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向かいの船長室から振り子時計の鐘の音が聞こえるてくるのに気づくと朝になっていた。
程なくして上から起床ラッパが鳴り響き、船全体が目を覚ました。
まだほの暗く朝霧が立ち込めるなか、甲板のあちこちで水魔法の詠唱が聞こえ、顔を洗ったりうがいをしたりと賑やかだ。
俺も顔を洗いうがいをしたらさっぱりした。
村での生活では顔を洗うという習慣はなかったな。
真水はギルド員が用意してくれるとはいえ貴重品だったしな。
洗顔のために川まで行く村人は余りいなかった。
それが終わると朝食ができたと食堂から呼び声があり、俺たちは食堂に降りていった。
「キコさん、おはようございます」
「ちっ」
舌打ちされてしまった。
他の船員も俺を無視する。
やっぱみんな長官の情夫ってのを間に受けて嫉妬してるんだな。
「あの、違うんですよ?」
「早く食え、次が待ってる」
ぴしゃりと言われ黙って飯を食う。
メニューは昨日の晩飯と同じ、塩粥とドライトマト。
食堂には全員が入れる広さはないので3交代制で使う。
最初は俺たちのグループ、次が俺たちと櫂と帆をローテーションしてる別グループ、最後が士官たちだ。
とっとと食べ終えると今日のシフトは櫂が先だったので櫂のフロアに降り、櫂に不具合がないか確認して、次は大砲のメンテナンスだった。
昨日は大砲があることにすら気づかなかったが船首側に2門、船尾側に2門。計4門が設置されていた。
バレル内の掃除とグリスアップ、車輪の確認、火薬の確認、固定ロープの確認、弾の錆落としとやることは意外と多い。
きっと上はマストやセール、帆の確認をしていることだろう。
出航のところを見てみたかったな。
一斉に下される帆
輝く太陽
出発進行! 北に進路を取れ!
アイサー!
風を受けて膨らむ帆
波をかき分けて船はしずしずと進み出す
それに引き換え、艪の方は、
薄暗い室内
こもる汗とグリスと鉄錆の匂い
甲板を木槌で叩いて指示が飛び
黙って櫂に取り付く男たち
滴る男たちの汗
櫂を出す穴から僅かに吹き込んでくる風が唯一の清涼剤
なかなかなブラック感の強い仕事場だ。
しかも雰囲気が悪い。
昨日はもうちょっと和気藹々感があったんだけど今日はみんながこっちを見ずに睨んできてる感じがある。
海に落とされる心配がないだけ櫂の方が安全かもしれない。
上に居たらいつ突き落とされるか分からないもんな。
あるいはセールや濡れたロープ束が頭上に落とされたりとか。
八点鐘のあとはせいぜい気をつけよう。
そんなことを思っていると様子が変だ。
櫂をしまう合図が全然来ない。
さっきからずっと『全力で漕げ』の甲板を叩く合図が出続けている。
嵐でも近づいてるのか、昨日見たウミヘビに追われているのか、皆目検討がつかない。
ただ指示されるまま必死で櫂を漕ぐだけだ。
しかしもう体力の限界だ。
櫂を持つ手にチカラが入らず、引く腕にもチカラが入らず、足も踏ん張りが効かなくなってきた。
みなの動きもバラバラになってきてお互いの櫂がぶつかり合う。
怒号が飛び、歯を食いしばるうなり声が聞こえる。
ナニコレ?
死ぬの?
何が起きてるのか誰か教えて!
するといきなり士官が飛び降りてきて大声をあげた。
「櫂を全て格納し船窓を閉めろ!
竜巻に呑まれるぞ!
総員かかれ!」
俺たちは言われるままに櫂をしまい、木の窓を内側から嵌め込み、かんぬきで固定した。
昨日から櫂は格納しても先っちょは船外に出しっ放しだったのが全部を入れて床に置いた。
窓を閉めたから部屋は真っ暗だ。
これでは出口すら分からない。
と思うとキコが詠唱を始めた。
「“精霊よ、光の精霊よ。我ら盲の目に標を与えたまえ。闇を払う強き標を、ルチェ・ソラレ!”」
キコの左手から馬鹿みたいに明るい光が生まれ、部屋中を照らした。
「手の空いたものは船倉へ!
荷物を固定するぞ!」
誰の指示かもう分からないが俺たちは一旦甲板に上がった。
上の連中は帆を畳もうと必死だったが風が暴れてなかなか畳めないようだった。
ブリッジの連中が単眼鏡を向けるその先を見ると馬鹿みたいに太い竜巻が沖にそびえ立っていた。
「食堂の奥の梯子だ!」
キコの指示で俺は我に帰ると食堂へ降りた。
食堂には手付かずの食事がテーブルに残っていてこれも片付けないと全部ひっくり返るのではと皿に手を伸ばすとキコに押し留められた。
「飯はどうでもいい! 船を守るぞ!」
その瞬間、風を受けて船が大きく傾いだ。
皿は全て床に滑り落ちて粥がぶち撒けられた。
「急げ!」
言われるがまま俺は船倉へ降りる梯子に取り付いた。
下に降りると既に数名が荷の固定に入っていた。
釘の打てる木の箱などは釘を打ち床に固定し、そうでない穀物の袋などは板で囲んでロープを掛ける。
俺は近くにあった樽に取り付き壁に寄せようとした。
壁にくっつけて固定したほうかしっかりと固定できるに決まっているからだ。
「馬鹿野郎! 動かすな! 元の位置に戻せ! その場で固定するんだ!」
そういえば船の荷は船のバランスにとって大事なんだっけ?
資格を持ってない人がフェリーの車の積み込み誘導をしてバランスが崩れて沈没した事件があったっけ。
俺は焦りながらも他の船員がやっているように数個ある樽を纏めてロープで縛ると角材を床に釘打ちしてその場からずれないようにした。
「もう垂木がありません!」
「どれだけ足りない!」
「あと5〜6本は欲しいです!」
「梯子を使え!」
梯子の近くに居た船員が梯子に取り付くと昇降孔から引き剥がした。
ふたりがかりで梯子をバラバラにするとみなで手分けして残りの荷物を固定した。
「固定完了です!」
「よし!」
さて、甲板に戻って、、、
と思ったが梯子はさっき使っちゃったから上へは戻れない。
キコ氏は疲れ切ったように手から迸る光を消した。
かなり魔力を使ったのだろう。
バカ明るかったからな。
上からは相変わらず船員の駆け回る音と怒声が響いてきた。
帆はしまえただろうか。
あれだけ揺れる中で手や足を滑らせて落ちたら大変な事態になるよな。
甲板に落ちたら大怪我
海に落ちたら遭難
上のみんなが無事だと良いけど。
俺たちは真っ暗な船倉のなか、手探りで荷物の上にあがり梁にしがみつき、迫りくる竜巻の揺れに備えた。