EP:24「選んだのは、俺だ」
晃輝の意識は、凍ったような空虚をゆっくりと滑っていた。
夢でも現実でもない場所。思考と記憶が混ざり合い、むき出しのまま交差する、情報だけの空間だった。
数字が雨のように降り、言語と記号が光になって宙を流れていく。どこまでも無重力で、だけど脳にはずっしりと重い。
神経網みたいな光の線が何層にも張り巡らされて、電流のように走っては消えていく。
空間の膜が波打ち、物理法則のようなものが生まれては壊れていく。
言葉にしづらい、いや、言葉で考えることすら拒まれているような感覚だった。
「……っち」
短く、晃輝は舌打ちを漏らす。
意識はあるが、すでに脳が疲弊しかけていた。
ここは危険だ。情報がむき出しで流れている。思考さえ誰かに読み取られている可能性もある。
「君がここに来るのを、ずっと待ってたよ」
その声は、唐突だった。
晃輝の意識が跳ね、空間を三次元座標で即座に補足する。
音の正体は――
そこに立っていたのは、一人の存在だった。
淡い氷色の長い髪。
透き通った水のような瞳。風もないのに、髪がふわりと揺れる。
女性に見えたが、どこか性別の境界を感じさせない。
中性的?
いや、それすら超えている。存在自体が輪郭を拒んでいるようだった。
「……雨宮、聖歌」
「正解。僕だよ」
表情は穏やかだった。
声もやわらかい。
敵意はなさそうだが――晃輝の中では、警戒心が即座に立ち上がる。
雨宮聖歌。
地下電脳都市を作った、天才にして全ての始まりの人物。
とっくに死んだはずの存在だ。
「死んだはずのお前が、今さら何を企んでる?」
「うん、僕は確かに死んだ。でも、こうしている。……どういうことかは、君ならすぐにわかるでしょ?」
その声に、妙な違和感があった。
耳で聞く前に、意味だけが脳内に直接届いてくるような感覚。
「……意識の写し? それとも記録か、残留思念か。まあ、どれでもいい。問題は……」
晃輝は前に一歩踏み出す。
足元に床などないのに、踏みしめた感触は確かにあった。
瞬時に頭が回転を始める。敵か味方か、構造分析、空間性、演算干渉。
あらゆる変数が脳内で処理されていく。
しかし、どうしても答えが出なかった。
いや、出せないように何かが組まれている。
晃輝の直感が、背筋を冷たくなぞる。
「……お前、俺の脳を覗いてるな?」
「ただ、見てるだけ。君が自分で考えて、選ぶために。僕は……“観測者”だから」
「観測者、ね」
晃輝は目を細める。
「観測者ってのは、何なんだ?」
「境界を越える者。見て、記録するだけで、未来を決定づけてしまう存在だよ」
静かな声だった。悲しみにも似た、透き通った響き。
「この世界は、何度も繰り返してきた。人類の滅亡、フェイタルの感染、地下への逃亡、レプリカントの誕生……それから、現実と虚構の統合。全部、何度も。僕はそれをずっと、観測してきたんだ」
空間が煌めき始める。
情報の粒が光の点となって弾ける。
数字、文字、記号、遺伝子情報、回路図、古代語。
すべてが混ざり合いながら、銀河のような回転を始める。
「君がここまで来た。それだけでもすごいことだよ。ようこそ、特異点。ここは君と僕の、最初で最後の交差点だ」
「……フェイタルに感染して、死ぬかと思ったけどな」
「うん。でも君は生き残った。そして、観測者としての資格を得た」
その瞬間、空間の密度が変わった。
情報が洪水のように流れ込む。晃輝の脳に、記憶と構造と記号が一片に流れこむ。
普通なら発狂するレベルだ。
「……お前は、ほんと最低だな、雨宮聖歌」
晃輝の声は低く、抑えられていた。
「全部……お前が仕組んだのか?」
思考が焼ける。
怒りとも混乱とも違う、何かが喉の奥で渦を巻く。
頭の中に、仲間たちの顔がよぎる。
全部が、誰かの意図で作られたものだったとしたら――。
「だったら、俺がしてきたことは? あいつらと過ごした時間は? 全部、最初から決められてたっていうのか?」
「違う。それは君が選んだことだよ。そして、彼らも変わっていった。君と関わって、予定から外れていった」
「……共感するように作られた感情。そんなの、意味あるかよ」
「意味はある。少なくとも、君に手を伸ばしたその瞬間は、誰の命令でもなかった。彼ら自身の意志だったんだよ」
「……黙れ」
晃輝の瞳が、怒りに燃える。
「観測してきたってだけの奴が、俺たちの人生に口を出すな。……脚本扱いされるなんて、冗談じゃねえ」
その言葉は、怒鳴りでもなければ叫びでもなかった。
ただ――心の底から出た、否定だった。
「それが観測者ってもんなら、俺は絶対にならねえ。たとえ全部を失ったとしても」
拳が震えていた。けど、その瞳には迷いがなかった。
「俺の選択は、俺のもんだ。世界が台本なら、それを破り捨てて、脚本の外を歩いてやる」
聖歌は静かに、ほっとしたように笑った。
「……それでいい。誰にも決められず、縛られず、自分で選ぶ。それが、君が特異点と呼ばれる理由なんだと思うよ」
「お前は……できなかったのか。そうやって、生きることが」
「怖かったんだよ。天才って呼ばれて、誰かの理想に押し潰されて……本当の自分がどこにあるのか、わからなくなってた」
「っは、自分を守れなかったくせに、観測者なんて笑わせるなよ」
晃輝の言葉に、聖歌は少しだけ目を見開き、そして笑った。
「……それ、ほんとだね。何も言い返せないや」
「全部、自分で選んできたって言えるなら、他人の選択も馬鹿にしないで済んだだろうに」
「君に怒られたことで、ようやく気づけたんだよ。ああ、自分は間違ってたなって。……ちゃんと、言ってくれてありがとう」
「気づくのが遅えよ。……お前、俺よりずっと天才だったんだろ」
「うん……そうだったはずなんだけどね」
言葉に、どこか寂しげな、でも安らいだ響きが混ざっていた。
「……それで?」
「ん?」
「まだ俺に言いたいことがあるのか?」
「うん。……君が脚本を破った瞬間から、僕にはもう、未来が見えなくなったね」
「観測できなくなったくらいで、何がそんなに特別なんだ?」
「観測って、未来を固定させてしまうことなんだよ。誰かが見ていると、人は自由じゃいられなくなる。でも君は、それを拒んだ。だから、この先は誰にも縛れない」
「……ようやく、スタート地点に立てたってわけだ」
晃輝は小さく笑った。
「そうだね。そして、君に頼みたいことがある」
「また伝言かよ」
「セラフィムの守護者――橘紫織。彼女を止めてほしい。ずっと僕のために動いてて、今も止まれないまま走ってる」
「成る程ね、俺もあいつには一発殴っておきたいと思ってた。止めるなら、俺のやり方でやらせてもらう」
「うん、それでいい」
「他にもあるんだろ?」
「……僕のレプリカント、仲良くしてあげて。あの子、不器用だけど、きっと君のこと、嫌いじゃないと思うから」
「ミオソティスのことか、……伝言ばっかだな。お前、俺の母親かよ」
その言葉に、聖歌は思わず吹き出した。
「……はは、そうかも。ちょっとだけ、そんな気分だったのかも」
「やめてくれ。気色悪い」
「ひどいなあ。最後くらい、優しくしてよ」
「優しくされたいなら、最初から全部仕組むな」
「……ごもっとも」
ふたりの間に、静かな沈黙が落ちた。
気まずさはなかった。ただ、言葉が要らなくなったのだ。
晃輝は、静かに背を向ける。
「……じゃあな、観測者」
「うん。さよなら、特異点」
光が満ちる。世界が解ける。
その先に何があっても、晃輝はもう、自分の意志で歩いていく。
これにて第二章終了です。
ありがとうございました。
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