾おうともせず、三脚を必死にハンカチで拭き始めた。
「ゴミなんかじゃ、ないです……。これは、先輩と星を見るための……」
「星?そんなの見てどうするの?お腹いっぱいになるなら私もやろうかな~」
凛はベッドに寝転び、挑発的な笑みを浮かべた。
「そうだ、あんたら名前教えてよ」
「僕は藍沢詩音」
那奈花はむっとした表情のまま、答えない。
「あんたは?」
「こっちは、一色那奈花だ。僕の一つ下で、十六歳」
「へぇ、同い年じゃん。よろしく」
凛が握手を求めても、那奈花は相手にしなかった。
◆
「そういやさ。あんたらなんであんな危険なところにいたわけ?」
凛が棚から取り出した水を飲みながら、不思議そうな顔で聞いてきた。
「え、旅館ですか?」
「うん、あそこってかなりゾンビが多いし……そもそもとっくの昔に崩壊してるじゃない。三年くらい前……この辺一帯はパンデミック初期にみんなゾンビになってるよ」
三年前。
聞き捨てならない言葉が凛の口から出た。
「……三年前って、どういうことだ? 僕たちは昨日、あそこの予約をして普通にチェックインしたんだぞ。無人運営だっていうから、セルフで鍵を取って……」
「はあ? 予約? ネットが生きてたってこと?」
凛は本気で僕の頭がおかしくなったとでも言うように、目を丸くした。
「ああ。一週間前に……スマホで。天文部の合宿で、星を見るために……」
「あはは、何言ってんの?あんた、通信網なんてとっくの昔に死んでるよ。……っと、これ見てみなよ」
凛はベッドの脇に放り出されていた一冊の雑誌を、僕の足元に放り投げた。
表紙の右上に書かれた日付は、2023年。
けれど、メインの見出しは僕の知る世界とは絶望的にかけ離れていた。
『大規模パンデミック発生――国内死亡者数は推定一千万人』
血の気が引くのがわかった。
2023年……どういうことだ。
僕の知っている2023年とは似ても似つかぬ記事が、いくつも連なっていた。
「……嘘だ。三年前の夏は、僕は中学生で……普通に生活していたはず
「……あたしも、普通に学校に行ってました。そんな病気、昨日まで一度も聞いたことありません」
那奈花も、震える声で僕の言葉に同調した。
凛はしばらく、僕たちの顔を無言で凝視していたが「嘘を言ってるわけじゃないみたいだね」と小さく呟いて、再びベッドに寝転んだ。
「あんたたち二人の頭がイカれちゃってる可能性もあるけど……私の知ってる2023年から、今までずっと、パンデミックで世界がおかしくなってる。これは事実だよ」
凛は冷たく言い放つと、ランタンの火を小さく絞った。
「寝るよ。……あんたたちの言う『平和な2026年』がどこにあるのか知らないけど、少なくともここにはないよ」
那奈花の手が、僕のシャツを千切れるほど強く握りしめた。
隣で感じる彼女の鼓動は、狂おしいほど速い。
僕たちが知っている世界と、凛が生きている世界。
その間に、埋めようのない暗い溝が横たわっていることだけが、今はっきりした事実だった。
「……先輩」
那奈花の声が、暗闇の中で震えている。
僕は彼女の手を握り返すことしかできなかった。
その手は、先ほどよりもずっと冷たくなっていた。
◆
凛がランタンの芯を絞ると、地下室は完全な闇に包まれた。
唯一の光は、スチール製の棚の隙間から微かに漏れる、ハッチの隙間からの月光だけだ。
四畳ほどの空間に、僕たちは身を寄せ合っている。
凛は一段高いベッドを独占し、僕と那奈花は冷たいコンクリートの床に毛布を敷いて座り込んでいた。
「……ねえ、先輩」
耳元で、那奈花の囁き声がした。
闇の中で、彼女の指先が僕の手の甲をなぞり、そのまま指を絡めてくる。
ひどく冷たく、そして小刻みに震えている。
「どうした」
「あたしたち、本当に帰れるんでしょうか。……あの、ラーメンを食べて、星の話をしてた昨日に」
僕は答えに詰まった。
あの雑誌に書かれていた「2023年」の地獄。
もし凛の言うことが本当なら、僕たちの知る日常は、この世界の線上には最初から存在しなかったことになる。
「……帰れるよ。きっと、何かやり方があるはずだ」
嘘でもいいからそう言うしかなかった。
那奈花の体が、不意に僕の肩に預けられる。
薄いセーター越しに、彼女の心臓の鼓動がダイレクトに伝わってきた。
それはまるで、自分という存在が消えてしまわないよう、僕に必死に繋ぎ止めているかのようだった。
「私の部屋でサカったりしないでね」
頭上から、凛の冷ややかな声が降ってきた。
「凛……起きてたのか」
「青狸の友達のメガネじゃないんだから、そんなに早く寝れるわけないでしょ……。空気冷えてきたから、体温逃がさないようにくっついてるのは許可するけど。それ以上は、この部屋が汚れるからナシ。わかった?」
相変わらずの言い草だったが、今の僕たちにはその毒気が、か えって現実感を与えてくれた。
「そんなことしません」
「あ、そう」
凛がベッドの上で寝返りを打つ音がした。
「一昨日までは平和な世界にいたなんて、そんなの、ただの幻覚か夢だよ。……ここにはさ、ゾンビと、それから逃げる私たちがいるだけ。それ以外に考えるべきことなんて、明日の飯くらいでしょ」
那奈花が僕の腕を掴む力が増した。
凛は、僕たちの境遇を憐れむことも、不思議がることももうしなかった。
彼女にとって重要なのは、今この地下室に、食料を奪うわけでもなく、発症もしていない「生存者」が二人増えたという、ただそれだけの事実に思えた。
「……先輩、寝ましょう。……今は、考えたくないです」
那奈花が僕の胸元に顔を埋めた。
彼女の吐息がシャツを通り抜けて、僕の肌を微かに温める。
地上からは、時折「カチッ……」と異形が鳴らす不気味な音が響いてくるが、この狭い闇の中だけは、驚くほど静かだった。
僕は那奈花の細い肩を抱き寄せ、冷たい床の上でゆっくりと目を閉じた。
凛の規則正しい呼吸音が聞こえ始め、やがて那奈花の震えも収まっていく。
次に目を覚ました時、僕たちがいるのは「平和な世界」の旅館の布団の上なのか、それとも―――
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