第五集:蠱毒
嶺将軍らの馬の速度に合わせ、あまり速く着きすぎないよう調節しつつ、休憩をはさみながら飛ぶこと二日間。
「着きましたね」
「ああ、寒かった……」
地図にあった駐屯地は北方というだけあって夏でも肌寒い。
遥か向こうの山頂には残雪が見える。
「ほお。さすがは国防の最前線。北方の守護神と名高い燕国彗嶺軍の駐屯地は美しいな」
上空から見る駐屯地はまるで複雑な模様のように天蓋があちこちに張り巡らされている。
どこの天蓋に誰がいるのかをわかりにくくし、万が一夜襲を受けても将軍の天蓋には簡単に近づけないように迷路のようになっているのだ。
「……お、一番近いあの針葉樹林で降りよう。一応、誰もいないか確認してからな」
彗嶺軍は二十年以上北方の異民族から国境を護ってきた歴戦の猛者たちだ。
悠青たちは依頼を受けた側ではあるが、全員に名前と顔が知れ渡っているわけではない。
捕まって軋轢を生むのは避けたい。
悠青と杏憂は音をたてないよう慎重に降り立った。
「大丈夫そうだな」
「ここから馬に乗って駐屯地へ向かうんですか?」
「馬には乗らん」
「え! でも、嶺将軍に鳳琅閣の馬術が何たらって言っていたじゃありませんか」
「江湖の者に送ってもらったことにする。ほら、そうすれば馬を連れて帰ってくれたって言い訳できるし、帰るときは迎えに来てもらうってことにすればいい。だろ?」
「そっちのほうが説明面倒じゃないですか?」
「仕方ないだろう。馬を持っていないのだから」
そういうことか、と悠青は溜息をついた。
杏憂は動物に好かれやすいのだが、当の本人は自分よりも大きな動物が少し苦手なのだ。
「……わたしの馬をお貸しします」
「え! あ、そうか。君の家なら馬など何頭でも用意できるものな」
「間違ってはいませんが、そんな、何頭も所有したりしませんよ」
「謙遜するな。あはははは」
楽しそうに笑う杏憂を目の端に溜息をつきながら、悠青は碧霄領域から馬を二頭連れ出した。
「良い毛並みだ。筋肉のつき方も理想的。瞳もとても優しそうだな。うん、この馬たちなら暴れたりしなさそうだ」
「母上が下さったんです。赤毛が紅梅。白馬は白梅です」
「……意外と安直な名付け方をするのだな」
「そんなこと言うなら貸しませんよ」
「すまん、すまん」
悠青は紅梅に、杏憂は白梅に乗り、彗嶺軍の駐屯地へと向かっていった。
「あ! お待ちしておりました!」
「お早いお着きですね。こちらへ!」
どうやら入口の見張り番には容姿が伝わっていたらしく、二人はさっそく天蓋へと案内された。
桂甜の特異な容姿は間違えようがないのだろう。
「こちらが先生方にご宿泊いただく場所です。診療には隣の天蓋をご利用ください」
「ご丁寧にありがとうございます」
天蓋の中には簡素ではあるが寝台と水瓶、暖かそうな毛布や火鉢、家具が用意されていた。
「さっそく患者の皆さんに会いたいのですが……」
「あ……。かしこまりました。将軍からは全面的に協力せよと仰せつかっております。その……」
案内してくれた二人の兵士は困ったようにうつむいた。
「どうなさったのですか?」
「その、もう天蓋ではどうすることもできず……。全員、檻に入っているのです」
「もちろん、火鉢を用意し、檻には厚手の布をかけ、寒さであれ以上体調が悪くならないよう工夫はしておりますが……。すでに四つも天蓋を破壊されてしまって、致し方なく……」
事態は聞いていた話よりもさらに深刻さを増しているようだ。
「わかりました。全力を尽くします」
「ありがとうございます!」
その時、馬の嘶きがこだまし、兵士たちがにぎわい始めた。
「あ、どうやら将軍もお着きになったようですね」
悠青は天蓋から顔を出しながら兵士たちの声がする方を向いた。
「お二人とも、一度将軍に会われますか?」
「いえ。まずは診察が先です」
「かしこまりました」
悠青と杏憂は再び案内について行き、少し林の方へと入って行くと、話しに出た檻の前に着いた。
「ああ……。なるほど」
檻には血だけでなく、歯や爪が食い込んでいた。
「お二人はお戻りいただいて大丈夫です。これは……。そうですね。手に負えないのも頷けます。嶺将軍には後程治療方針を相談しにまいりますとお伝えください」
兵士たちは二人に鍵を渡し、包拳礼をしながら「御意!」と発し、駐屯地へと戻っていった。
「この檻、木で出来ているんですね」
「持ってくるときはバラしているんだろう。檻の形のままでは運びづらいだろうからな」
「あ、そうか。そうでした、そうでした」
「長らく戦に出ないと忘れてしまうこともあるからな」
一瞬、嫌な光景を思い出し、苦々しい顔になる悠青。
「どうかしたのか?」
遠い記憶をめくるように、小さな声で話し始めた。
「昔、檻に火をつけた兵士がいたんです。中には武装を解いた捕虜が入っていました」
「……遺児だったのか」
「そうです。戦場ではなく、私刑という方法で怒りを発散してしまったんです」
兵士の中には、戦争孤児や遺児も含まれる。
特に遺児らの敵国に対する恨みは相当なもので、一度理性の箍が外れると、何をするかわからない。
「捕縛するしかありませんでした。軍律違反ですから。でも、わたしはどうにか彼が救われるよう、手を尽くしたのですが……。考えが甘かったようです。父上は怒り、その兵士と家族を処刑しました。『皇太子の名に泥を塗る気か!』と……」
杏憂はそれがどういうことなのかを察し、胸が痛くなった。
「君はこう思っているわけだな。もし彼が皇太子軍ではなく、どこかほかの軍の所属であれば、命は助かっていただろう、と」
「……はい。わたしはあまりに無力だったのです」
十代そこそこの少年が背負うには重すぎる結末。
靖睿という人生が、どれほど過酷だったのか、その片鱗が見えた気がした。
「すみません。暗い話をしてしまって。さっそく、診察しましょう」
「そうだな。噛まれる準備は出来ているか?」
「……籠手を巻いてもいいでしょうか」
「私ももちろんそうするつもりだ」
二人は腕と脛に厚手の革で出来た防具を装備し、檻の中へと入って行った。
「……兵士の皆さんは頑張っているようですね。中は思っていたよりも清潔です」
「たしかに。掃除に入るのも大変だろうに。彗嶺軍は優秀だな」
排泄物の臭いはわずかにあるものの、吐瀉物や食事は綺麗に片づけられており、患者が纏っている衣服も定期的に取り替えられているのがわかる。
ただ、血のにおいだけはこびりついてしまっているようで、少し空気が重い。
彼らの足を繋いでいる枷には、足が傷つかないよう布が内側に巻かれていただろう痕跡がある。
患者自身が布を噛みちぎってしまったのか、血塗れの布を口に入れて咀嚼している者が数名いる。
「全部で……、三十人と言ったところだな」
「この人たち、全員……」
「そうだ。呪にかかっている。そのせいで脳が蝕まれ、炎症が起きているんだ。だから脈絡もない異常な行動を起こしているんだろう。これは蚩怨の仕業ではないぞ」
「猿の頭を置いて行っているという異民族のせいでしょうか」
「それが濃厚だな。桂甜、もし捨てていなければいいのだが、あれば、猿の頭を見せて来てもらってくれ」
「わかりました」
悠青は外へ出ると、そこには心配そうな顔で檻を見ている兵士たちがいた。
「あ、あの……」
「今師匠が診ています。全力を尽くしますので、どうかご辛抱を。それで……、猿の頭はありますか?」
兵士たちは顔を見合わせ、「首桶のなかに数個とってあります」と、持ってきてくれた。
悠青が蓋を開け、中を見ると、悍ましい呪が今も尚続いていた。
「預かってもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
悠青が桶を持ち、檻の前に立つと、杏憂が近寄ってきた。
「どうだった?」
「猿の頭蓋骨の中で蠱毒が行われています。各頭で呪となった蟲が、さらに強さを求め、他の頭の蟲と殺し合いをし、どんどんと強さが増している状況です」
「なるほどな。彗嶺軍にはこういうことに詳しい兵士がいないのを見越しているのだな」
「そのようです」
「ここまで酷いとはな。蠱毒を焚き上げたところで、呪で傷ついた脳や内臓の損傷は簡単には治らない。これ以上被害を出さないためには、術者を……」
杏憂はその後の言葉に悩んだ。
しかし、悠青はこともなげに口に出した。
「殺さなければなりませんね」
杏憂は一呼吸ののち、「その通りだ」と声にした。
悠青の中で、少しずつ、本当に少しずつではあるが、桂甜の存在が強くなっているのだろう。
以前の悠青ならば迷わず「捕まえましょう」と言ったはずだ。
この変化が良いことなのか悪いことなのか、今はまだわからないが、杏憂にとっては悲しくも望ましいことであることに変わりはなかった。
「手分けするか、桂甜」
「そうですね。治療は師匠が行った方が早いし完璧です」
「お? 褒めてくれるのか⁉」
「……わたしっていつもそんなに厳しいですか……?」
「冗談だよ。まぁ、私は戦闘に関してはそこまで得意ではないからな。優雅だし、美しいし、存在が芸術品だし」
「はいはい、そうですね。ええ、その通りです」
「感情をもって話せ!」
杏憂は拗ねてしまった。
悠青はそんな師匠の態度を無視して話し続けた。
「では、わたしが行ってきます。夜にこっそり。あちらも夜襲に備えて見張りはそれなりにいるでしょうが、そこを利用すれば簡単に術者の元へ行けるかもしれません」
「……ほう。彗嶺軍に騒いでもらうのだな?」
「そうです。敵の注意をある程度惹きつけていただきたいです」
「頼んでみよう。そのためには、呪について説明しなくてはならないが……」
「そこは大丈夫だと思います」
「お、自信があるのか」
「軍も趕屍匠に依頼することがあるのです。あまりに遠い場所での戦闘が続くと、遺体をいつまでも野営地に置いておくわけにはいきませんからね。だから、趕屍匠に依頼して連れて帰ってもらうんです」
「なるほどな。人知の及ばぬ不思議な術にはある程度知識があり、慣れているというわけか」
「そうです。多分、燕国でも同じことをしているはずです」
「それなら、話は早そうだ」
二人で檻を出て鍵を閉めたあと、身体にまとわりついた瘴気を祓い、近くにいた兵士に頼んで嶺将軍の元へと連れて行ってもらった。
天蓋に入り、作揖してから本題に入った。
「……呪、ですか」
思っていた通り、嶺将軍は呑み込みが早く、事態の重さをすぐに理解してくれた。
「まさか、奴らがそのような戦法を使ってくるとは……。私の視野の狭さのせいで兵たちを傷つけてしまいました」
「いえ。呪や呪い、魔法などを人間の戦に持ち込むのは一般的とは言えません。気付けという方が無理でしょう」
「部下たちは……、仲間は治るのでしょうか」
「時間はかかりますが、完治は可能です。根気よく治療を続ける必要はありますが、彗嶺軍ならば可能でしょう」
「ああ……。ありがとうございます! よかった……。本当に、よかったです」
嶺将軍の瞳に雫が浮かんだ。
それで悠青と杏憂は気付いた。
(患者の中に、息子がいるのか⁉)
「あの、まさか……」
「すみません。つい……。気付いてしまわれましたよね。そうです。息子があの中にいるのです。ただ、数年前、私に内緒で軍の試験を受け、己の才覚のみで軍配者にまで上り詰め、ついに今年からわが軍へ配属されてきました。その努力を無駄にしたくなかったのです。私の息子だからと、優遇を受けることをよしとしない、頑固な息子なので」
悠青の中で、何かが爆ぜた。
それは小さく、まだ弾けた程度の事象だったが、今までには感じたことの無い、明確な『怒り』だった。
「嶺将軍、そこで、お願いがあるのですが……」
杏憂が作戦について話し始めた。
声が少し遠く、広い空間に響くように聞こえる。
悠青と、桂甜の聴覚が徐々に重なり、鼓動が融合した。
「その作戦、必ずや成功させてみせましょう!」
嶺将軍は力強く包拳礼をした。
その目には、さきほどまで息子を想い涙していた父親は居ない。
まさに、歴戦の武人の瞳だった。
悠青たちが天蓋を後にすると、嶺将軍はすぐに側近を呼び寄せ、緊急の作戦会議を始めた。
わずかなどよめきのあと、聞こえてきたのは力強い声。
あとは陽が落ちるのを待つのみ。
悠青と杏憂は檻へと戻り、診察の続きを始めた。
今できることをしておこうと、せめて自傷しないよう、眠らせる薬を全員に飲ませた。
その間に服を脱がせて触診し、軽く清拭したあと怪我の治療を施していると、太陽はどんどんと地平線へ吸い込まれて行った。
「では、行ってまいります」
天蓋へ戻り、漆黒の深衣に着替えた悠青は、嶺将軍と杏憂に挨拶し、出発した。
運がいいことに、今宵は曇り。
月灯りの届かない空の下、国境を可視化している大きな壁から飛び降り、音もなく着地。
そのまま、異民族の集落まで影に紛れて移動する。
煌仙子の目には暗闇も真昼の明るさも関係ない。
あまり草木の育たない地ではあるが、背の高い針葉樹が立ち並ぶ林が、姿をうまく隠してくれている。
しかし、それは人間に対してだけのようだ。
微かな薬草のにおいを嗅ぎつけた野犬が十頭ほど集まってきた。
(……ただの野犬じゃない⁉)
犬たちの身体から立ち昇る瘴気が視えた。
「……視えるのか、お前には」
声がした。
針葉樹の後ろから、純白の長い外套を纏った男が現れた。
「起尸鬼術ですか」
「お前たち中原の言葉で言うならば、そうだ。我らの国ではネクロマンシーと言うがな」
「では、あなたですね。異民族に与して彗嶺軍に呪をかけているのは」
「ああ、なるほど。それで来たのか。答えてやろう。その通りだ。ただ、一つ訂正していただきたい。彼らは決して異民族などという言葉で呼ばれる筋合いはないぞ。ルミスネグ族だ」
男は外套の風防を頭から降ろすと、口元をゆがめながら嗤った。
「めずらしいか? 私はルミスネグ族と北欧人の和血だ。だから、手を貸すのだ。お前らのような侵略者から土地と誇りを護るためにな」
男の髪は雪のような白銀。
目は澄んだ湖の浅瀬のような水色。
肌は雪焼けしているのか浅黒く、身長は百六十八分米の悠青よりも頭二つ分ほど高い。
お互い、護りたいもののために戦っているのは同じだ。
だからこそ、退くことは出来ない。
「燕国彗嶺軍に手を出すのはやめてもらえませんか」
その時、雲が割れ、月灯りが降り注いできた。
悠青の姿が、相手の目に映る。
「紅蓮華の髪に氷の瞳……。まさか、お前が桂甜とかいう薬術師か?」
「なぜその名を?」
「我ら起尸鬼術師の眷属は中原のあちらこちらにいる。もう一つ、面白いことを知っているぞ」
嫌な汗が流れた。
「お前、人間ではないだろう?」
予想していたこととは違う言葉に、一瞬安堵した。
「だとしたら?」
「何の種族か……。魂が見えないな。致死節がわからん」
呪文の類では殺せないとわかると、起尸鬼術師の男は腰に下げている剣を引き抜いた。
主人の殺気を感じ取ったのか、屍犬たちがよだれを垂らしながら唸り始めた。
「血は出るのか? それなら、これで殺せるだろう」
湾曲刀から立ち昇る殺意は、その性質とは裏腹に、とても清らかだった。
「鉄、ですか」
「純鉄だ。大抵の奴はこれで死ぬ。お前はどうかな?」
悠青も空から杖を取り出し、剣に変化させて構えた。
「魔法使いか、魔術師か。魔女族でなければただの人間なのだが……、まぁ、死ね」
踏み込みが早い。
剣で受け流した。
火花が奔る。
「反応速度は並み以上……。お前、本当に何者なんだ?」
切っ先を交え、激しい攻防が続く。
間髪入れず襲い掛かってくる屍犬を斬り伏せながら、少しずつ距離をとっていく。
「流麗な武術の裏に隠れているお上品な太刀筋は……、もしかしてお前、どこかの皇子か?」
血が沸き立つ。
鼓動が早まり、瞳孔が開く。
心の中の煌仙子が、目の前の男を「殺せ」と言っている。
その言葉に呼応するように、身体は軽くなり、動きが滑らかになっていく。
「うお!」
悠青の回転に合わせて残っていた四頭の屍犬の首が一瞬で胴体から切り離され、ボトリと落ちた。
銀色の閃光が奔る。
男の首筋に剣が掠った。
流れる血が襟元を染めていく。
「良い殺気だ。俺を殺す前に、正体を教えてくれないか?」
その瞬間、跳躍した脚。
身体が落下する速度を使って膝で男の胸骨を砕く。
「かはっ」
男は倒れ、口から血が溢れた。
「お、お前は、だ、誰、だ」
跨ったまま剣を両手で持ち、男の首に突き立てた。
瞳から光が消え、口からは命が尽きる音が聞こえた。
悠青は立ち上がり、ふらりとよろめくと、自分がしたことにようやく気が付いた。
「わ、わたしが……、殺した……」
靖睿の時は戦で何度も敵を屠ってきた。
しかし、今回は違う。
敵であることに変わりはないが、悠青の意志ではなかった。
「桂甜、君は……」
心に感じた怒り。
あれは桂甜のものだった。
悠青を、その秘密を、護ろうとしたのだ。
「君は、わたしには出来ないことが出来るんだね……」
無情の悪意に対する慈悲なき攻撃。
頬に雫が流れた。
触れると、それは涙ではなく、返り血だった。
「……覚悟は出来てる。わたしはいずれ、君になるんだ。桂甜」
雨が降り始めた。
冷たい。
戦闘の熱が冷えていくようだった。