第六集:胡桃
治療が終わり、燕国へ一度戻ることになったのは、作戦から二週間後だった。
患者たちはようやくまともに話せるようになり、食事も一人でとれるようになった。
あとは軍医でも対応が可能だ。
杏憂は軍医に細かく飲ませる薬の種類や順番を指導し、悠青は三十日分の調剤を済ませた。
天蓋に移されていく兵士の中に息子を見つけた嶺将軍は、堪えきれなかったのだろう。
その身体を抱きしめていた。
照れたように笑う二人の顔が、とても眩しくて、美しくて。
治療の疲れが一気に吹き飛ぶような、そんな光景だった。
「感謝の言葉を紡ぐ時間すら足りません。なんとお礼を申し上げればよいか……」
そして、到着した燕国皇宮。
陽が傾き始めたことによる西日が、朝堂の背後から光をもたらし、まるで祁陽が輝いているように見えた。
そんな祁陽に、英雄が凱旋したかのごとき扱いを受け、悠青は少し居心地の悪い思いだった。
杏憂はとても嬉しそうだが。
「ご依頼いただいた仕事を全うしたまでです。この力が及ぶことならば、いつでもお力になりましょう」
「感謝いたします。これは感謝のしるしとして受け取っていただきたいのですが……」
祁陽が太監に渡し、悠青と杏憂の前に運ばれてきたのは、藍色の美しい玉だった。
「それがあれば、燕国のどこでも自由に、検閲を受けることもなく出入りが可能です」
「恐悦至極に存じます。謹んで頂戴いたします」
その後は夕方から行われる宴席の説明を受け、一度解散となった。
宿に戻ると、悠青が口を引き結び、難しい顔をしだした。
「なんだその顔は。何も問題なかったじゃないか」
「その玉……」
杏憂が持ち帰った箱を開け、中から二枚の玉を取り出した。
「これがどうした?」
「幼い頃、わたしが祁陽の誕生日に贈るために選んだ石と同じなのです」
深い青色の天藍石に金色の黄鉄鉱が揺蕩う美しい石、瑠璃。
まだ十歳だった子供がわざわざ貿易船にまで出向き、太監に手伝ってもらいながら金額の交渉をし、買い取った瑠璃。
「……偶然というには難しい状況になってきたな」
「……はい。ど、どうしましょう」
「その答えは陛下のみぞ知る、だ」
ああでもないこうでもないと考えていると、いつのまにか宿の下に迎えが到着していた。
急いで支度を済ませると、二人は馬車に揺られながら皇宮へと向かった。
宴席には燕国が誇る水源で育てられた色とりどりの野菜が使われた料理が並び、目にも楽しい時間となった。
どれに箸をつけても美味しい。
部屋の中央で舞う宮女たちも瓏国の舞踏とはまた趣が違い、とても綺麗だった。
宴席も和やかに時間は過ぎていき、甘味が給仕され始めた。
どれも色鮮やかで香り高く、とても美味しそうだ。
その中で、小ぶりな薄茶色の団子を手に取り、口に入れた。
柔らかい生地と餡、それに、カリカリとした食感がとても……。
(これは……、胡桃!)
身体が動いてしまった。
たんっと軽快な跳躍が目指した先は皇帝。
気付くと、祁陽の手から団子を奪い、その目を見つめていた。
我に返り、急いで稽首した。
汗が止まらない。
驚いた燕国禁軍大統領が剣を抜こうとするが、それを祁陽が手で制した。
「ご、御無礼を……」
悠青が謝罪を口にしようとすると、祁陽は「顔を上げて少しお待ちください」と優しく声をかけてきた。
「大統領、この団子を割ってくれないか?」
大統領はすぐに皿の上から団子を一つとると、中を割って見せた。
「……毒味係と料理人を捕えろ!」
場が騒然となった。
「陛下」
「行ってこい」
大統領は包拳礼をし、さらには悠青にも同じように礼をし、その場から走り去っていった。
「助かりました、桂甜殿。朕には胡桃は毒なのです」
「あ、よ、よかったです」
ちらりと杏憂の方を見ると、呆れて顔を覆っている。
「さすがは鳳琅閣の薬術師ですね。きっと、各国皇帝の苦手な食べ物は調査済みなのでしょう。素晴らしいです」
「あ、その、は、はい……」
幼い頃から知っていた、などとは言えるはずもない。
今は靖睿でも悠青でもなく、桂甜なのだから。
「お持ち帰りいただく宝物を増やさねばなりませんね。お願いですから、拒否などしないでくださいよ」
心臓がまるで噴火しているように熱い。
身体全身から汗が噴き出ているような感覚。
しかし、こうするしかなかったのだ。
もし祁陽が胡桃団子を口にしていたら、身体が拒絶反応を起こし、顔や腹に湿疹が現れ、喉が腫れあがり、呼吸困難に陥っていただろう。
最悪、助けられなかったかもしれない。
「せっかくの宴席でこのようなことになり、申し訳なく思います。お泊りになっている宿に酒肴を運ばせますので、どうぞゆっくりお楽しみください」
祁陽の指示で万が一に備えて宴席は解散。
悠青と杏憂は禁軍の兵士八人に守られながら宿へと戻った。
「気づかれたと思うか?」
部屋に入り開口一番、杏憂がぽつりと言った。
「……自信がありません。ただ、皇帝陛下は嬉しそうでした。あの笑顔がわたしに向けられたものなのか、その……、靖睿に向けられたものなのかは……、わかりません」
「だよなぁ。ううん……」
杏憂は腕を組み、どかっと座布団に腰かけ、机に乗っている酒を碗に注いだ。
「まあ、なるようにしかならないだろうよ。心配しても、その時が来るまでは無駄だ。さぁ、呑み直すぞ」
「はい……」
奇しくも今宵は新月。
不安な宵闇に、星々の瞬きは慰めにはならなかった。
翌日、早朝。
と言っても、まだ太陽も昇らない黎明の最中、宿に太監がやってきた。
「陛下が三人でお話したいことがあると仰せです。ご案内いたしますので、これを」
渡されたのは目隠しだった。
ということは、道順を覚えられては困る場所に連れていかれるということだ。
(居室か……)
わざわざ呼び出すとは、どういうことなのだろうか。
悠青は心臓が破裂しそうだった。
(露見したのかな……?)
手足から熱が消えていく。
杏憂は優しく悠青の背をおすと「そばについているから」と、小さな声で言った。
太監に手を引かれながら宿を出ると、小型の馬車にそれぞれ乗せられ、何度も方向転換しながら走ること十五分。
落ち着いた色合いの大きな建物の前で降ろされた。
「ここから先は誰も着いてきてはならぬと申しつけられております。それでは、ごゆっくり」
そう言うと、太監は建物の裏に消え、気配すらしなくなった。
「……行こうか、桂甜」
「はい、師匠」
馬車の中で考えた。
これは、絶好の機会なのではないか、と。
二人は階段を上り、そこで靴を脱いだ。
引き戸が開いている。
御簾の内側、そこに、彼の姿があった。
「燕国皇帝陛下に拝謁……」
「あ、挨拶は結構ですよ。朕がこのような時間に呼び立てたのですから。さぁ、こちらへ。お茶でも飲みましょう」
ふかふかの座布団が二枚と、茶器と菓子の乗った膳がそれぞれ用意されていた。
室内は質素で、調度品も最低限といった感じだ。
よく磨かれた床と柱が美しく艶めいている。
祁陽は板間に直接座っている。
悠青と杏憂も板間に座ろうとしたら、「座布団をどうぞ」と勧められてしまい、おとなしく座ることに。
「聞きたいことがあるのです」
祁陽の一声に、悠青は心臓が跳ねた。
「お二人のこと、少しだけ調べさせていただきました。どうやら、お二人が問診をしていた村々は燕国の周辺だったようで……。どう防いだとしても、お二人の噂が朕に届くようになっておりました」
背中を汗が伝う。
一方で、杏憂は涼しい顔をしている。
「露見してしまいましたか。さすがは陛下」
「驚かないのですね、杏憂殿は」
「ええ。私たちの目的の一つに、陛下に招かれるくらい有名になる、というのがありましたので」
「それはなぜです?」
祁陽の目が光った。
杏憂が悠青を見る。
「君が、君の言葉で話すんだ」と、言っているように。
悠青は深呼吸をし、口を開いた。
「目的は……」
鼓動が身体全体を揺らすように広がり、眩暈がした。
ただ、不思議なことに心の波は穏やかになっていく。
桂甜が、悠青の背を支えてくれているように感じた。
「陛下に、瓏国を奪い取り、救っていただきたいからです」
「瓏国を救ってほしい……、だと?」
祁陽の瞳孔が開き、首筋の血管がドクドクと脈打ちはじめた。
怒りが身体中を駆け巡っているのだ。
「朕の……、私の愛する義兄上を廃帝にまで追い込み、毒を賜らせ、その遺体を野山に捨て、歴代皇帝の廟にすら名前を残さなかった恩知らずの国を、どうして救えと言うのだ!」
悲しみで紡がれる怒りの痛みが、悠青の胸を貫いた。
もし自分が同じような状況で祁陽を失っていたら、きっと、耐えられなかっただろう。
(本当に、死んですまなかった……)
それでも、今は話さなくてはならない。
こんな機会、そう訪れることではないだろうから
「恐れながら申し上げます。現在、瓏国皇帝が皇太子に冊封したのは恒青。彼には生き物を拷問し、殺害するという、常軌を逸した癖がございます。それが、人にまで及んでいるのです。このまま彼が玉座に着くようなことがあれば、陛下が愛した靖睿様の生国が乱れ、いずれは怖ろしいことになるでしょう」
「それならば、皇太子を殺せばいいだろう! 私が義兄上のためにしてやれなかったことを、お前たちがすればいい!」
怒りで思考を放棄している。
まるで十代の祁陽と話しているようだ。
それならば、その頃と同じように対応するまで。
「今の瓏国宰相が誰なのか知っているならば、それが無意味なことだとおわかりなのでは?」
「瓏国宰相だと……。はっ、そういうことか。もし恒青を亡き者にしようとも、皇子たちは家の争いに巻き込まれると言いたいのだな」
「その通りです。現在の瓏国宰相は皇帝陛下の母君である貴太妃の兄上です。約三十五年前に起きた簒奪の首謀者でもあります」
「血のつながった甥を玉座に座らせれば、自身は宰相の地位だけでなく、皇伯という権力も得ることが出来るというわけか」
落ち着いてきたようだ。
それならば、あとは祁陽自身の勇敢さと慈悲深さを思い出させるだけ。
「瓏国において、健康な男児を生んだ嬪のうち二人の出身地をご存知ですか?」
「……まさか、そこが火種になるとでも?」
「嬪たちの後ろ盾は弱く見せかけてありますが、その出身地はまぎれもなく皇弟の季王殿下と波王殿下の領地。彼女たちの後ろにいるのは靖睿様をお慕いしていた御兄弟たちなのです。憎き犀睿陛下に簒奪が間違いだったと認めさせ、靖睿様を歴代の皇帝たちが眠る廟へと加えるよう、強硬手段に出ることも考えられます。その時、一番の被害にあうのは国民なのですよ! 内戦で傷つくのは、いつだって、子供たちなのですよ!」
祁陽は心に大きな一撃をうけたように、胸を抑えた。
話し方、声の抑揚、国への想い、民への想い、そして、怒りで我を失いかけている義弟に対しての叱責。
目の前にいる桂甜は、姿かたちこそ違えど、その内に秘めたる魂は、まぎれもなく、靖睿そのものに見えた。
信じられない。
信じたくない。
信じたい。
もう枯れ果てたと思っていた涙が、一筋、頬を伝った。
「瓏国皇帝……、犀睿への復讐を考えたことが無いと言えば嘘になるだろう」
祁陽は冷えてしまった茶を一口飲むと、ふぅ、と自嘲気味に息を吐きだした。
「少し、昔話でもするとしようか。皆、私のことをまるで軍神か聖人君子のように言うが、そんなことはない。あの日を境に、私の時は止まってしまったのだ」
陽が昇り始めた。
居室から見える紫と橙交じりの青空が、やけに眩しく、どこまでも自由に見えた。
「私の義兄上はとても素晴らしい人だった。慈愛に満ち溢れ、武勇があり、頭脳明晰なのに、それを鼻にかけることもなく、いつも私に易しい言葉で教えてくれていた。『一緒に考えてみよう』と、いつも私の言葉を待ってくれていた。何度も何度も、辛抱強く。ふふふ。義兄上は隠しているようだったが……、実は、ここだけの話、義兄上は皇帝になどなりたくなかったのだ。おかしいだろう? その才能があるのに。……優しすぎたのだな。些か、心が繊細だったように思う。悲しみが浮かぶ瞳を何度か見たことがあるくらいにな」
雲が流れていく。
風が通り抜けた。
「それでも、義兄上は瓏国を、民を、土地を愛していた」
太陽に雲がかかった。
光が、遮られる。
「あの日もそうだった。私は知らせを受け、怒りと悲しみに我を忘れた。側近たちが止めるのも振り切り、御林軍を引き連れ、瓏国へ向かおうとしたのだ」
袖を揺らすほどの風が吹き、雲が再び空を泳ぎ始めた。
光が、ゆっくりと戻ってくる。
「でも、そんな私を止めたのも、心の中に住まう思い出の義兄上だった。私が皇帝に即位した祝いの夜のことだ。寝る前に二人で少し呑み直しているときに、もし義兄上が危機に陥ったと勘が働いたら、何をしていてもどこにいても、またあの頃のように助けに行く、と言ったら、あの温厚な義兄上が怒ったのだ。『皇帝とは国の父であり、民の父だ。子供を見捨てて助けに来るなど、絶対に許さん!』とな」
夏の陽射しが、木々に降り注ぎ、その影が舞うように揺れている。
「私はただ剣を握りしめて泣いたよ。もう二度と涙など流せなくなるのではないかと思うほどに」
そう言うと、祁陽は立ち上がり、居室の奥から、美しい白磁の壺を持って戻ってきた。
板間に座り、その壺を優しく置いた。
「きっと、義兄上は怒るだろうと、今でも思っている。それでも、探さずにはいられなかった」
悠青の手が震えた。
あふれ出した想いが、涙となって落ち続ける。
止められなかった。
「荼毘に付したのだ。私と、母上で」
莅櫻の顔が浮かんだ。
祁陽と遊ぶたびに泥だらけになって帰ってくると、いつも笑ってくれた。
怪我をするとすぐに手当てをしてくれた。
喧嘩をすると優しく諭してくれた。
二人で迷子になって帰るのが遅れた時はとても怒られた。
そして、とても愛してくれた。
甥の遺体と対面した時、どれほど傷ついただろう。
どれほどその身を震わせ、涙したのだろう。
(申し訳ありません、伯母上……。今でも大切に想っております。心から)
壺に触れると、目に見えない風が体中を駆け抜けた。
「泣いてくれるのか……。靖睿義兄上」
杏憂は何も言わなかった。
この言葉にどう返事をするか選ぶのは、悠青が、靖睿が決めることだからだ。
「……記憶があることに気付いたのは、物心がついたころだった」
悠青は桂甜の姿を解いて話し始めた。
「はは……。まさか、自身を殺した弟の長子として生まれてきたのか、義兄上よ」
「そのようだね」
どちらからともなく、腕が伸び、互いを強く抱きしめていた。
「おかえり……、おかえり、義兄上!」
「ああ、ただいま。祁陽」
杏憂の方をちらりと見ると、意外なことに、鼻を真っ赤にして泣いていた。
「し、師匠?」
二人は身体を離すと、杏憂を見つめた。
「年々涙腺が……。お見苦しいところをすみません」
「杏憂殿は……」
「ええ。存じ上げておりました」
「義兄上を護ってくださっていたのですね」
祁陽は杏憂に向き合うと、あるまじき行為を始めた。
「へ、陛下!」
なんと、最上礼である再拝稽首を始めたのである。
一国の主が爵位すら持たない者に行うなど、中原始まって以来の前代未聞の出来事である。
「へ、陛下……」
「足りません。言葉も、態度も、時間も、贈り物も、何もかも、この感謝を表すには足りぬのです。どうか、せめて私の誠心誠意をお受け取りください」
杏憂は尚も涙を流しながら、祁陽と同じように、再拝稽首を行った。
二人は互いの礼に心が満たされたのか、固く抱きしめ合った。
身体を離すと、二人は悠青に向き合い、包拳礼を行った。
「靖睿陛下、その命を賜り、共に歩むことをお許しください」
祁陽の言葉が、全身を打つ。
炎が華のように心に咲き誇った。
「二人とも、よろしく頼みます」
陽が差し込んだ。
その光に照らされた悠青の姿は、祁陽の目には、かつての靖睿に見えた。
(ここから、始まるんだ)
一万の兵よりも強い味方を得た。
轟かせるは開戦の銅鑼。
もう後には退けない。
退く気もない。
駆け抜けるのだ。
中原を揺るがす、戦いを。