第36話 『女王の気がかり』
「……イライアス」
迎賓館をこっそり抜け出し、雨の降る街を1人歩くクローディアが目にしたのは、やはり1人で雨の中を歩くイライアスの姿だった。
数十メートル先の路地を歩く彼の足取りは重く、傘も差さないためにその体はすっかり雨に濡れていた。
そしてイライアスはクローディアに気付くこともなく、どこかへと歩き去って行く。
その明らかにおかしな様子が気になりクローディアはゆっくりと彼の後を追った。
「何か……あったのかしら」
クローディアはそう呟きつつ、自分でもおかしなことを言っていると思った。
人は何もなければあんなふうに雨の中をずぶ濡れになって歩いたりしない。
彼に何かがあったのだ。
自分でも気付かぬうちに、クローディアの足取りは早くなっていた。
☆☆☆☆☆☆
イライアスは力のない足取りで路地を歩いていた。
雨の雫が前髪を伝い落ちるが、傘を差す気にもならない。
雨の中を急いで行き交う人々が驚いて、ずぶ濡れのイライアスの姿を見るが、彼は人目を避けるように路地から路地へ細かく曲がりながら足を進めていった。
その足が向かう先は決まっている。
イライアスは街中の墓地に辿り着くと、ミアが埋葬されている墓石の前に立った。
「俺がここに来る時は、いつも決まって暗い顔をしているだろうな。もっと晴れやかな顔でおまえを供養したいんだが……」
悄然とした面持ちでそう呟くとイライアスは両親への援助を断られた話を墓石に向かってぽつりぽつりと話した。
死者への声掛けに返事はない。
かつて優しい笑顔でイライアスの話に相槌を打ってくれた彼女の声は、どんなに願っても二度と聞くことは出来ないのだ。
「ミア……俺はおまえを死に追いやった女と結婚しなければならないかもしれない」
イライアスはそう言葉にしてみて、吐き気がするほどの嫌悪感を覚えた。
マージョリーの顔を見る度に憎しみが腹の底で熱くグルグル煮えたぎる。
いつもそれを飲み込み笑顔で彼女に接するのは、全ては未来のためだった。
「俺はこの国を変える。そのためだったら毒の果実だって食らってやるさ。その結果としてこの身とこの心がどうなろうとも構わない」
ミアが死んでからイライアスはこう考えるようになった。
この先、自分の身に起きる辛い出来事はすべて罰として甘んじて受けようと。
それはミアを守れなかった自分への罰なのだ。
憎んでいる女との唾棄すべき政略結婚もその一つに過ぎない。
だが……イライアスはそれを受け入れるつもりはあっても、納得するつもりはなかった。
「ミア……」
その名を呼ぶとイライアスは墓石の前に跪く。
まるで懺悔する罪人のように。
「こんなこと……おまえは望んでいないかもしれない。だが、俺はもう俺自身の幸せを追い求める気にはなれないんだ。この命は大義のために捧げると決めた」
この共和国は選挙によって大統領を選出する民主化された国ではあるが、実際には立候補して当選できるのは貴族ばかりだった。
平民には立候補する資格もない。
ゆえに平民の中で財力を持つ者は爵位を買って貴族になる。
金の無い者は当然そんなことは不可能だった。
そして国の中枢を担う政府に属する官僚たちも貴族の子女ばかりだ。
依然として貴族と平民の間には大きな隔たりがある。
イライアスはその隔たりを無くし、貴族制度を廃止したいのだ。
平民の中にも、金の無い者たちの中にも、国のためにその才覚を振るえる者がいるはずだ。
そうした考えからだ。
だが、イライアスは自覚していた。
自分が動く本当の原動力は、愛しい女を失ったことによって生まれた腹の奥底の憎悪なのだと。
自分が胸に抱くのは国を良くしたいという大志なのだと自身に言い聞かせてみても、心の声まではかき消せない。
「これは復讐なのかもな。おまえを死に追いやったマージョリーや、貴族社会への。俺は奴らが……そして俺自身が許せないんだ」
イライアスがそう言ったその時、ふいに彼の頭上から降る雨が遮られた。
誰かが後ろに立ち、広げた傘を差し出してくれたのだ。
「……そんなずぶ濡れで、復讐なんて不穏なことを呟かれても、安らかに墓で眠る人は困ってしまうわよ」
その声に弾かれたようにイライアスが振り返ると、そこには傘を手にした銀髪の女王・クローディアが立っていたのだった。




