第九集:疑惑
「う、うわあああ!」
秋、残暑による暑さと、北から流れ込んでくる冷たい風がぶつかり合い、不安定な天気が続いていた。
屋根を穿つかのように降り注ぐ雨や雹。
吹き荒れる突風は成長途中の木々をなぎ倒していく。
そして、ついにその日はやってきた。
怒り震える巨大な龍のうねりの様に天候は荒れ、野分が到来したのだ。
川は土砂を巻き込みながら増水し、近隣の村々を田畑や家ごと流していった。
「た、助けて……」
死者は中原全体で一千万人にも及び、国土に大河を持つ国々にとっては大打撃となった。
瓏国も例外ではない。
大小合わせての三十の村が流され、農民およそ二百五十万人中、生き残ったのは百九十万人弱。
あと少しで収穫だった米も麦も粟も、掛け替えのない尊い命とともに濁流の中へと消えていった。
「陛下! 今こそ被害に遭った民に太倉を開き、救いの手を差し伸べるべきです!」
皇宮で行われている被害報告の最中、悠青はいつまでたっても災害支援策を議題に上げない文官たちにしびれを切らし、声を上げた。
皇宮の穀物庫である太倉には、生き残った人々が一冬を越せるくらいの蓄えはあるはず。
すべては出せなくとも、近隣の城から集めれば、被災者全員を救うことが出来るだけの食料は確保できるはずだ。
「お願いします! 陛下!」
しかし、悠青の声は皇帝の心には響かなかった。
「いいか、悠青。農地の約三分の一が壊滅してしまったのだ。もし太倉を開けば、首都黎安に住む人々の生活はどうなる? 新たに購入できる農作物も少ないというのに……」
「ですが、我々が春まで粗食を貫けば、充分に足りるでしょう。贅沢を控え、この緊急事態を瓏国民全員で乗り越えるべきなのでは?」
「ううん……」
悠青は絶望を感じた。
この状況にではなく、目の前で悩んでいるふりをしている父と、その周囲で顔色を窺いながら皇帝の意見に頷く文官たちに。
着の身着のままで被害を訴えに来た諸侯王たちの使いは青ざめ、泣き出した者もいる。
それを見ても、皇帝は首を縦には振らない。
ただただ、被災者たちが啜り泣く声を鬱陶しそうに顔をしかめるだけ。
「兄上、私も民を救いたい気持ちはありますが……。皇宮の太倉は皇族や、黎安の民の食生活を護るためのもの。悲しいことですが、時には切り捨てることも必要なのではないかと、私は思います。どう頑張ったところで、失った命は戻らないのですから。兄上の優しさは民にも伝わることでしょう」
恒青も皇帝と同じ意見のようだ。
それもそうだろう。
他人の命をどうとも思っていないのだから。
(どうすれば……。鳳琅閣の倉庫には三千人分ほどの食料しかない。あれでは、小さな村一つ救うので精一杯だ……。わたしの邸とて大差ない。これでは、このままでは……)
悔しさと己の無力さに心が張り裂けそうになっていると、外から太監が誰かを呼び込む声が聞こえた。
「香王殿下!」
朝堂がざわついた。
まさか、現れるとはだれも予想していなかったからである。
(こ、黄睿……)
悠青は懐かしい人物の登場に、心が震えるのを感じた。
簫 黄睿は淑太妃の息子であり、その地位は親王で皇弟。
生前の靖睿を心から慕っており、それもあってか、皇帝犀睿とは犬猿の仲である。
皇宮にはめったに近づかない。
黎安にある自身の王府にさえも。
戦況や公務の報告も、部下に運ばせているため、事実、ここ二十年は顔すら合わせていなかった。
「皇帝陛下に拝謁いたします」
轟く雷鳴のような声に、文官たちは恐れ慄いた。
「楽にしてよい。何をしに来た、香王」
「陛下があまりにも愚鈍なので、代わりに被災地を救おうと馳せ参じた次第」
「な、なんだと⁉」
皇帝は顔を真っ赤にして玉座から腰を浮かせた。
「ち、朕の何が愚鈍だと……」
黄睿は皇帝を無視して悠青に身体を向けた。
「悠青、私と、我が雅黄軍とともに被災地へ行こうじゃないか。そう多くはないが、我が領地にも穀物庫はある。そこからいくらか支援できるだろう。足りない分は、周辺の城にでも支援してもらえばいい。私の顔は怖いからな。きっと出すだろう」
「お、叔父上……。ありがとうございます。喜んでご一緒いたします」
二人のやり取りに、皇帝は悔しそうな顔を浮かべながら小さく舌打ちした。
再び玉座に深く腰掛けると、吐き捨てるように言い放った。
「ふんっ……。勝手にするがいい。悠青、あまり香王と長く過ごすと悪い考えが移ってしまう。なるべくはやく皇宮へ帰還し、報告するように」
「かしこまりました、陛下」
悠青と黄睿は二人で一緒に朝堂を後にした。
「あの、叔父上……」
「ふふ。悠青、お前、何やら面白そうなことをしようとしているとか」
「……と、董大師からお聞きに?」
「さらに、燕国皇帝陛下……、祁陽から聞いたのだ」
「あらら……」
いくら仲が良いとは言え、広まるのが早すぎやしないだろうか。
「安心しろ。すべて暗号でやり取りしている。阿保な兄には解けぬ暗号でな」
「ちょ、叔父上! ここはまだ皇宮ですよ!」
「あはははは。誰が私を捕縛できると思う? 禁軍大統領か? 御林軍か? 全員、なぎ倒してくれるわ」
「ああ、もう……」
黄睿は愉快そうに笑いながら悠青の頭を撫でた。
「お前は本当に馬鹿兄に似なくてよかった。むしろ……。うん。靖睿兄上に似ている。私がこの世で一番尊敬している人だ」
「そ、そうなのですね……」
胸がチクリと痛んだ。
悠青にとって黄睿は叔父だが、靖睿にとっては可愛い弟なのだ。
祁陽と黄睿は生まれ年も月も同じで、よく靖睿をとりあって喧嘩をしていた。
それが微笑ましくて、心配ながらも、嬉しかった。
「お前にはいつか軍が必要になるだろう。その時、ぜひとも加えてほしい部隊があるのだ」
「え、そんな……。いいのですか?」
「ああ。もとは靖睿兄上の軍にいた者たちの跡継ぎでな。父親たちから靖睿兄上のことを聞かされて育ったから、とても良い兵士に育っている。悠青には、ぜひとも継いでもらいたい。兵も、靖睿兄上の志も」
雲が厚く立ち込める秋空を見つめながら、黄睿は懐から取り出した短剣を握りしめた。
(……あ)
それはいつかの黄睿の誕生日に、靖睿が贈ったものだった。
どんな過酷な戦場からも、生きて戻れるように、お守りとして。
「……そう言っていただけて嬉しいです」
「ふふ。お前こそ、その言葉、きっとあの阿保は怒り狂うぞ」
「それもそうですね」
二人は顔を見合わせて笑い合った。
「では、支度を済ませ、明日の朝出立しよう」
「行くのならば、少しでも早い方が良いでしょう。わたしは準備が出来ております」
「……たった一人でも行く気だったのだな」
「一応、師匠も同行してくださいます」
黄睿はすべての準備を終えたうえであの場に立っていた悠青の姿を思い出し、つい笑いだしてしまった。
「……あはははは! あの馬鹿兄には何も見えていないのだな。逆に安心する。お前という、素晴らしい贈り物の真価が隠されていて。……嬉しいが、ここまでくると、疑問は余計に強くなるな」
「疑問、ですか?」
「皇太子になることから逃げ回っていたことだ。お前が皇位を継げば、何の憂いもないというのに」
雨が降り始めた。
(心の弱い王では、国は護れないからです)
自分を侮辱するのは慣れている。
しかし、黄睿の前で、『靖睿』を傷つけるわけにはいかなかった。
「そのことについては、いつか、お話しいたします」
雨音にかき消されそうになるほどの弱弱しい声しか出なかった。
「そうか……。その日を待っているぞ。では、準備が出来次第、門前に集合しよう」
「はい、叔父上」
雨脚は強く激しくなっていく。
誰がどう見ても行軍には向いていない。
しかし、それは陸地を主な戦場とする者たちにとってだ。
雅黄軍は陸の他に、湿地や水上も主戦場に出来るほどの水軍を有している。
防御力よりも機動性に重点を置いて作られた武具の数々。
それらは生前の靖睿が黄睿と何度も話し合って画策していたものだった。
そのすべてを、黄睿は作り上げたのだった。
靖睿を失った後も、復讐心で己を失いかけた時も、ただただ、共に計画した夢の欠片を集めながら。
(どうかわたしのことなど忘れて生きてくれと願っていたけれど、これほどまでに心強い味方になってくれるとは……。本当に、ありがとう。黄睿)
長い階段を降りていく姿を見ながら、悠青は頷き、天を仰いだ。
(かつてのわたしに誓う。最後はわたしが必ずこの手で戦う。黄睿に、背負わせたりはしないよ)
心の中で、桂甜が包拳礼をした。
どこまでも、一緒に戦ってくれるようだ。
悠青は準備をしに邸へ戻り、そこで待っていた杏憂と合流した。
「陛下はどうだった?」
「……ある意味、期待を裏切らない人だということがわかりました」
「そうか……。まあ、残念な人間はいつの世もいるものだ。それも、太陽を塞ぐ雨雲の様に天高い場所にな。今回流された村々には江湖の者たちも向かっている。食料は難しいが、薬は十分に出せるだろう。すべての薬舗を開くよう、伝えてある」
「ありがとうございます」
「今回ばかりは桂甜では救えない。悠青、親王として、胸を張って向かえ」
「はい。兵部に支援を渋られた軍幕は、紫董軍が予備を提供してくれました。彼らは国境線の守備に行っているので呼び戻せませんが、物資の提供はし続けてくれるとのことです。それに、母上と大伯父上が毛布などをかき集めてくれています」
「梅盟主が呼びかければ、山岳の民も応えるだろう。ただ、賢妃様は大丈夫なのか? 後宮での肩身が狭くなったりは……」
「母上は気にしないでしょう。強い人ですから」
「それなら安心だな」
その時、門から侍従長が緊張した面持ちをしながら速足でやってきた。
「恵王殿下、お客様がお見えです」
「わかった」
悠青が門へ向かうと、そこに立っていたのは変装した賢妃だった。
「は、えっ! お早く、中へ」
「ここで大丈夫よ。これを渡したくて……」
賢妃が渡してくれたのは、粗末に見えるがかなり頑丈な木で作られた箱だった。
「これは……」
「あなたは知らないけれど、私にとっては……。とても大切な親友が大事にしていた日記よ。私はこれを読んで、あなたを育てたの。どうしても、そうするべきだと思ったから」
「は、母上……」
「もう行くわ。毛布はすでにあなたが用意した支援物資の馬車に紛れ込ませてある。さぁ、行きなさい。あなたなら、救えるわ」
賢妃は強く悠青の手を握ると、名前も身分も示すものが何一つついていないお忍び用の馬車へと乗り込んだ。
馬車はぬかるんだ道を、泥をはね上げながら進んでいく。
やけに運転が巧いと思ったら、桃晶隊の宮女が男装して操っていた。
「何を受け取ったんだ?」
杏憂が後ろから覗き込むように現れ、興味深そうに悠青の手の中にある箱を見つめた。
「何でしょう……」
精巧に作れれているようだ。少し力を入れる。
中身が見えた。
息が止まるかと思った。
箱を開けると、中に入っていたのは、亡き太皇后の日記だった。
「は、母上……」
悠青は箱を持つ手が震えた。
「悠青、私はずっと不思議だったのだ」
杏憂は何かが腑に落ちたような、清々しい顔をして悠青の肩を掴んだ。
「これは育児記録だ。だから、賢妃様は君に必要な物を何もかも用意できたのだろう。夫の目をかいくぐり、君を育てることが出来たんだ。唯一の弱点ともいえる心の弱さという共通点を持つ、靖睿陛下の様に」
「で、でも、なぜ……」
「先ほどの言葉がすべての答えだ。賢妃様は、太皇后陛下から育児記録を受け継いだ言皇后陛下と親友だったのだな」
「そ、そんな話、生前は一度も聞いたことがありませんでした」
「宮女たちは互いを護るために、彼女たちにしかわからない絆で繋がることがある。それは夫にさえも話さない。それが生まれてくる子供たちを護り合う唯一の方法だからだ」
誰を信じればいいかわからない状況に置かれた宮女たちが友情を築くのは非常に困難だ。
昨日の友人が明日には子供を狙う敵になるかもしれない。
(だから、彼女は江湖と繋がりを持つ宮女を親友に選んだのか。いざという時は、子供を皇宮の外へと逃がせるように)
それが、言皇后なりの、夫を、皇帝を支えるという決意の一つだったのだろう。
(子供、か……)
靖睿のときには子供は一人もいなかった。
余裕がなかった、と言えば、都合のいい言い訳になるだろう。
当時はただ怖かった。
護りたい者が増えていくことが。
(もう、逃げたくない)
瀏亮の笑顔が浮かぶ。
(彼女や、未来を彩り生きていく子供たちが、安心して暮らせる国にしなければ)
「行くぞ、悠青。被災地支援は時間との勝負だ」
「はい!」
悠青は育児日記を箱ごと碧霄領域へとしまうと、靴を履き、すぐに荷物をもって門前に待機させている馬、紅梅と白梅に杏憂とそれぞれ乗って駆けだした。
ぬかるむ地面をものともせずに奔る。
雨脚は強くなる一方だ。
黎安と外界を繋ぐ門に着くと、その外には、美しく整列している雅黄軍の姿があった。
「悠青! 来たか。私の側近の部隊はすでに発ち、先に支援を始めていることだろう。我々も急ごうではないか」
「はい、叔父上」
曇天に、雷鳴のような号令がこだまする。
「此度の敵は天災である! 油断することなく、人命救助に全力を注ぐのだ! 行くぞ!」
間髪入れず、雨を切り裂くかのように響き渡ったのは兵士たちの「はっ!」という咆哮。
馬が嘶き、一斉に駆けだした。
支援物資には濡れないよう蝋引きの布がかぶせられ、それが突風に激しく揺れている。
簡単にはいかないだろう。
それでも、救える可能性があるのなら、手を伸ばし、取りこぼさないよう動き続けるのみだ。
☆
降りしきる雨の中、少々歌舞いた風情の馬車が皇宮前に止まり、中から濃い紫色の背広を着た男、アンリ・メルガルが降りてきた。
御者は口元を黒い布で覆い、目元には黒い鳥の羽根が着いた鼻まで覆う仮面をつけている。
「先に帰りなさい。私は呪文で戻りますから」
御者はこくりと頷くと、そのまま街の方へと消えていった。
アンリは皇宮の門番に玉を見せ、東宮までは太監に案内された。
「お久しぶりですね、恒青殿下」
この前と同じように、靴を脱ぎ室内へ入るとすぐに板間へ正座し、にこにこと微笑んだ。
「何の用だ。それに、どうやって……」
アンリがポケットから玉を出すと、恒青はゆっくりと近づき、それを手に取った。
「……いつ作った、こんな贋作」
「先日、こちらへお邪魔した際に真似させていただきました」
「大罪だぞ。今すぐにでもお前を殺せるが、どうする?」
「桂甜の情報をお持ちしました」
「……話せ。それ次第では、その玉、今後も使わせてやろう」
「感謝いたします、殿下」
恒青が兀子に腰かけると、アンリは笑顔で話し始めた。
「桂甜の種族がわかりました」
「種族、だと?」
「ええ。殿下はあのように紅蓮華のような赤い髪をした〈人間〉を見たことがおありですか?」
「馬鹿にしているのか?」
「いえいえ、単なる確認です。私が調べたところによると、桂甜は……、煌仙子でした。中原の言葉では煌仙子ですかね」
「煌仙子? 聞いたことが無いな。獣化種族どもとはちがうのか」
「ええ。彼らは……、そうですね。言うなれば、崑崙に住まう西王母陛下の戦士、と言ったところでしょうか」
「せ、西王母だと⁉ 伝説上の仙女ではないか! お前、私をからかって……」
恒青はまたいつものようにカッとなり、目の前の男に殺意を向けたが、アンリはそれをものともせずに笑って見せた。
「私が魔法使いだということはお忘れですか?」
「……しかし、そんな、せ、仙女の戦士……? 簡単には信じられん……」
「正確には、彼らのような存在を太古の中原では仙子族と呼んできました。西欧では他の名前で呼ばれております。〈妖精〉と」
「な、なんなのだそれは……」
「彼らは境界を護る者。多次元波長であり、いつの時代のどの場所にも同時に存在することが可能で、並行世界を渡り歩くことが出来る唯一の種族だと言われております。その身には長命の呪を宿している代わりに、他のどんな呪にもかからない神聖かつ邪悪な肉体と魂をもっているとか」
「きょうかい? たじげん……、はあ? 簡単に言え。頭が痛くなってきた」
恒青は額に手を添え、うつむいた。
「彼らには、魔法使いの呪術など効かないということですよ、殿下」
「だから、それがなんだと……」
「悠青殿下は不在のようですねぇ」
「突然何だ。兄上は忙しいのだ。今日も父上に楯突いていたが、それもいつものこと……」
何かが頭の中で光を放った。
それを認めたくない、野蛮なほどの暴力性が心の中で暴れまわるが、無駄だとすぐに気付いた。
「お前、それは……。あ、兄上もそうだと言いたいのか?」
頭を上げ、アンリを睨みつけるが、何の意味もなかった。
「その通りです。さすが、皇太子殿下は賢くていらっしゃる」
恒青は心臓がうるさく脈打つのを感じた。
「で、では、兄上を治した先生は……、あいつは……、その、仙子だとでもいうのか」
「はい。人間を煌仙子に変えられるのは仙子しかいません。それも、西王母陛下に近しい、強い力を持った存在でしょう」
「そ、それが……、な、なんだ……。あ、兄上が助かったのなら、そ、それで……」
「仙子族は総じて、変幻の術が使えます」
「お、お前! まさか、ま、まさか……、桂甜と兄上が同一人物だとでも言いたいのか!」
「実際、そうなのでは?」
「あ、兄上の成人の儀には、桂甜も出席していたぞ。二人が同一人物ならば、それこそ、分裂でもしない限り……」
目の前がおかしくなったのかと、恒青は瞬きを繰り返した。
アンリが、三人いるのだ。
「魔法使いでも、このくらいのことは出来ます。まぁ、分身に違う姿をさせることは出来ませんが。仙子や煌仙子ならば可能でしょう。なんせ、多次元波長ですから」
恒青は兀子から滑り落ちるようにうなだれると、笑い出した。
「はは……。あははははは! 兄上は昔から道端に生えている雑草にすら温情をかけるお方だ。桂甜の姿の方が人助けがしやすいこともあろう。それの何が悪いのだ」
「燕国に行ったのは、何故でしょうねぇ?」
恒青の眉がピクリと動いた。
「……何か理由があるのだろう。兄上を疑うのか?」
アンリは一人に戻りながら、ゆっくりと話した。
「燕国皇帝陛下の側近である劉大将軍が率いる紅劉軍と、今でも練兵を行っている紫董軍董大将軍。その三女を悠青殿下が正妻として娶ったのも偶然だと? それに、先ほど恒青殿下は、悠青殿下は忙しいとおっしゃりましたね? 悠青殿下と共に被災地支援へ向かったのは、あなたのお父上をこの世で一番憎んでいる香王殿下が率いる雅黄軍。さて、これはいったいどういうことなのでしょうか。かつて、靖睿陛下を支えた二軍が、今は悠青殿下のもとへ集結していますねぇ?」
「それに」と、アンリは心底愉快そうに笑いながら付け加えた。
「燕国皇帝陛下は、靖睿陛下と義兄弟の契りを交わした傑物。その母親は言わずもがな……。悠青殿下は、種族が変わってしまうほどの呪を負ってまで、何をするおつもりなのでしょうねぇ?」
汗が止まらなかった。
この薄汚い世界で、唯一の清水。
泥の中で咲く蓮のような兄を愛してきた。
信じてきた。
いつか、自分だけのものになると思って。
「……兄上は、私がしていることを知っているのだろうか」
「もしご存知だったら、どうなさるでしょうねぇ」
「許さないだろうな、絶対に。私は嫌われる。でも、兄上は、きっと、見捨てたりしない……」
「桂甜はどうでしょうか。一応申し上げておきますが、悠青殿下が本当に、本当に煌仙子なのだとすれば、もう心すら以前の悠青殿下ではないと申し上げなければなりません」
「何故だ」
「煌仙子は、仙子族に仇なすものを屠る存在です。その性格は限りなく冷徹かつ冷静。そして、倫理観よりも使命を重んじます。時には、愛情すら天秤を傾けるだけの重しにはなりえないのです」
「私を、こ、殺すとでも?」
「可能性はあるでしょうね」
「確かめる方法は⁉ 兄上が、煌仙子だと!」
恒青はまるですがるようにアンリのスーツの襟をつかみ、詰め寄った。
「身体のどこかを切るのです。仙子族は人間のような血液ではなく、血煙が出ます。もし悠青殿下の身体が傷ついた時、そこから煙が出れば……、煌仙子だという証拠になりましょう」
突風が雨を巻き上げながら雨戸にぶつかる。
嫌な音がした。
美しいものが崩れ去るような、そんな音が。