第14話 『女王の悪阻』
「うぅぅ……」
洗面器の前で背中を丸めてブリジットは呻いた。
ボルドはそんな彼女の背中を優しく擦る。
妊娠が判明して間もなく、ブリジットは連日の悪阻に襲われるようになっていた。
戦場ではその剛腕で武器を振るって百の敵を屠る無敵の女王も、こうした妊婦特有の苦しみからは逃れられない。
ブリジットが妊娠を決意してから、妊娠と妊婦についてまったくの無知だったボルドは、そうした知識を助産師からみっちりと教えられていた。
ブリジットを傍で支えるためだ。
だが、悪阻が始まってからブリジットには、ある変化が起きていた。
「ボルド。おまえは外にいてくれ。シルビアを……呼んでくれ」
「は、はい……」
ブリジットは悪阻で苦しむ自分の姿をボルドにあまり見せたがらなかった。
ここ最近、ボルドはそうして遠ざけられることが増えている。
いつも彼女の傍にいて彼女を支えたいという思いはあるものの、当の本人がそれを望まないのであれば、ボルドもそうする他なかった。
(ブリジット……私に心配をかけまいとしているんだろうか)
こういう時にボルドに出来るのは、次に彼女に呼ばれた際にいつもと変わらず笑顔で接するべく、気持ちを切り替えることだけだ。
それ以外には出来ることが何も無い。
そんな状況にボルドは悄然としつつ、ブリジットの私邸の一階に降りた。
厨房でお茶でも飲んで気分を変えようと思ったからだ。
すると一階の玄関口から1人の来客が姿を見せた。
「あ、ボルドさん」
そう言ったのはボルドもよく見知った友だ。
「アデラさん」
ダニアの女にしては小柄なその少女は、鳥使いの部隊である鳶隊に所属するアデラだった。
荒くれ揃いのダニアの女の中では例外中の例外的に物腰の柔らかい、おとなしくて優しい少女だ。
彼女は鳶隊に新たな鳥を導入するための許可を得るべく、ブリジットの元を訪れたのだった。
「すみません。アデラさん。ブリジットは今、お取り込み中でして……」
ボルドがそう説明するとアデラは心配そうにボルドに視線を向けた。
「大丈夫ですか?」
「かなり苦しそうでしたが、誰もが通る道だとブリジットは気丈に仰っていました」
「いえ……ブリジットのことだけではなく、ボルドさんも元気が無いようなので」
そう言うアデラにボルドは内心の曇りが顔にありありと表れてしまっていたことを知り、少し項垂れた。
「すみません。あまりブリジットのためにして差し上げられることがなくて……」
そう言うとボルドはアデラに事情を説明した。
それを聞き、アデラはふむと頷いて、笑顔を見せる。
「ボルドさん。それは女心ですよ」
そう言うとアデラは彼女らしい優しげな笑みを見せた。
「ブリジットはきっと、ボルドさんには自分が悪阻で苦しんでいるお姿を見せたくないのだと思います」
「ですが……お加減の悪い時こそ私はお傍でブリジットをお支えしたいのです」
「そのお気持ちは分かりますよ。でも私も女なので、ブリジットのお気持ちのほうが理解できるのです。好きな人に……見てほしくはないですね。そういうのって理屈じゃないんです」
そう言うとアデラは指で自分の唇に触れた。
それを見てボルドはようやく気付いたのだ。
ブリジットはボルドと口づけをするその唇が、嘔吐によって汚れているのを見られたくないのだと。
それを察することが出来ずに内心で寂しく思うのは、自分の独りよがりでしかないとボルドは痛感する。
そんなボルドにアデラは優しく言った。
「少し見守りましょうよ。ブリジットがボルドさんを何よりも大切に想っていらっしゃるのは間違いないのですから。今は静かに見守る時だと思います」
「アデラさん……すみません。私が至らぬばかりに。ご親切にありがとうございます」
そう言うボルドにアデラは柔和な笑みを浮かべたまま首を横に振った。
彼女のおかげでボルドは少しだけ心の重しが軽くなったような気がする。
そして何だか以前よりもアデラが大人びて見えるような気がしたボルドは、ふと胸に浮かんだ疑問を口にした。
「アデラさん。恋人がいらっしゃるのですか?」
「へっ? い、いやその……は、はい。実は……」
虚を突かれたようにアデラは顔を赤らめ、しかし恥ずかしそうにそれを認める。
最近、新都に出入りしている共和国一行の武官と良い仲になっているのだと、彼女は照れた様子で話してくれたのだった。