鎌鼬1 木の葉払い
うつむいたまま、消え入りそうな声で少年は何かつぶやいた。
朝霧不動産の入り口に佇み、悠弥と視線はあわせないまま。
「お部屋探しですか?」
いつものように用向きを問いかけた悠弥に返ってきたのは、耳慣れない言葉だった。
「……木の葉払いで保証人は大天狗様、でお願いします」
小柄な少年は、小さく、でも確かにそう言った。
「はい?」
相手は一見したところ高校生くらいの少年だ。威圧的にならないよう気をつけつつ、悠弥は聞き返した。
……つもりだった。
少年は唇を噛み締めて、今にも泣き出しそうな表情で黙り込んでしまった。
(いや、待てまて、そんなに恐かったか? 落ち着け、俺。お部屋探しかどうか聞いただけだよな? ちょっと聞き返しただけだよな?)
「あの、すみません。ちょっとよく聞き取れなくて。えーと、とりあえず、こちらへお掛けください」
とにかく話を聞いてみようと心に決め、営業スマイルで席をすすめてみたが、少年はそこから動こうとしない。
(なんなんだ、どうしたってんだ。ていうか、どうすんだこれ)
互いに沈黙したままの長い一瞬。
その静寂を破ったのは、店の二階から近づいてくる足音だった。
階段を下りきったところで、その異様な空気を察したのか、足音の主はすぐに声をかけた。
こんにちは、と少年に優しく挨拶してから、悠弥に耳打ちするように尋ねてくる。
「何かあったんですか?」
朝霧遥は、この店の社長令嬢だ。悠弥より歳は二つ下だが、入社三ヶ月の悠弥にとっては上司である。
心配そうに声をかけてくる遥に、悠弥は眉根を寄せつつ事情を話そうとした。
「それが……」
「あの、木の葉払いで保証人は大天狗様でお願いしますっ!」
悠弥の言葉を遮り、今度は店内に響き渡るほどの声を上げる。
少年は意を決したかのように、遥の目をしっかりと見据えていた。
悠弥は、わけがわからないんですよ。と言いたげに遥と目を合わせた。ちょっと話の通じない不審な客であると伝えなければ。
しかし遥の方は、少年の声の大きさに一瞬目を丸くしただけで、すぐにいつものように微笑みを浮かべた。
「かしこまりました。どうぞ、こちらへ」
遥は二席ある接客用カウンター席の奥の方へ少年を誘導する。
「大丈夫ですか? 俺、接客しますよ」
子供とはいえ、変わり者の男性客の相手を女性にさせるのも気がひける。悠弥は小声で遥を呼び止めた。
しかし遥は小さく首を横に振った。
「大丈夫ですよ。ごめんなさい、悠弥さんにはまだ言ってなかったですね。うちには秘密の合言葉があるんです」
「秘密の……合言葉?」
「また後で教えますね」
言って遥は少年と向かいあう席に腰掛けた。
遥もまた、朝霧不動産の営業を務めている。賃貸部門に関しては彼女が責任者だ。
いつもの接客の流れ通り、悠弥は給湯室で茶を淹れ、少年に出す。
遥は少年に合わせて小さめの声で話をしている。
それとなく二人のやりとりに聞き耳を立ててみるが、これといって変わった話は聞こえてこない。
どうやら、少年は親元から独立するとのことで部屋探しをしているようだった。年の頃は18前後といったところだろう。幼顔で、社会人にしては頼りなさげに見えるが、高校を出て就職したばかりだと言われれば、そうかもしれない。
カウンター席は二組の客を接客できるよう、遥と悠弥それぞれの席に客用の椅子を二脚ずつ置いてある。テーブルには簡単な仕切りはしてあるが、会話は聞こえてしまう。
隣の席に陣取って作業しても良いのだが、少年は悠弥の存在を気にして、話しづらそうにしていた。
ちらりちらりと、少年がこちらの様子をうかがっているのがわかる。
(俺、なんか悪いことしたっけなぁ……)
世間話を交えた二人の話がいよいよ物件の話題に入ろうかというところで、カウンター席に二人を残し、悠弥はパーテーション裏のバックヤードに引っ込んで書類整理をすることにした。
席を離れる際にもう一度少年の顔を見たが、以前どこかで会った覚えもない。
(まぁ、こちらが覚えていなくても……ってなこともあるかもしれないしな……)
自身の行いを省みる。前職での仕事の相手か、はたまた学生時代か。それよりも幼少か……。
二十有余年生きていれば、何かしらの不実な行いもあるものだ。そしてそれは、往々にして「された」側の方がよく覚えている。
(いかん、もしかしたら、が多すぎてまったくわからん……)
大きく首を振って、その思いをかき消す。
きっと思い違いだ。単純に、不動産屋の男性社員が怖かっただけかもしれない。思い返せば自分も、昔は不動産業界は怖いという印象を持っていた。
高級そうなスーツと高級時計に身を包んだ強面の男が、踏ん反り返ってダミ声で対応し、契約するまで店から出してもらえない……。
実際に中に入ってみればそんなことはあるはずもなく、給料制で働く普通の営業マンだらけなのだが。
老舗の不動産屋には、ごく稀に映画の中から出てきたのかと思うような、悪役然とした恰幅の良い社長がいたりするが、それはご愛嬌である。
余計なことを考えつつも整理しておくべき契約書類に手をつけたその時。
入り口のドアベルが鳴り響いた。