EP:25「シンギュラーの目覚め」
第三章 始まります
「……い。起きろ」
ぼんやりとした意識の中で、誰かの声が耳に届いた。
低くて、少しだけ怒っているような声。でも、その奥にどこか懐かしい響きがあった。
瞼を持ち上げるのに、酷く力がいった。
視界がにじむ。それでも何度か瞬きを繰り返すうちに、次第に世界が形を取り始めた。
——灰色の天井。
光を取り戻した視界に、まず映るのは天井だった。
どこかの病室か、それとも医療施設か。無機質な光が、ぼんやりとした視界に差し込んでいた。
ベッドのシーツは硬く冷たくて、身体にまとわりつく倦怠感が抜けきらない。
視線を横に向けると、ひとりの青年が椅子に座っていた。
机に突っ伏していたのか、寝ぼけ眼をこちらに向ける。
目が合った瞬間、晃輝の脳裏に名前がよみがえった。
「……ミオ、ソティス……?」
掠れた声が漏れる。
その呼びかけに、ミオソティス——、琉夜はふっと息をついた。
気の抜けたような、でもどこか安心した表情だった。
「……やっと起きやがったな、寝坊助」
呆れたように、けれどその言葉には微かな安堵がにじんでいる。
琉夜は椅子の背に寄りかかりながら、晃輝をじっと見下ろした。
「お前なぁ……無音独房で倒れてから、丸三日寝てたんだぞ? 心配かけやがって」
三日間、か。
晃輝は眉をひそめる。
まだ頭が重い。けれど、身体の芯だけは妙に静かだった。
目覚めたはずのこの世界が、どこか現実味を帯びていないようにも思える。
「……三日も寝てたのか」
喉が乾いて、声はかすれていた。
「そうだよ。お前が動かねぇから、AEGISの医療施設に運ばれて、あれこれ検査されて……マジで迷惑かけんなっての」
琉夜は苦笑交じりに言ったが、どこか目の奥に張り詰めた何かが見えた。
晃輝はベッドの上で上体を起こそうとするが、まだ腕に力が入らない。
動こうとするたび、身体が鈍く軋んだ。
「紫織は……どうなった?」
ようやく出た言葉に、琉夜の表情が少しだけ引き締まった。
「……片づいた。白渡が、直接ぶった斬ったらしい」
淡々とした声。だが、それがすべてを物語っていた。
橘紫織の敗北。管理局の崩壊。
そして、自分が眠っていた三日間の重み。
「そうか」
晃輝は目を閉じた。脳の奥で思考が再構築されていく。
まるで、自分の存在そのものが少しずつ組み直されていくような感覚。
「……エルは?」
問いかけると、琉夜は壁際にある機器を一瞥した。
「ああ、あいつなら今もお前のデバイスの中だ。さっきまで外から様子を見てたけど、どうもバッテリーがヤバいらしくてな。今は休憩中だ」
「そうか」
再び短く息を吐く。
ゆっくりと上体を起こすと、視界がはっきりしてきた。
部屋の隅、壁の配線、通気口の素材までが視覚と同時に解析されていく。
世界が情報として頭に入ってくる。
「晃輝、お前……橘紫織がアンドロイドだったって、気づいてただろ」
「……ああ。妙に人間らしすぎて、逆に違和感しかなかった」
白渡が破壊したというが、それで終わるはずがない。
あれが本当にただのアンドロイドなら、データのバックアップは確実に存在する。
紫織の存在は、それだけで終わるものじゃない。
「……管理局は?」
思いついたまま口にする。すると、琉夜が少し顔をしかめた。
「白渡が、AEGISのトップとして全部引き継いだ。管理局は解体されて、今はAEGISと統合の手続き中だ」
「なるほど」
晃輝は目を伏せたまま、言葉を噛みしめた。
見えてきた断片を繋ぎ合わせる。
紫織、管理局、そして……セラフィム。
「なぁ、セラフィムの情報って、管理局のデータに残ってたか?」
「は? ……いや、そんなもん、どこにもねぇよ」
「だろうな。紫織が守護者だとすれば、情報は彼女自身にしか残されてない。つまり……記憶媒体は紫織自身。場所も鍵も、全部あいつの中にある」
琉夜がわずかに目を見開く。
「お前……たったそれだけの情報で、そこまで辿り着くのか?」
「天才ってのは、伊達じゃねぇからな」
その瞬間、ピコンと音が鳴って、晃輝のデバイスから小さな光球が飛び出した。
「マスター! 起きたんですね! 起動ログ、接続完了です! あっ、充電ください! 今すぐ!!」
——エル、だった。
だが、なぜかその姿は人の手に乗るほどのサイズ。晃輝の頭の上に、ぴょこんと乗っかってきた。
「お、おいっ……ちっさ!?」
「ふふっ、こうやって省電力モードで活動できるんですよ!!」
「……頭、噛むな! いてぇってば!」
琉夜はそれを見て、とうとう吹き出した。
「……なんだよお前ら、仲良しかよ。もう漫才じゃんか」
「いや、俺は真面目に聞きたいんだが……何なんだこのサイズ」
「それは後で説明してやる」
琉夜はようやく笑いをおさめ、少し真顔に戻った。
「……晃輝、お前の身体に、まだフェイタルが残ってる」
その言葉に、空気が一変した。
晃輝は眉をひそめ、内側に意識を向ける。
血液の中に、ざらついた異物のような感覚、確かにそこにある。
「……どういうことだ」
「フェイタルは普通、適合が進めば肉体が崩れる。だけどお前は違う。共存が始まってる。もしかすると、完全適合……いや、それ以上かもしれない」
「……全部、気づいてたのか?」
「そりゃな。お前がわざと捕まって、俺たちを動かしたってことも、最初っから」
琉夜はニヤリと笑った。
「クソが……」
晃輝は舌打ちしながら、ベッドの上で軽く伸びをした。
「……ま、結果的に助かった。お前らが動いてくれたおかげだ。礼を言うよ」
「言う相手は、俺じゃなくてエルだ」
琉夜の言葉に、晃輝は頭の上のエルを摘まみ上げ、そっと机の上に乗せた。
「……ありがとな」
「えへへっ! マスターがちゃんとお礼言ってくれるなんて……照れます~!」
エルはぴょんぴょん跳ねながら嬉しそうに笑った。
琉夜は呆れ顔でため息をつくと、椅子を立ち、背を向ける。
「……じゃ、俺は調査に戻る。転送データ送ったから確認しとけよ」
「了解だ、気をつけろよ」
「ああ、心配ご無用、お前よりは無茶しねぇよ」
軽口を残して、琉夜は部屋を出ていった。
静寂が戻る。
晃輝はそっとデバイスを装着し、転送されたデータを開いた。
浮かび上がる光の情報群の中、彼はひとり、再起動された世界に向き合っていた。