第十集:哀詩
濁流に破壊された家屋。
その柱にひっかかったまま動かない膨れた遺体。
原形をとどめないほど傷ついたかつての生命が、無残にも流されていく。
豪雨の中、溢れていく悲しみを止める方法もなく、悠青は馬から飛び降りた。
「悠青! 闇雲に動くな!」
未明に着いた悠青たちは、目の前の惨状にいくつもの言葉を飲み込んだ。
だからこそ、身体を動かすしかなかった。
無力を嘆く時間などないのだから。
「……叔父上を信じます」
「い、一体何のことだ……、な!」
黒檀のような青光りする美しい髪が、燃え上がるような赤に変化していく。
肌は不安になるほど白く、爪はさらに黒く。
目は氷のように色をなくし、薄灰色で世界を見つめている。
「お、お前……、その、その姿……」
動揺しつつも、不思議な覚悟が心に生まれていく黄睿に、悠青は笑いかけた。
そして、杏憂の方を向き、言った。
「悠青のままでは、救えない命があるんです」
「ああ……、わかった」
悠青と杏憂は空から杖を取り出すと、飛び上がり、川の上から周囲を見渡し、目の前で流されていく人間たちを引き上げ始めた。
「……皆の者、続け!」
黄睿は兵たちに命じ、引き上げられた生還者たちを安全な場所へと運んでいった。
「本当に、何があったんだ、悠青……」
その声は雨音に消え、言い表せない悲しみが漂った。
「桂甜、焦るな」
杏憂は悲壮感に思いつめたような顔をしている悠青の肩を掴み、その目を見た。
「救いを求める声に耳を澄ませ。目に映るものだけに心を傷つけられるな」
「……すみません。ありがとうございます」
悠青は深呼吸を繰り返すと、目を瞑った。
ごうごうと激しい音を立てて流れる土砂と激流。
その中で、か細く弱弱しいけれど、でも、生きたいと願う声が聞こえた。
「あきらめるな!」
気付くと、叫んでいた。
急いで向かい、両腕を大きく広げ、二人の子供を救い上げた。
すぐに岸に連れて行き、兵士に引き渡す。
その後は、集中力を取り戻し、次々と引き上げていった。
すでに杏憂は治療にとりかかっている。
救い上げても、怪我の程度や体温の低下が酷ければ助からない。
時間との戦いだった。
兵士たちは土塁を積み上げ、少しでも陸地が浸食されないよう努めている。
泳げる者は軽装になり、腰に縄を巻きながら川の中に入り、可能な限り救助活動を続けている。
全員が真剣だった。
涙を流している暇などないほどに。
救出作業は朝陽が昇り、傾き始め、松明が必要になるほど暗くなるまで続いた。
「悠青! 悠青!」
黄睿の言葉がまるで届いていないように、悠青は全身を被災者の声に傾け続けた。
休むこともなく、何も口にせず、ただひたすら濁流に向かい続けた。
「先生、あのままでは悠青が……」
「桂甜は……、いえ、悠青殿下は大丈夫です。私からお話ししましょう。現在の、あの姿と種族について」
黄睿は杏憂の説明を聞きながら、目から一筋、雫が流れた。
靖睿の訃報を聞いて以来、一度も流してこなかった涙を。
「もう、もう二度と人間には戻れないのですね」
「そうです。殿下は、覚悟のうえで桂甜……、煌仙子となることを選ばれました」
「……私がもっと黎安に戻っていれば、もっと気にかけていれば、もっと、もっとはやくに悠青の想いを知っていれば……」
「悠青殿下は今まさに香王殿下の助けを必要としておられます。どうか、悲しみにその心を曇らせないでください。殿下には、共に歩む強い仲間が必要なのです」
「わかっています。先生、悠青を救ってくださり、本当に、本当にありがとうございます。あなたのおかげで、この国は救われるでしょう。他ならぬ、悠青の手によって」
「ええ。そう信じております」
雨が弱まってきたが、依然として川の流れは勢いを増したまま。
悠青は探し続けた。
微かな命の灯火を。
空に赤みが差し始めた。
黎明を越え、朝焼けが周囲を包む。
幸いにも、雨は止み、雲間から太陽がその顔をのぞかせている。
「ゆ……、桂甜」
誰一人、眠ることなく続けた救助活動。
数えきれないほどの軍幕が大地を覆っている。
「……声が、聞こえなくなりました」
少しふらつきながら川岸に降り立った悠青に、黄睿は厚手の布を渡した。
濡れていない所がないほど、悠青の身体からは水が滴っている。
吐く息は冬の風のように冷たい。
「そうか……。もし数字がお前の慰めになるのなら、伝えよう。一万人だ。お前が救い上げたのは」
「……みんな生きているのですか」
布で水分を拭いながら、悠青はたずねた。
「杏憂先生の薬術のおかげで、全員、生きている」
「よかった……。本当に、よかった……」
それでも、瓏国内では六十万人以上の命が失われた大災害。
手放しで喜べるような状況ではなかった。
「お前は寝ると良い」
「いえ。師匠を手伝います。叔父上こそ眠ってください。あなたが倒れては、この先の災害支援に支障が出ます。それは体力的にだけではなく、精神的にもです」
「……わかった。昼前まで寝させてもらおう。悠青、せめて着替えくらいはするんだぞ」
「はい。そうします。叔父上には温かい薬湯を用意しますね。身体を拭い、清潔にしてから寝てください。風邪や感染症だけは避けなくてはなりません」
「全面的に、お前に従う。兵士たちにも徹底させる」
「感謝します」
兵士の中には、濁流の中で作業をしていた者たちも多い。
流れてきた瓦礫で傷を負い、傷口から細菌が入れば、嘔吐や下痢の原因となり、その汚物がちゃんと処理されなければ、そこからまた病は広がり、二次災害となってしまう。
限られた物資と空間のなかで、いかに清潔な状態を保つかも、災害支援では重要となる。
悠青もそれを念頭に、知らず知らずのうちに身体に負った傷なども確認しようと、軍幕に入って行った。
「恵王殿下! 恵王殿下はいらっしゃいませんか!」
悠青が着替え終え、簡単な手当ても済ませた後、黎安の方角から、よく通る低めの声で叫ぶ武装した女性たちが現れた。
悠青は急いで桂甜の姿を解くと、彼女たちの方へ向かって走っていった。
「と、桃晶隊のみなさん!」
「賢妃様のご命令により、我らも馳せ参じました。五百人のうち、医女も百名おります。お役に立てるかと」
悠青は疲れや眠気が吹き飛ぶのを感じた。
「さすが母上……。感謝いたします。みなさんには主に女性や子供の治療や看護をお願いいたします。簡単ではありますが、緊急度合いによって生還者の皆さんには色のついた布が巻かれています。まずは赤、次に黄色、そして緑の順です」
「では、医女の部隊を赤へ。そのほかは黄色へ向かいます」
「助かります」
「それと、瀏亮様から追加の毛布も預かっております。こちらで判断してお配りしてもよろしいでしょうか」
「お任せします」
「かしこまりました。では皆の者! 配置に着け!」
湿った空気を吹き飛ばす雅楽の鈴の音のような「はっ!」という咆哮が響き渡った。
「おお……。賢妃様の部隊か」
甲冑を脱ぎ、着替えを済ませた黄睿が、少し呆けた顔でやってきた。
昔から、何故か女性にめっぽう弱い黄睿。
漂ってくる薬草の香りから判断するに、ちゃんと身体を清拭したようだ。
「叔父上、まだ寝ていなかったのですか」
「これから寝るとも。兵たちにも順番に休むように命令を出していたのだ」
「そうでしたか」
「それにしても……。ううん、勇ましい。無駄な動きがなく武人の風格を漂わせながらも、柔らかな物腰と笑顔で接する精神的な強さ……。桃晶隊を育て上げた賢妃様はいったい何者なのだ」
「あまり詳しく話してくれたことはありませんが、どうやらかなり強いらしいですよ。若い頃は江湖の達人榜に名前が載ったこともあったとか。噂ですが」
「私ですら載るのに十五年以上かかったというのに……。考えていると頭が痛くなりそうだ。寝てくる」
「はい。おやすみなさい、叔父上」
黄睿はしっかりとした足取りで軍幕へと向かっていった。
(あとで薬酒でも差し入れするか……。黄睿は昔から少し風邪をひきやすかったからね)
「け……、ああ、悠青。そうか、賢妃様の部隊が到着したのだな。だから戻ったのか」
「さすがに桂甜のままでは説明が面倒なので」
「それもそうだ。あ、そうそう。素晴らしいことが十件あったぞ。こんな恐ろしい災害の中でも、新しい命は産まれるものだ。母親とは本当に強いな」
「赤子ですか!」
「全員無事だ。母親は衰弱がひどいからしばらくの間隔離して療養させるが、子供は元気いっぱいだ」
「よかった……」
悠青は心から安堵した。
身体から少し力が抜け、手足に温かさが戻ってくる。
「遺体の引き上げには水棲獣化種族の力を貸してもらおう」
「え、お知り合いがいるんですか?」
「まあな。おっと、そうだ。君にこれを渡しておこうと思って」
そう言って杏憂が袖から取り出したのは、黒い小瓶だった。
「これは?」
「液化薬だ」
「液化……?」
「仙子は血が煙になると教えただろう? 我々は太古の昔から人間界で生きる際、正体が露見しないよう、一時しのぎでその特徴である血煙を液体化する薬を服用してきたのだ」
「へぇ……。便利ですね。でも、その言い方だと、副作用があるんですね」
「その通り。液化、というくらいだから、流れ出した血液には凝固作用がない。つまり、どちらにせよ、仙術で止血しない限り、どんなに小さな傷口からでも血は流れ続けてしまう。上手いこと誤魔化さなければ、出血多量で……。まぁ、それでも君は煌仙子だから死ぬことは出来ない。ただただ、最悪の体調で力も入らず、酷い状況になるだけだ」
「気を付けて服用します」
「そうしろ。くれぐれも、多用はするな」
「肝に銘じます」
「中に入っている小さな丸薬を一粒飲めば、効き目が出るまでに一時間はかかるが、その後六時間は血が液化される。時間の計算も忘れるなよ」
「はい、師匠」
杏憂の困ったような笑顔が、悠青の胸に細かな破片を残した。
この先、人間であることを証明しなければならない状況が起こると、杏憂は案じているのだろう。
(それはきっと、血のつながった家族の前だ)
恒青が悠青の周辺に間者を潜ませていることには気づいていたが、どういうわけかあまりやる気はないようで、そこまで脅威になっていなかったこともあり、泳がせてきた。
それよりも、解決すべきは鴉のような黒い仮面をつけた連中だ。
きっと人間のころの悠青だったなら気づかなかっただろう。
ほとんど音もなく、無臭。
ただ、漏れ出しているなんらかの力の痕跡が目の端にチラチラとよく映っていた。
杏憂に聞いたら、「それは魔力だ」と言われた。
杏憂も気づいていたらしく、何度か街で巻いたと言っていた。
「恵王殿下、杏憂先生、失礼いたします。少々、確認していただきたいことが……」
二人は雅黄軍兵士に案内されるままついていくと、そこには檻があり、中には兵士が三人入っていた。
「以前から香王殿下の指示で泳がせていた、皇帝陛下の密偵です。その、今回ばかりはこのまま皇宮へ帰すわけにはいかないと、殿下がおっしゃり、捕えてあります」
「あ……、そういうことですか」
「香王殿下は恵王殿下の意見も聞きたいとおっしゃっておりまして。今ちょうどお休み中なので、その間にご一考いただけますと幸いです」
「わかりました。ありがとうございます」
「あの!」
兵士は突然跪き、包拳礼をした。
「殿下に何があったのかはわかりません。あの姿に驚かなかったと言えば嘘になります。ですが……、どうか、私の感謝をお受け取りください。この先に、私が生まれ育った村があり……。殿下が真っ先に支援に向かうべきだと陛下に上奏してくださったと知りました。本当に、本当に……」
兵士は肩を揺らし、地面に雫を落としながら深く頭を下げた。
悠青は兵士の震えている肩に触れ、同じ目線になるようしゃがんだ。
「本当ならば、これが当然でなければならないのです。それなのに、わたしの力では陛下の心を動かすことが出来ませんでした。お願いします。これからも、力を貸してください」
「な、なんと! もったいなきお言葉です。全力を尽くし、香王殿下と共に、悠青殿下をお支えいたします!」
悠青は兵士を一緒に立ち上がるよう促し、柔和な笑顔で言った。
「感謝します。適度に休憩を取って、そのたびに清潔な衣服に着替えてください。みなさんが体調を維持することも大事な災害支援の一環ですから」
「はっ!」
兵士は再び包拳礼をすると、足取り軽く持ち場へと戻っていった。
「……で、どうする?」
杏憂は檻の中でうずくまる三人の男たちを見ながら言った。
悠青はどうにか命だけは奪いたくない。
しかし、心の中の桂甜は一貫して「殺すべきだ」だと言っている。
「……殺しましょう」
杏憂は悠青を見た。
「社会的に、死んでもらいましょう」
「……罪人の遺体を使うのだな」
「ええ、そうです。彼らは救出活動中の事故で死んだことに」
話を聞いていたのか、男たちの中の一人が顔を上げて悠青を見た。
「あなたは……、殿下は何者なのです?」
悠青は檻の前にしゃがむと、目線を合わせて話し始めた。
「教えられませんが、少なくとも、あなたたちの命を奪う男ではありません」
「……解放された後、陛下に報告しに行くかもしれませんよ」
「無理でしょう。あなたがたがこれから送られるのは江湖です。それも、梅盟主が治める領域です」
「け、賢妃様の……」
「わたしに不利なことをすれば、その場で殺されます」
「……生かす意味は? あなたが罪悪感に苛まれたくないだけですか?」
「いえ。幸せになってほしいからです」
三人全員が顔を上げ、いぶかしげに悠青を見た。
「……は?」
「皇宮やそういった争いから無縁の場所で、ただ幸せに暮らしてください。何もかも忘れることは出来ないでしょうが、それでも、生きる意味はこれからでも探せます。どうか、余生を全うしてください」
男たちは顔を見合わせると、一斉に稽首した。
「温情に感謝いたします。恐れながら、一つだけ……」
「あなた方の家族には手厚い保証をしましょう。陛下にも手は出させません。遠い地へ逃がします」
男たちは稽首したまま泣き出した。
間者や密偵が失敗した場合、その後に待っているのはただ種類が違うだけの『死』だ。
それも、家族もろとも殺される。
心の中の桂甜は「悠青は甘い」と拗ねてしまったが、それでも、悠青はただでさえ悲惨な状況を、これ以上、悲しみで満たしたくなかった。
悠青と杏憂は檻から離れると、生還者たちの治療へ向かった。
真昼の月が空で白く輝き始めた頃、黄睿が起きてきた。
しっかりと甲冑を身に着けている。
「悠青が用意してくれていた酒を飲んだらいつの間にか昼だったぞ」
「それはよかったです叔父上。あなたは頑固で、なかなかちゃんと寝てくれないと兵士たちがこぼしておりましたので」
「む! 謀ったな」
「ええ。多数決ってやつです」
「ぐぬぅ」
「身体はどうですか? 寒気はしませんか?」
「それが、ここ最近で一番体調が良いと言っても過言ではないくらいに元気だ」
「それはよかった。あ、あの、檻に入っている人たちについて提案が……」
「悠青が決めたことならば信じる。好きにすると良い」
「ありがとうございます。あと、師匠が紹介したい人たちがいると待っていますよ」
「先生が? 行ってみよう」
「お供します」
そうして二人で向かったのは、まだ流れの速い濁った川の岸辺。
「……な、なんと」
「ご紹介します、香王殿下。彼らは水棲獣化種族の中でも、もっとも知性が高く、人語を理解し、慈悲深い。海豚族です。西洋諸国ではセイレーンとも呼ばれています」
薄水色や濃い藍色などの寒色の滑らかな肌に、大きな瞳が特徴の灰色の目。
唇は白く、歯はギザギザとしている。
耳は穴になっており、耳たぶなどはない。
髪は夜空に流れる天の川のような銀色をしており、とても神秘的だ。
「太子様の呼びかけに集まった我らは、人間の皇子に加勢いたします。……そちらは煌仙子に成った皇子ですね。貴方には、我々に命じる資格があります。尊き業火の輝きを宿す哀しき皇子よ、我々に何を望みますか」
不思議な話し方だが、その声には独特の音階があり、耳に心地よく響いた。
「遺体を可能な限り引き上げてほしいのです。今世の苦労をねぎらい、そして来世の幸せを願い、埋葬できるように」
「我々は皇子の願いに呼応し、それを叶えましょう。海豚の唄には鎮魂の調べがあります。鬼魄となりかけている者には、祝福を与え、これ以上の悲しみが人々を襲わないよう、配慮しましょう」
「感謝いたします」
「貴方は……。その聖なる氷炎に覆われし魂は、自身すら傷つけている。どうか、灯の導きがありますよう、我らは願います」
海豚族の総勢百名は、悠青たちに深く頭を下げると、水のうねりの中へと潜っていった。
「では、私はここに兵を配置し、彼らから遺体を引き取る準備を進めるとします」
「私たちは治療に戻ります」
杏憂に促されるように、悠青は患者たちが休んでいる天幕の方へと戻っていった。
「海豚族の方々が、わたしが自分を傷つけている、と……」
「彼らには特殊な音波があって、それを発することで魂が視えるのだ。悠青には、心根の優しさを支えるほどの強さが足りていないのは事実。彼らも心配しているんだよ」
悠青は天幕を見つめ、自身の頬を両手で挟むようにパチンと叩いた。
「わたしという存在にある付加価値の一つ、親王の肩書が人々の救いになるのなら、暗い顔などしていられませんよね」
「ああ、そうだ。君が一度微笑むたびに、百人が安心すると思え」
「わかりました。役目を果たします」
歩いて行く悠青の後姿を眺めながら杏憂は痛む胸に手を添えた。
(いつか悠青が、崩れゆく自身の心と共にその手を血に染める日が来るのなら、その時は、桂甜であることを強く願わずにはいられない。我々は、悠青を失うわけにはいかないんだ)
昨日までの豪雨が嘘だったかのように晴れ渡る空に、杏憂は祈った。
まるで、歌うように。




