#3 天文台へ
スマートフォンは、さっきから圏外のままだ。
街の明かりが一つ、また一つと消えていき、闇がじわじわと支配領域を広げていく。
このまま、ここで朝が来るのを待つべきか。それとも――。
僕が言いようのない無力感に押し潰されそうになった、その時だった。
――パン
下界で蠢く死体たちの腐った咆哮とは明らかに違う、乾いた破裂音が夜の静寂を切り裂いた。
風に乗って届いたその音に、僕と那奈花は同時に顔を上げた。
「……今のって――」
「銃声……みたいだったな」
確証はなかった。
けれど、その音は僕に「山に誰かがいる」という微かな希望を抱かせるには十分だった。
僕は吸い寄せられるように、屋上の隅に据え付けられた屈折式望遠鏡へと足を向けた。
屋上の片隅、避難ハッチから最も離れた場所に、それは鎮座していた。
旅館が観光客向けに設置した、据え置きの屈折式望遠鏡だ。
僕は震える手でクランプを緩め、レンズの向きを空ではなく、漆黒に沈む山の方角へと強引に旋回させた。
「……っ、うわ」
接眼レンズを覗き込んだ瞬間、僕は胃の底からせり上がる不快感に眉を顰めた。
天体望遠鏡の視界は、上下左右が逆さまに映るのだ。
レンズの向こう側、逆さまになった地面を、逆さまの死体たちが蠢いている。
重力に逆らって天井を這うようなその異様な光景は、脳が拒絶反応を起こすほどに狂って見えた。
「先輩、何か……見えますか?」
那奈花が、僕のシャツの裾を遠慮がちに掴む。
狭い観測スペースで、僕たちの肩が、太ももが、避ける間もなく密着した。
アドレナリンのせいか、それとも恐怖のせいか。
激しい動悸のせいで、彼女の体温が熱いほどに伝わってくる。
「……遠くの方、街の方角で、火災が起きてるみたいだ」
大規模な炎が、ここからでも見える。
僕は吐き気を堪え、微動調整ハンドルを回した。
視線を街から、旅館の裏手へと続く深い森へ移す。
望遠鏡の有効倍率を超えた無理な観測だが、それでも肉眼よりは遥かにマシだ。
そこで、僕の指が止まった。
「……あ」
「どうしたんですか?」
「那奈花、見てみろ。裏山の、中腹にある展望台のあたりだ」
那奈花に場所を譲り、僕は彼女の背後から視界を共有するように身を乗り出した。
彼女の髪から、旅館のシャンプーの匂いと、微かな血の匂いが混じって漂ってくる。
「……あ、光ってる。……一つ、動いてます。あれ、ライトですよね?」
逆さまの視界の中、小さな光の粒が、意志を持って山道を移動していた。
それは明らかに、誰かが足元を照らしながら進んでいる「歩行」の軌跡だった。
「あっちには、生きてる人間がいる……かもしれない」
先ほど響いた銃声。
そして、山を移動する光。
それが救助隊なのか、あるいはライトを点けたままゾンビ化した人間なのかは分からない。
だが、ハッチの下で扉をガリガリと削り続けている死体たちと一緒 にいるよりは、万に一つの可能性があった。
「ここを下りよう。……あっちの光の方へ」
那奈花がレンズから目を離し、僕をじっと見つめてきた。
その瞳には、恐怖を塗りつぶすような、僕への盲目的な信頼が混じり始めているように見えた。
「先輩がそう言うなら……でも、どうやって?」
僕は顎に手を当て、考えた。
ハッチの向こう側……廊下は論外だろう。
今もそこからはうめき声が聞こえている。
飛び降りるのもダメだ。
二階ならまだしも、ここは屋上。
骨折くらいはするかもしれない、そうすれば終わりだ。
辺りを見回してみると、オレンジ色のボックスの存在に気付いた。
もしかすると、何か入っているかもしれない。
この屋上は天体観測用に開放されていたようだし、もしもの時に使えるなにか……。
蓋を開けようとして、指先に力が入らないことに気づく。
喉は焼け付くように乾き、肉体的な限界がじわじわと意識を侵食し始めていた。
「……那奈花、大丈夫か? 少し、顔色が悪いぞ」
「平気、です。……ただ、少しだけ、足が震えてるだけで」
那奈花の顔は、白を通り越して、文字通り青ざめていた。
極限の緊張状態だ、無理もない。
だが、このままここに留まれば、飢えと渇きに屈するか、下の怪物たちに食い殺されるかの二択を選ぶことになる。
「展望台まで行けば、誰かが……いるかもしれない。行こう」
僕はオレンジ色の箱を力任せに引き開けた。
中には、黒ずんだナイロン製のロープで編まれた縄梯子が丸まって収まっていた。
「お誂え向きだ。緊急用かな?」
「もしも火事になった時とかに使うやつですかね?」
梯子をフェンスの支柱に固定し、外へと放り出す。
バラバラと音を立てて闇の中に消えていく梯子の音を聞きながら、僕はもう一度、那奈花を振り返った。
「少し休んだら、ここから降りよう」
「……わかりました」
彼女は三脚を背負い、震える手で僕の腕をぎゅっと握りしめた。僕はその手に自分の手を重ね、彼女の体温を確かめるように一瞬だけ強く握り返した。
◆
僕はフェンスを乗り越え、不安定な縄梯子に足をかけた。
「すぐ下だ。……絶対に離さないから」
縄梯子は、僕の体重を支えるたびに嫌な軋み音を立てた。
風に煽られ、左右に大きく揺れる。自分の握力だけが頼りのこの状況は、屋上という高さ以上に僕を追い詰めた。
「那奈花、ゆっくりでいい。僕の頭を蹴っても構わないから、一歩ずつだ」
すぐ上にいる彼女の、震える足が見える。
ふと横を見ると、二階の客室の窓ガラス越しに、こちらに気づいた「奴ら」が顔を押し付けていた。
白濁した瞳と、血に濡れた口元。
窓を叩く鈍い音が、闇の中に響く。
「……っ、先輩、足が、届かなくて……!」
下から三段目あたりで、那奈花の声が悲鳴のように上ずった。 暗闇の中で足場を見失ったらしい。
僕は先に地面へと飛び降り、彼女の真下で両腕を広げた。
「大丈夫だ、そのまま手を離せ! 僕が受け止める!」
その言葉と同時に、彼女の体が闇から降ってきた。
受け止めた衝撃で僕は膝をついたが、那奈花の細い体が腕の中に収まった。
微かな吐息と、火照ったような体温。
彼女は僕の首筋に顔を埋めるようにして、しばらくの間、激しく肩を上下させていた。
「……あ、ありがとうございます、先輩」
「……いや。怪我はないか?」
腕を離すのが、どこか名残惜しいような錯覚に陥る。
だが、僕たちが降り立ったのは旅館の裏手――深い森との境界線だ。
建物の影で光は届かず、周囲は墨を流したような闇に包まれている。
那奈花は背負っていた三脚を、まるで盾にするように握り直した。
その時だった。
カサリ、と。
僕たちの目の前、落ち葉の積もった森の奥から、乾いた音が響いた。
風の音ではない。
何か「重いもの」が、地面を這うような音だ。
僕たちは息を殺し、音のした方角を凝視した。
街灯の死角から、ゆっくりと、異様に細長い影が這い出してきた。 それは、先ほどまで見ていた「ゾンビ」とは明らかに様子が違っていた。 四足歩行のように身を屈め、剥き出しの背骨を月光にさらしている。
「……あ、あ」
那奈花の喉が、恐怖で引き攣った。
奴は、こちらを向いた。
眼球があるべき場所には深い穴が空いており、そこからドロリとした粘液が溢れている。
逃げ場のない地上。 僕たちはまだ、一歩も山へ踏み出せていなかった。
「……っ、那奈花、後ろに!」
僕は彼女を背中にかばいながら、地面に転がっていた三脚をひったくった。
森の闇から這い出してきた「それ」は、人間だった面影を辛うじて残してはいるものの、骨格そのものが変質しているようだった。 カチカチと、歯を打ち鳴らす不快な音が響く。
奴が、跳んだ。
「なにっ……!」
想像以上の瞬発力。
僕は反射的に、石突を突き出すように三脚を構えた。
ズシリとした重い衝撃が腕に伝わる。
三脚の鋭い先端が、空中を舞った奴の胸元に突き刺さった。
「キシャァッ!」
耳を劈くような悲鳴。
僕はそのまま力任せに奴を押し返し、横倒しになった隙に那奈花の手を強く引いた。
「走れ! 山へ!」
整備された道なんてない。
僕たちは落ち葉を蹴立て、斜面を這い上がるようにして森へと飛び込んだ。
背後からは、獲物を逃した異形の、獣じみた咆哮が追いかけてくる。
視界は最悪だ。
だが、天文部として何度も夜道を歩いた経験が、僕の足を動かしていた。
ライトは使わない。
光をさせば、街中の「奴ら」に居場所を教えることになるかもしれない。
「はぁ、はぁ……っ、先輩……」
「……大丈夫だ。ここなら、少しは隠れられる」
どれくらい斜面を登っただろうか。
旅館の騒音も、異形の咆哮も、遠くの波音のように静まっていく。 足が鉛のように重い。
喉は干からび、肺が焼けるように熱い。
僕は那奈花を支えるようにして、一本の巨大なブナの木の根元に身を潜めた。
◆
極限の疲労の中、隣に座り込んだ那奈花と視線が重なった。 彼女の頬には土がつき、髪は乱れている。
それでも、月光に照らされたその瞳だけは、僕をまっすぐに見つめていた。
繋いだままの手が、汗ばんで熱い。
世界が終わり、文明が死に絶えていく中で、この熱だけが僕たちが「生きている」証拠だった。
「先輩、あの……さっきの光……」
那奈花が山の上方を指差した。
木々の隙間から、中腹の展望台が見える。
そこには、先ほど望遠鏡で捉えた揺れる光が、まだ確かに存在していた。
だが、近づいて初めて分かった。
それは、生存者が振るライトの光などではなかった。
「……あれは」
暗闇の中に浮かび上がる、人工的なオレンジ色の輝き。
それは「救助」を意味する光ではない。
展望台に設置された古い休憩所が、激しい勢いで燃え上がっている――その火柱だった。
そして、その炎に照らし出された人影が、一つ。
ゆっくりと、こちらを見下ろすように立っていた。
その手には、月光を鋭く反射する、長い銃身が握られていた。
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