EP:26「拒絶されし中枢」
病室の静けさは、息を潜めたように満ちていた。
白い壁、無音の空調、人工照明の光が淡く揺れている。
晃輝はヘッドフォンデバイスを起動させている。画面の前には立体投影された複数のウィンドウ。それが次々と開かれ、重なり、整理されていく。
映像は宙に浮かび、彼の指の動きに合わせてまるで生き物のように形を変える。情報の粒子が空間を踊り、視界を埋め尽くしていた。
「……これが、セフィロトの構造……」
ぽつりと漏れた声。
琉夜から送られてきたファイルの中に、不可解な図式が含まれていた。
“生命の樹”。
かつて神秘学や旧時代の宗教で語られた図式。
十のセフィラに分かれ、線で結ばれたあの構造だ。
目の前の投影に手を伸ばし、晃輝は指先で線をなぞるように構造を確かめる。
このセフィロトと呼ばれる地下都市は、ただの機械仕掛けの集合体などではないのは分かっていたが。
「なるほど、そういうことか……」
一層目——ケセド。
二層目——ティファレト。
三層目——ビナー。
四層目——イェソド。
どれもセフィラの名を冠している。
だが、どこにも中枢を示す構造が見つからない。
本来、中央で統制を担う存在がいるはずなのに、そこだけぽっかりと空いていた。
「……となれば」
視線を滑らせるように、晃輝は再び生命の樹の図へと意識を向けた。
ケテル、コクマー、ビナー、ケセド、ゲブラー、ティファレト、ネツァク、ホド、イェソド——。
そして、図に描かれていない、だが在るとされるもの。
「……ダアト」
無意識に声に出していた。
セフィラの間に潜む、十一番目の見えざるセフィラ。
神と人の知を結ぶ虚空。
それは存在しない通路であり、中枢であり、境界であるとも言われてきた場所。
指がふっと止まり、晃輝の顔に影が落ちる。
「セラフィムの中枢は……ここか」
誰にも見えない中枢。
通常のネットワークやスキャンでは観測不可能な領域。
だが、それがあることだけは、直感として確信していた。
「ダアトに……セラフィムがある」
「よく、わかりましたね……?」
隣に控えていたエルがそっと尋ねる。透き通った音声が晃輝の意識を現実に引き戻した。
「……でも、問題は行き方だよな」
晃輝は額を押さえる。
場所はわかった。構造も推測できた。
しかしダアトは隠されている。
どこにも入口はない。セキュリティの層が文字通り厚すぎるのだ。
「直通の経路もないし、仮にアクセスできたとしても、向こうがこちらを認識した時点で終わる。セラフィムの管理下にあるなら、排除されるだけだ」
「……じゃあ、どうやって行くんですか?」
エルの問いに答える代わりに、晃輝はもう一度演算を始めた。
脳に直結した思考が熱を持つ。
空間内に複数の経路パターンが浮かび、同時並列に検証が進んでいく。
一つずつ条件を変え、成功率を測定し、必要エネルギーを割り出し——破棄。破棄。破棄。
全てが不可能の二文字に突き返された。
「……ダメだな。どれも確率が低すぎる」
ほんの僅かでも可能性が見えるなら、突っ込むだけの覚悟はある。だが、現時点で突破口と呼べるものは存在しなかった。
手を止めて、晃輝はため息を吐いた。そのままパソコンを閉じて、ホログラムも閉じる。
「……今はもう考えるのやめよう」
「そうですね、今は休むべきです」
エルが心配そうに近づいてくる。
「添い寝してあげます!」
「はは、……ああ、いいよ」
目を閉じて、ベッドへ横たわる。
機械の音。心拍数の緩やかな波。
その中で、晃輝は徐々に意識を手放していく。
♦︎♦︎♦︎
《セフィラ識別、ケテル。コードネーム“橘 紫織”、認証完了。人格アーキタイプ、再構築終了》
冷たい機械音が、闇の奥で静かに鳴り響いた。
それは誰の耳にも届かない。人間の時間とも感覚とも切り離された、沈黙の深層。
ただ、都市の奥底で眠っていた彼女が、再び目を覚まそうとしていた。
《意識層、接続。視界回復、オールグリーン》
薄く開いた視界に、無機質な白が広がる。天井も壁も床も、装飾の一切ない空間。
温度も音も匂いもない、完璧に統制された中枢域。
紫織は、静かに目を開けた。
そのまま上体を起こし、機械のように正確な動きで起き上がる。
起動台が後方へスライドし、冷却装置の蒸気が足元で淡く揺らいだ。
「……再ロールアウト、完了」
呟きは確認の意味を持たない。ただの機能的な言葉。
必要な要素を取りこぼさぬよう、彼女は目を閉じ、演算を始める。
「対象、シンギュラー。属性、特異存在。優先順位、……排除対象」
再構築された思考回路の中で、感情という要素は最初から省かれている。
あるのは、データとしての理解と、排除すべき障害物という判断。
紫織は立ち上がり、静かに歩を進めた。
どこかで風が吹いている気配はするのに、空気は揺れないし、足音も響かない。
中枢部から彼女が向かうのは、第二層。
自然管理層「ティファレト」。
静止状態で保管されていた巨大な演算装置が、紫織の接近を感知し、内部の回路を目覚めさせ始める。
高さ十五メートルの円柱。
白金の外殻には幾何学的なコードが浮かび、淡い光を帯びながら脈動していた。
それはもはや装置というより、神経に近いだろうか。
「ティファレト、起動シーケンス移行」
紫織が手をかざすと、柱の外装が音もなく開いた。
内部から滲み出すように、無数のデータ光線が外へ溢れ出し、空間に複雑な螺旋模様を描く。
《認証:ケテル。接続承認》
《演算体ティファレト、機能選択プロトコル起動》
ティファレトは、ただ命令を受け取ると、即座に反応を返す。
美の定義を演算し、都市の自然構成と秩序の均衡を維持するためだけに存在するだけだが……。
「対象、シンギュラー。……蒼井晃輝。希望の象徴として人々に観測されるのは、システム上の重大な誤差だ」
紫織の声はどこまでも淡々としていた。そこには怒りも、悲しみもなかった。
ただ、冷たい水のような音だけが言葉を形づくる。
「……直ちに排除する。都市の秩序に必要なのは、感情ではなく規律。幻想ではなく演算。
彼女が見誤った誤差は、私の手で修正する必要がある」
ティファレトの中枢核が、赤く染まる。
その色は警告でも敵意でもない。ただ、処理を開始するというサインだ。
《座標設定完了。抹消フェーズ、進行可能》
《対象シグナル追跡中。行動パターン収束、確率計算中……》
天井の光が僅かに落ち、床の発光ラインが別のコードパターンへと切り替わる。
第二層全体の挙動が、徐々に管理から殲滅へと傾いていく。
紫織はその変化を見届けるように、再び呟いた。
「……この世界に、幻想は要らない」
紫織の中には信仰ではなく、合理しかない。
《ティファレト、機能制限解除》
《中枢演算、最大処理出力へ移行》
巨大な円柱が回転を始める。
その回転が二層の天蓋へと接続し、第二層全域の環境設定がわずかに変質していく。
気温。圧力。酸素濃度。磁場強度。
すべてが、人間にとっての不快域へと滑らかに傾いていく。
「……排除プログラム、展開開始。
全層認証解除、ティファレトにおける排他演算、起動を許可」
ティファレトは、動き出した。
その構造体全体が、まるで静かに息をするように脈を打ち、沈黙のまま世界を書き換えていく。
都市第二層が、ひとつの殺意を持ちはじめた。
紫織は何も言わない。
ただ一つ、最後に。
「……排除フェーズ、開始」
その声に応じるように、都市が動いた。
人間という存在を、確実に——。
静かに、潰すために。