EP:27「観測不可の揺らぎ」
AEGIS本局。
静謐にして緊張感の漂うモニタールーム。
無数のホログラムウィンドウが層を成し、空間そのものが情報の海と化していた。
青白い光が壁を、床を、天井を舐めるように反射し、無機質な冷たさを漂わせる。
その中心にいるのはハッカー担当である湊音だった。
漆黒の髪に青のアクセントが差し、彼の動きに合わせて細かなコードが揺れる。
白く発光するディスプレイの反射が瞳を照らし、その指先は光をなぞるように滑らかに動き続けていた。
「……セーフライン、再チェック。第四観測層、ノイズ補正……と……」
低く、独り言のように漏らされる声。
淡々とした響きだが、彼の姿勢は明らかに崩れていた。
猫背で、肩は重力に引かれたように落ちている。冷気と疲労が肩越しに絡みついているかのようだった。
「僕一人で出来るわけねぇでしょうが……!」
モニターを睨みつけるように言い放ち、疲労の滲む視線を宙に泳がせる。
舌打ちに近い吐息が漏れた。
「……っていうか、なんで僕がこれを……遥華さんどこ行ったんですか、まったく……」
溜め込んだ鬱憤が独白となって零れる中、背後に音がした。
一定のテンポで歩み寄る足音。
「手を貸して欲しいか?」
その一言に、湊音は驚く素振りも見せず、苦笑したままディスプレイから目を離さなかった。
聞き慣れた、少し擦れた声。
その主は雨宮琉夜だった。
黒いタブレットを片手に、小さく笑いながら隣に立つ。
「ああ……琉夜さん、助かります……ほんと、助かります……」
声だけは嬉しそうに響いたが、その目元にはくっきりと疲労の色が残っていた。
「……それで、晃輝さんの様子は?」
「目は覚めた。病室でデータ漁ってたよ。相変わらず、頭だけは元気らしい」
タブレットに目を落としつつ、琉夜が淡々と答える。無駄な抑揚を排した声だが、その裏には確かに「呆れ」と「信頼」が滲んでいた。
「……あの方、休むという機能が欠損してるんでしょうか。いや、尊敬はしてるんですけど、ちょっとだけ……壊れてますよね、絶対」
「ま、止まったら止まったで、それも問題だ。あいつは考えることを止めたら、逆に壊れちまう」
二人の間には、職場というより戦場に近い連帯感が漂っていた。
湊音の指は止まらず、琉夜の目はすでに周囲のデータストリームに移っている。
「……白渡さんが忙しいのはわかりますけど……遥華さんが自由すぎて、何も手伝ってくれないんですよね……くそが」
最後の一言は完全に地だった。
琉夜は口元に笑みを浮かべ、タブレットを操作し始める。
「あいつは放っとけ。……お前にしかできない仕事があるんだろ」
「……ありますよ。でも限界がありますって! 僕、もう五日連続稼働ですよ!? 休憩は!? ご飯は!? ねえ!? 僕の人権は!?」
琉夜が応えることなくスムーズにプログラム整理を始める。
手慣れた動きに、湊音が感動すらしたように頭を下げた。
「ありがとうございますうぅ……琉夜さんマジ神……」
そのときだった。
琉夜の目がふと画面の端に向けられ、そこで動きを止めた。
「……なあ、湊音」
「……はい?」
声がいつもより低く、張り詰めていた。
湊音の指もぴたりと止まる。
「このズレ、数値の揺らぎだけじゃねぇ。観測対象が意図的にノイズを返してる気がする。まるで……隠してる」
琉夜の指が空間上のディスプレイを操作し、過去ログの一部を展開した。
湊音の視線も自然とその先に向かう。
「第二層、ティファレト……微かだけど、制御信号の周波数が崩れ始めてる……快適領域から逸れて、滑るように落ちてる……こんな歪み、ありえない……ですね」
「観測の外側から……構造が書き換わってる。そんな印象だな」
琉夜の声音は落ち着いているが、確実に緊張が滲んでいた。
湊音は何かを決断するように頷き、席を立った。
「……晃輝さんに報告を入れます」
湊音は静かに端末を操作し、暗号化チャンネルで報告を飛ばす。
「それがいい。あいつなら動く」
「ですね。さて、僕は白渡さんに行ってきます。一緒に来てくれますよね??」
「はぁ……はいはい、付き合ってやるよ」
♦︎♦︎♦︎
重厚な自動扉の前で、湊音は歩を止めた。
真夜中の本局は静寂に包まれ、天井のLEDさえも薄明かりに絞られている。壁面のガラス越しに見えるのは、都市核の青い輝きと、幾重にも重なる制御層の幾何学的グリッド。
冷たい機構の光に包まれながら、湊音は無意識に背筋を伸ばした。
その背後、ポケットに手を突っ込んだまま立つ琉夜は、いつもの調子であくびを噛み殺していた。
「……はあ、ほんっと緊張するんですよね、この部屋」
湊音が小声でこぼす。
手のひらにかいた汗をこっそり制服の裾で拭い、指を軽く握り直した。
そして、意を決してノックしようとしたその瞬間だった。
「……湊音か」
低く抑えられた声が、扉の向こうから響いた。
空間を揺らすほどでもないが、確かに届く。まるで思考を読まれたような間合いだった。
湊音が扉を開けると、冷たい空気が廊下へと漏れ出し、二人を迎え入れるようにゆっくりと内側へ引かれていく。
執務室の奥、広く取られた壁面は全面ガラス。
その向こうに広がるのは、セフィロト構造の上層。幾何の枝のような光の線が、黒い都市の骨組みをなぞるように浮かび上がっていた。
その手前に、一人立っている男。
腰まで伸びた白銀の髪が、ゆったりと背を流れている。
スーツの上から羽織った黒いロングコートが、夜の冷気にわずかに揺れた。
無護白渡、大企業AEGISの頂点に立つ男。
レプリカントでありながら、全構成体の中でも最強の戦闘能力を持つ、都市最深部の意思そのもの。
彼は振り返ることなく、窓の外を見つめていた。
が、湊音たちが室内に入った瞬間、咥えていた煙草をそっと外し、傍らの灰皿に落とす。
くぐもった音とともに、煙草が静かに燃え尽きた。
そして、ようやく静かに振り返る。
その青く。氷を思わせる澄んだ光が、湊音を真っすぐに射抜く。
「……で、何の用だ?」
声に感情はない。
ただ、必要な情報を待つ者の静けさがあった。
湊音は一礼し、緊張を抑えながらもはっきりと答える。
「第二層、ティファレトにおいて……微弱な環境変異の兆候が観測されました」
「詳細を」
「……自然制御演算のアルゴリズムが、所定のパターンから逸脱しています。誤差はまだ閾値内ですが、第二観測層における応答反射に不定義領域が生じています。未承認の改竄、もしくは外部からの干渉の可能性が高いと推察されます」
声を発しながらも、湊音の指は手元の端末に軽やかに走り、ホログラフのウィンドウを空中に展開していく。
青い光が空間に浮かび、数値列とグラフが浮かび上がる。
白渡はその光景を一瞥したのち、視線をゆっくりと遠くへ移した。
「……」
まるで、思い出したくなかった記憶を、無理やり引きずり上げるように。
彼の脳裏に、ひとつの声が蘇る。
『……ああ、成程。あなた方はその道を選んだのですね。良いでしょう、私は、貴方達の危険因子として、対峙してあげましょう。……今は、貴方達のターンです。精々、生き抜いてみせろ』
橘紫織。
静かな声音で、すべてを見透かすように放たれた宣言。あのとき交わされた一言は、未だに消えず、芯に突き刺さっていた。
白渡はポケットから新たな煙草を取り出し、火は点けずに指先で軽く弾いた。
そのまま、ぽつりと呟く。
「……早いな。もうロールアウトしたのか、紫織」
室内の空気が、一段階低く冷え込んだ気がした。
「……え?」
湊音の問いに白渡は答えず、代わりに明確な指示を返す。
「湊音。引き続き全層モニタリングを継続しろ。特にティファレトの下層部と連携構造を洗え」
「……了解しました」
湊音は軽く頷き、指先でホログラムを一つ閉じる。
その動きには、普段の飄々とした彼には見られない緊張が滲んでいた。
「琉夜、お前は晃輝の傍を離れるな。もし彼が異常を感知するより先に動ければ、それが最善だ」
「……あいつはもう気づいてる。全部言わないだけでな」
「なら、なおさらだ」
白渡の声は静かだった。
短い沈黙のあと、琉夜がライダージャケットの内ポケットから、小さなUSBを無言で取り出した。
黒く、無機質で、飾り気の一切ない端末。だが、その手にあるというだけで、そこに込められた情報の質は明白だった。
「……湊音、すぐにこれを確認しろ」
その名を呼びながら、琉夜は湊音の手にUSBをそっと渡した。
湊音は、一瞬だけ目を瞬かせ、慎重にそれを受け取る。
「俺が独自に解析したデータだ。セフィロト構造の、内部演算に関わる根幹……最深層に到達する鍵の一部になる」
白渡はガラスに寄りかかり、身を預けたまま、ゆっくりと琉夜に視線を移す。
その青い瞳は微動だにせず、琉夜の言葉を待っていた。
まるで全てを予期していたかのように。
「晃輝にはすでに渡してある。たぶん、今頃はもう……いや、確実に気づいてるはずだ。あいつは俺より速い。……天才だからな」
皮肉混じりに笑った琉夜だったが、指先のわずかな緊張が、その言葉の裏にある焦燥を物語っていた。
湊音はUSBを端末に接続し、展開されるホログラムの情報を食い入るように見つめる。
「これは……階層リンク……いえ、違う。各層の演算波形が、有機的に統合されている……こんなの、初めて見ます。まるで……」
「生命の樹だよ」
琉夜が遮るように言った。
「……この地下都市そのものが、聖歌の設計した生命の樹を模して構成されている。思想だけじゃない。物理的にも、演算的にも――再現されてる。層の並び、構造線、演算の接続位置、全部だ」
「……雨宮、聖歌……」
湊音が、小さく声を漏らした。
彼の顔に、困惑とある種の畏れが浮かぶ。
白渡は依然として動かない。
「お前のオリジナルか」
「ああ、あいつが神経構造としての都市を構想した。……そして、そこに最後のピースを嵌めた」
琉夜は言葉を切る。
わずかに視線を落とし、その先を言うべきか迷うように息を呑んだ。
だが迷いは数秒で断ち切られた。
「橘紫織だ」
湊音がUSB越しの画面を見ながら、反射的に息を呑む。
「……紫織さんが……まさか……」
琉夜は、肯定するようにただ頷いた。
そして、静かに言葉を継ぐ。
「彼女は、単なるアンドロイドじゃない。……人格アーキタイプ、演算中枢、倫理回路、外部通信遮断機構……全部、セフィロトと同期するように組まれてた。
あれは……都市そのものと呼応する、制御核だ。
……つまり、セフィラそのものだよ」
静かな重さを持った沈黙が、空気を支配した。
湊音が唇を引き結び、ホログラムの構造をスクロールする指がわずかに震えている。
「……じゃあ、ティファレトの異常って……あれは彼女が?」
白渡の瞳が、ようやく動く。
視線をホログラムから湊音に、そして琉夜に滑らせるように向け、口を開いた。
「……なるほどな。確かに、自然制御層の歪みでは説明がつかなかった。全階層を一斉に改変できる権限など、通常は存在しない。
だが、それが彼女なら話は別だ。紫織が再起動されていたとすれば……」
白渡は僅かに目を細め、咥えた煙草の先に火を点ける。
煙が一筋、静かに天井へと昇っていく。
「……すでにあいつの行動は始まっているということか」
「そしてその選択は意思を経由しない。……構造の意志だ」
琉夜の言葉に、湊音がゆっくりと口を開けた。
「まるで……神にでもなったように。彼女は、自分の意思を、都市の形式に刻み込んでいく。……完全に私物化じゃないですか」
高窓の向こうに広がる階層都市の光を見下ろしながら、その声は、あくまで冷静だった。
「……面白いな、やってくれる。宣戦布告、仕返しということか」
「白渡、アンタもそろそろ行動したらどうなんだ。その戦闘力の高さ、宝の持ち腐れだぞ」
「言うようになったな、ミオソティス」
白渡は煙草を一気に吸いこみ、灰が長く出来上がれば灰皿に落として吸い殻を落とす。
「セフィラがこの世界の法を司る神であるならば、俺たちは、それを超える例外でなければならない
神に抗うのだよ、俺たちはな」