第57話 『女王の準備』
街外れにあるプレイステッド商会。
今、その社屋に1人の男が入っていく。
すでに一度傾いたこの商会は、看板をそのままに以前までとはかなり異なる内情となっていた。
堅気の従業員らが去った後に、入れ替わるようにして入って来たゴロツキのような連中が働くようになったのだ。
その商会を取り仕切っているのは以前から社長を務めていた男だが、彼はあくまでもお飾りの社長に過ぎない。
彼を操っているのがこの商会を安く買い叩いた男なのだ。
「バンフォールドさん。お疲れ様です」
そう言って社長がペコペコと頭を下げるのを冷たい目で見ながら、バンフォールドと呼ばれた老人は尋ねた。
「カリスタは小銭稼ぎに出かけているのか?」
「いえ、いよいよマージョリー嬢が大統領の息子イライアスと婚約を発表するそうです。今はその準備に人を集めています」
社長の言葉にバンフォールドは細い目を目一杯大きく見開いた。
「それはいい。イライアスは将来的に大統領になることが有望視されている。あのお嬢さんが奴とくっついてくれれば、こちらとしても旨味があるってもんだ。末長いお付き合いをお願いしたいぜ」
そう言うとバンフォールドは社長に色々と指示を与え、自分が個室として使っている社長室へと入って行く。
そしてこの古びた建物には不釣り合いな豪華な椅子に、ふんぞり返るようにドカッと腰を下ろした。
その途端に後ろから彼の首に何かが巻き付く。
バンフォールドは目を剥いた。
「おぐっ……」
咄嗟に声を上げようとしたがバンフォールドだが、呼吸がままならずに喉が絞まってしまう。
そのせいで声を発することが出来ない。
そんな彼の耳元で何者かが囁いた。
「用心棒がいなくて残念でしたね。バンフォールド氏」
それが女の声だと分かった時には、バンフォールドは意識を失っていた。
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「まったく。人使いの荒いお嬢様ね。まあ、おかげで小遣い稼ぎには困らないけど」
そう言いながらカリスタは街外れのうらぶれた路地を進んでいた。
マージョリーから頼まれた人員の手配はすでに済ませている。
彼女がイライアスとの婚約を発表するためのお膳立てをする人員たちは今頃、会場に向かっていることだろう。
自分のやるべきことは終わった。
カリスタが今歩く路地は浮浪者たちが道端に寝そべっているような場所だが、その光景もこのすえた臭いも、彼女にとっては日常だった。
捨て子として生まれ、ヤクザ者に拾われて育てられた。
今じゃ盗み、詐欺、恐喝と大抵の悪事には手を染めている。
彼女のような裏社会の女は男と同じように汚い仕事を一人前にやれるようにならなければ、売春宿に売られるだけだ。
それだけは絶対に受け入れられず、カリスタは男のように髪を短く刈っているのだ。
そして生きる術を見つけてのし上がってやろうと目論んでいた。
そんな自らの運命をいつものように呪いながらカリスタが角を曲がった時だった。
「よう。おまえ、プレイステッド商会のカリスタだろ?」
その声と共に突如として頭上の建物から1人の人影が舞い降りてきた。
それは黒い頭巾を被った女だ。
「何で私を……」
そう言って小刀を抜くカリスタだが、間に合わなかった。
敵は一瞬で間合いを詰めて来て、強烈な膝蹴りでカリスタの腹部を突き上げたのだ。
「うぐっ……」
カリスタは激痛のあまり、一瞬で気を失った。
☆☆☆☆☆☆
「これを街の目立たない場所から鳩便で飛ばして。ブリジット宛てよ」
クローディアは急いでしたためた手紙を小姓の1人に託した。
さすがに他国であり、迎賓館の庭でコッソリと鳩便を飛ばすのは密偵行為を疑われてしまうため、そうせざるを得なかったのだ。
ブリジットへの手紙にはクローディアの決断が記されている。
クローディアの独断で色々と物事を決めてしまうことになるため、盟友であるブリジットにはきちんと話しておかねばならない。
「さあ、準備を整えないとね」
日が暮れようとしていた。
多くの部下たちが出払った迎賓館では、クローディアが慌ただしく小姓らと共に身支度を始めている。
決戦は今夜9時に迫っていた。
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「イライアス様……イライアス様」
何度か名前を呼ばれたところで、イライアスはハッとして顔を上げた。
最終演説会の会場にいち早く入っていた彼は控え室に待機している。
双子の従者であるエミリーとエミリアが心配そうにイライアスを見つめていた。
そこでイライアスは自分がしばらくの間、ボーッとしていたことに気が付いた。
「あ、ああ。すまない。どうした?」
少々間の抜けた顔でそう尋ねるイライアスに、双子姉妹は少しばかり迷ってから口を開いた。
「……本当にこれでよろしいのですか?」
「今ならまだ引き返せますが」
珍しく気遣うようにそんなことを言う双子だが、イライアスは首を横に振った。
「もう運命は回り始めたんだ。今さら後戻りは出来ないさ。おまえたちも覚悟を決めてくれ」
そう言うイライアスの顔は悲壮な覚悟に彩られているのだった。