第一集:皇子
人間は悲しい生き物だ。
欲に溺れるあまり、時に大胆に間違いを犯す。
わたしも、その「間違い」とやらの被害者なのかもしれない。
簫皇六十年冬、父であった皇帝の突然の崩御により、十八歳で即位した。
あわただしい日々の中、それなりに頑張っていた。
市井の人々からの反応も、悪くはなかったと思う。
一年、二年、三年と、烏兎怱怱に時は過ぎていった。
そして五年目を迎えようとしていた春、わたしは貴太妃の長子である弟の勢力にまんまと嵌められ、皇位を簒奪されたのち、すぐに殺されてしまった。
あっけなかった。
でも、少しだけ、ホッとした部分もある。
わたしには、皇帝など向いていない。
殺されたくはなかったが、あの玉座に座り続けることを考えたら、死んでよかったのかも、とも思う。
太皇后である母には申し訳ないが、わたしは国父の器ではなかったのだ。
次に生まれ変わるときには、ぜひとも庶民として生まれたい。
贅沢な言い方だということは重々承知している。
それでも、願わずにはいられない。
平穏で、代わり映えのしない、小さな幸せを見つける毎日を。
☆
簫皇八十年、皇帝と賢妃の間に、待望の男児が生まれた。
瓏国は祝賀の雰囲気に酔いしれ、皇宮も幸福で溢れていた。
それまで、皇帝には六人の子供が生まれているが、すべては女児。
皇太子のみならず、親王や郡王すらもいなかったのである。
皇帝は男児に悠青と名付け、思いつく限りの愛情をすべて注いだ。
しかし、三年後、皇后が産んだのは男児だった。
皇宮は波乱の予感を孕みつつ、悠青のときよりもさらに豪華な盛り上がりを見せた。
なぜなら、皇后が産んだ子供は宗室。
つまり、正統なる血統ということになるからだ。
悠青は皇帝にとって長子と言えど、所詮は庶出。
その地位はいくらでも揺らぎえるのだ。
その後は堰を切ったように男児が生まれ続けた。
合計で八人。
皇帝は成長し自分に似てくる皇子たちを見つめ、満足そうに微笑んだ。
ただ一人を除いて。
「悠青。なぜそなたは冊封を拒むのだ」
皇宮内にある皇帝の自室に呼び出された悠青は、その額を床につけ平伏しながら答えた。
「陛下、わたしには学ぶ時間が必要なのです」
「顔を上げよ、悠青。お前はまだ七歳だぞ。朕の世継ぎとしての教育よりも大事なことがあるというのか?」
悠青は勢いよく頭を上げ、皇帝の、父の目をまっすぐと見つめながら話した。
「陛下は少々お身体の調子がすぐれないことが増えてまいりました。わたしはその原因を突き止め、癒して差し上げたいのです。優秀な世継ぎならば、弟たちがおります。どうか、どうかわたしに薬術を学ぶ機会をお与えくださいませ」
皇帝は悠青の言葉に瞳を潤ませ、優しく微笑みながら頷いた。
「……朕をそれほどに想ってくれているのだな。わかった。気の済むまで学んでくると良い。たしか、お前の母である賢妃には江湖につてがあっただろう。それを頼りなさい」
「ありがとうございます! 必ずや立派な薬術師となり、父上……、あっ、失礼いたしました。陛下のお役に立ってみせます」
「期待しておるぞ。……たまには父上と呼ぶと言い。お前は親王なのだから」
「はい!」
皇帝は悠青を手招きし、その身体をぎゅっと抱きしめた。
「身体に気を付けるのだぞ。いつでも帰ってくるといい。お前の家はここなのだから」
「はい、父上」
こうして、簫 悠青は母の父の兄、つまり、大伯父が暮らしている江湖へと旅立ったのである。
「恵王殿下、お疲れではありませんか?」
険しい山岳を大伯父、梅 凛津とたった二人で歩いて行く。
皇帝や賢妃は護衛をつけることを望んだが、悠青が断ったのだ。
これから武侠の住まう世界、江湖で暮らそうという者が、旅程で甘えていては本末転倒だ、と。
「は、はい大伯父上。大丈夫です。あ、あの、号で呼ばずに、名前で、悠青とお呼びください」
「ふふふ。悠青殿下は初めて言葉を話し始めてからまったくお変わりないようですね」
「そ、そうでしょうか」
息が上がる。
道なき道を進み、なんとか大伯父について行く。
もう手足は棒のようだし、着ている服もところどころ破れてしまっている。
「ええ。姪に紹介されたときは、大人と話しているような気分でした。だから、殿下の修業場所にここを選んだのです」
そう言って凛津が指し示したのは、雲の上まで続くほどの高い建物だった。
「あちらがこの江湖最大の勢力を誇る知恵と武術の最高峰、鳳琅閣です!」
「ほあぁ!」
屋根がいくつも連なり、いったい何重の塔なのだというほどの立派な木族建築。
うっすらと立ち込めていた霧が晴れると、さらにその荘厳さが目を引き付けた。
「現在の閣主は杏憂先生です。鳳琅閣の人々は俗世間とは生きる世界が違うので、苗字を持っていません」
「そうなのですね……。はやくお会いしてみたいです」
「おっ! お前が放蕩息子か?」
突然、頭の上から声が降ってきた。
「おお、噂をすれば。お久しぶりです、閣主」
「お久しぶりですね、梅盟主。お変わりないようで安心しました」
「いやいや、若い人たちには負けますよ」
「またご謙遜を」
悠青は木の上からひらりと舞い降りてきた男性から目が離せなかった。
純白の深衣は裾が青に染められており、まるで雪原におとずれる小春日和の空のように美しく、またそれが似合っている杏憂は天女のように美しかった。
「ご紹介します。我が姪の長子にして将来は瓏国の国父とも名高い簫 悠青殿下です」
「ほうほう。小僧、残念だが私は君の大伯父上のように優しくはないぞ。それに、市井の人々のように君の肩書にひれ伏したりもしない。私から学びたいなら、必死で食らいつくことだ。いいかな?」
「も、もちろんです! どうぞ、雑用でも何でもお申し付けください! 学ぶに値する人間だと証明して見せます!」
「……いいね。気に入った。さっそく書物を五冊貸し出そう。明後日までに読んで内容をまとめて提出したまえ」
「は、はい!」
杏憂は「では、あとは私が連れて行きますね」と凛津に告げると、悠青の腰辺りを抱え、跳躍した。
「うわああああ!」
「おいおい。こんなことで驚いていたら修業なんて進まないぞ」
「ひ、ひえええ!」
武術大会で幾度となく遥か上空へと跳躍する武人を見てきたが、杏憂のそれはその比ではなかった。
飛んでいる。
これはもう、浮遊、いや、飛行なのではないだろうか。
そうこうしているうちに、窓から鳳琅閣の中へと着陸した二人。
悠青は呆けた顔をしながら、まだ空を泳いだ余韻に浸っていた。
「ほら、五冊。君の部屋は当分私の隣だ。さぁ、あの緑色の暖簾がかかっている部屋を使うといい」
「あ、ありがとうございます……」
悠青は本を受け取ると、フラフラとした足取りで部屋へと入って行った。
木のにおいがとても心地いい。
部屋の中はこざっぱりとしており、調度品も家具も、必要最低限といった感じだ。
ただ、文房具だけは山と用意されていた。
墨、筆、硯、水、紐、紙、紙、紙、紙……。
「な、なんて贅沢な!」
悠青は気合を入れ直し、さっそく持ってきた荷物を横に置き、文机に向かい合った。
貸し出された本を開き、一行ずつ読んでいく。
三冊目を読み終えるころには、すでに陽が落ち、夕餉の時刻を告げる鐘の音が響き始めていた。
「悠青、ご飯の時間だ。食事と風呂と睡眠はどれも怠っては駄目だぞ。不健康な状態は勉学の妨げになるからな」
「はい。肝に銘じておきます」
「よし。じゃぁ、行こうか。食堂は二階だ。ちなみに、ここが何階かわかるか?」
「……七階だったと思います」
「おお、正解。あんなに騒いでいたのに、よく見ていたな」
「え、えへへ」
「さすがは元皇帝だな」
「……え」
耳鳴りがした。
息が荒くなっていく。
「まさか自身を殺し、皇位を簒奪した弟の子供として生まれてくるとは思わなかっただろう」
悠青は心臓が跳ねあがり、背中にぐっしょりと汗が流れた。
「な、なんのことだか……」
「隠しても無駄だ。言ってなかったが……、私は人間ではない。仙子族だ。多次元波長である私には、何も隠せやしないよ」
「せ、仙子……? た、た、多次元波長……?」
「その話は夕飯の後にでもゆっくりしてやろう。さぁ、行くぞ」
悠青は杏憂に手を掴まれ、部屋から連れ出された。
汗が止まらない。いや、その汗が冷えて寒気が止まらない。
どうして知っているのだろうか。
なぜ露見してしまったのだろうか。
何度思考を巡らせてもわからない。
悠青は頭が真っ白になった。
食堂に着いてから、一時間ほど経っただろうか。
味のわからない食事を終え、部屋へと帰ってきた悠青と杏憂。
向かい合って座っているが、杏憂が見ているのは悠青ではない。
その中にいる、簒奪された皇帝を見ているのだ。
「あの……」
沈黙に耐えきれず、悠青が声を出すと、杏憂は弾けるように笑いだした。
「あはははは! 何も取って食おうってわけじゃないんだし、誰にも告げ口する気も毛頭ない。なぜそんなに怯えているんだ」
「わ、わたしは……」
正直に言っても良いものなのだろうか。
しかし、正体を見破られたのだから、何を隠しても無意味だろう。
悠青は意を決して話し出した。
「わたしは、先生のお察しの通り、廃帝です。どういうわけか、弟の子として生まれてきてしまいました。それも、間の悪いことに、長子として。わたしはもう二度と皇帝になどなりたくないのです! 皇太子すら嫌です。親王でも苦しいのに……。だから、こうして修業に出してもらえるよう画策し、皇宮から離れたのです。お願いします。わたしはただ平穏に生きていきたいのです。どうか、皇位に関わらないようにうまく立ち回れる知恵をお授けください……」
「ふむ。そういうことか……。私は君の短くも美しい治世が好きだったがね」
「え?」
「君が皇位について二年目のことだった。大規模な飢饉で村々が疲弊し、民は飢え、明日の命もわからなくなりそうだったとき、君はすぐに国庫を開いた。自身も粗食を貫き、民と痛みをわかちあった。翌年の税金は徹底して安く設定し、他国や他民族との積極的な貿易で財を潤わせ、国が力を失わないよう努めていた。そして何より、一度も紛争すら起こらなかった。この乱世において、君は素晴らしい手腕をみせていたんだよ」
「……それがすべきことだったからです。わたしでなくとも、皇帝の地位と民を想う心さえあれば、誰にでも出来ることです」
「ずいぶんと謙遜するんだな」
「当然のことをしていただけですから」
「ふむ。……もしかして、殺された恨みが無いのか?」
「はい。皇帝でい続けるよりはマシかな、と」
「君の皇后だった言氏は辱めにあう前に、と、自害したんだぞ?」
「それが彼女の運命だったのでしょう。優しく、好奇心旺盛で、美しい人でした。きっと今度は素晴らしい人生に生まれ変われるはずです」
「達観しているんだな」
「いえ。誰を恨んでも、時間は巻き戻せませんし、戻す必要もありませんから」
「ほう。だから薬術を学ぶという名目で逃げ回っているのか」
「そうです。それに、薬術には生前から……、いや、前世? から興味がありました。学びたい気持ちは本物です」
「ならいい。なんでも教えてやろうじゃないか」
「ありがとうございます!」
悠青は深く頭を下げた。
やっと始まるのだ。
望んできた人生が。
江湖の生活に慣れるのは大変そうだと思う間もなく、一年、二年、三年と、濃厚な月日は過ぎていった。
始めは雑用も含めて薬草畑の手入れや、基本的な武術の型を使いながらの掃除を教え込まれた。
母からの手紙を読み、申し訳ないと思いつつも、一度も皇宮へは帰らなかった。
四年、五年、六年経つと、知識と共に身体も成長してくる。
だんだんと高度なことも教えてもらえるようになってきた。
それぞれの薬草が持つ特徴や、性質、副作用や毒性について教わり、実際に齧ってみるなどして時折のたうち回ったり、吐き戻したり、寝込みながら身体で覚えていく。
武術は対人戦へと移行し、武器も持たせてもらえるようになった。
この頃になると、一年に一度、一週間程は母の元へと帰るようになっていた。
七年、八年、九年になると、杏憂について村々を回りながら、問診の技術を学び、実際に調剤して渡すなど、実務経験を積んでいった。
一年に数回、皇宮へ戻ると必ず太医院に寄り、身につけた技術を共有していくようになった。
親王としての仕事も積極的にこなし、得た報酬で国中の薬舗への支援も開始。
銀子が払えず薬を買うことが出来ない人々にも、薬が行き渡るようにするためだ。
そして十年が経った日、突然杏憂に「そろそろ君も強くなってきたし。武勲でも挙げておこうか!」と言われ、半年間、戦場へ行くことになった。
無事に帰還し、十一年が過ぎ、十二年後。
「悠青! 妓楼へ行こう!」
「師匠! また調剤をなまけましたね⁉」
身長が伸び、武術の修業もこなしているおかげか、引き締まった体躯になった悠青。
黒曜石のように輝く長い黒髪は美しく、触れるとひんやりとした絹のよう。
藍色の深衣がよく似合う、美丈夫へと成長を遂げていた。
「どうせ君がやっておいてくれたんだろう?」
「……やっておきましたけど」
「じゃぁいいじゃないか。さぁ、妓楼へ行こう!」
「あのですね、わたしはまだ今年十九歳。成人していないので同行できません」
「いいではないか! 多少童顔だが、まぁ、着るものによってはなんとかなるなるぅ!」
「なりません! 行きませんからね。行くならお一人でどうぞ」
「かあっ! 可愛くなくなったなあ。初めてここに来たときはあんなにも可愛らしい子供だったのに……」
「どうもすみませんね! 師匠がぐうたらなせいで、仕事が山積みなんです!」
「失礼な! 仕事ならこなしているぞ」
「薬を求めてくるのが女人の時は早いですよねぇ」
「うんうん。そうだろう、そうだろう」
「いや、褒めていませんからね」
悠青は溜息をつきながらも、心はどこか晴れやかだった。
それもそのはず。つい先日、皇宮から使者がやってきたのだ。
もたらされた知らせには、来年、弟である宗室の親王が皇太子に冊封されると記されていた。
皇帝もしびれを切らし、心のどこかで諦めてくれたのだろう。
悠青の憂いが一つなくなったのだ。
「あ、また手紙が来ていたぞ」
「ああ、弟からですね」
悠青が文箱を受け取ると、先ほどまでふざけていた杏憂が真剣な表情になった。
「本当に、恒青殿下が皇太子に冊封されてもいいと思うのか?」
「弟は優しい子です。民を想う心もありますし、なによりも頭がいい。それにもう十六歳ですからね。次期国父として最適なのではないかと思いますが……、何か問題でも?」
「いや、まだわからないが……」
杏憂の渋い表情を悠青は不思議に思ったが、今日はまだ仕事がたくさんあるので、「では、調剤室に戻りますね」と言い、その場を後にした。
「私の杞憂ならばいいのだがな」
杏憂は袖の中で何かを握ると、そのまま外へと出て行った。
向かったのは妓楼、ではなく、繁華街の隅にある茶屋。
そこで、ある人物と待ち合わせをしているのだ。
「あ、ああ……。本当に来てくださるとは」
「私も気にかかることがありまして」
杏憂の前にある席に座ったのは、外套を深くかぶった太監だった。
「それで、どういうことなのです?」
「誉王……、も、もうその名で呼ぶことすら憚られるほどです。こ、恒青殿下は……、怪物です!」
声を潜め、それでも力が入ってしまったのか、太監は震える身体を抱きしめながら話し出した。
「見てしまったのです。最初は六歳の時でした。花壇で何かを埋めていらっしゃったので、球根かなと思い、あとで見に行ってみると……、う、埋められていたのは猫の死骸でした」
その後も、太監はことあるごとに恒青が動物の死骸を埋めているのを目撃したのだという。
「牛車や馬車に轢かれていたのを弔っていた……、とかではないのですね」
「そうです。恒青殿下は皇宮の近くの林に罠を張り、そこで捉えた小動物に……、ご、拷問まがいのことをしてから殺し、埋めているのです!」
「やはり……」
「や、やはりと申されますと?」
「これです」
そう言って杏憂が見せたのは、動物の毛だった。
「毎回、悠青殿下に届く文は必ず一度確認してからお渡しするのですが、何度か動物の毛が挟まっていたのです。おそらくは、拷問の際に服に付着したのが落ちたのでしょう。幾度か血も着いたままでした」
「な、なんということ……」
「今回ご連絡いただいたのは動物への拷問が原因ではないのでしょう?」
「左様です。……殿下は……、殿下は、つ、ついに……、に、人間を……」
太監はそれ以上口にすることが出来なかったのか、泣き出してしまった。
「侍女ですか」
「い、いえ。侍女や宮女の数は皇后陛下が厳しく管理しておいでです。殿下が手を付けたのは……、妓楼の裏口に食料を求めてやってくる、家の無い子供たちです……」
杏憂は心に沸き起こった怒りが言葉となって口から出て行った。
「外道め……」
「どうか、どうか悠青殿下に、恵王殿下に皇宮へお戻りいただけるよう、説得していただけませんか⁉ このままでは怪物が皇太子に……、そして皇帝になってしまいます! でも、恵王殿下ならば安心して国の行く末をお任せできます。聡明で、慈愛にあふれ、勇気もある、素晴らしい方です。どうか、どうか……」
杏憂は目の前で泣き崩れる太監を見つめながら、悠青に初めて会った日を思い出していた。
必死に「皇位には関わりたくない」と懇願していた、幼い子供を。
「他の親王のみなさまや郡王はどうなんですか?」
「何人か、優秀で真心のある皇子様はいらっしゃいますが、恒青殿下と戦うほどの気概は感じられません。将来皇帝を支えるという役割を受け入れているといった印象です」
「そうなのですね……」
後ろ盾という意味で貴妃の子供ならば同格に戦えるのではとも考えたが、残念なことに貴妃には三人の公主しかいない。
男児は産んでいないのだ。
淑妃の息子は穏やかで頭もいいが肺を病んでおり身体が弱い。
徳妃の息子は幼少期の事故で聴力を失いかけている。
嬪たちの息子は後ろ盾が弱すぎて宗室と争うには力が足りなすぎる。
そうなると、どう本人が嫌がろうとも、賢妃の嫡子で、皇帝にとっては長子である悠青に期待が集まるのも無理はない。
「話してはみます。ただ……。殿下は皇位に興味はないようです。時々帰省してはいるものの、十年以上、我が鳳琅閣で修業を続けているくらいですから」
「承知しております。お願いいたします。では、私はこの辺で失礼いたします……」
太監は肩を落とし、来た時と同じようにそっと繁華街の人混みへと消えていった。
「困ったことになったな。それも、かなり」
杏憂は盛大に溜息をついた。
一応は話してみるつもりだ。
一応は……。
「申し訳ありませんが、それでも嫌です」
杏憂は「だよな」とうなだれた。
鳳琅閣に帰って開口一番に悠青に太監の言葉を伝えたのだが、思っていたのと同じ結果に終わった。
「心配ではないのか?」
「そりゃ、心配ですよ! でも、わたしが皇帝になることはありません」
「じゃぁ、どうすれば……」
悠青は一つだけ、頭に浮かんだことがあった。
しかし、それは国を救うとともに、大きく裏切ることにもなる。
「話してみろ」
悠青の表情から何かを察したのか、杏憂が目を覗き込むように見つめてきた。
「……一人、とても素晴らしい人物を知っています。勇敢で思慮深く、民を、国を愛し、戦でも神のごとく戦場を駆け抜ける、そんな男を」
「なんだと⁉ そんな男、瓏国にいたか……。はっ! もしや……」
杏憂は目を見開き、驚きに高鳴る鼓動を抑えるように胸に手を当てた。
「そうです。瓏国の者ではありません。彼の名は穆 祁陽。燕国の皇帝陛下です」
「せ、戦争を起こすのか⁉」
「それは瓏国次第ですね」
「でも、何故……」
「祁陽は前の人生の時に出会い、ともに切磋琢磨した親友です。年下でありながら、その武勇はわたしの精神を震わせ、心根の優しさには何度も救われました。祁陽が支えてくれたから、わたしは皇帝として奮起することが可能だったのです。わたしたちは両国の、ひいては中原大陸の恒久の平和を願い、革新的な同盟を組むはずでした。しかし、その前にわたしが殺されてしまい……。今は燕国とは疎遠になってしまっています。彼ならば、祁陽ならばきっと素晴らしい皇帝として瓏国も治めることが出来るでしょう」
「……勝算はあるのか」
「師匠が協力してくださるなら、あります」
まっすぐな瞳。
悠青の本気が、杏憂の好奇心に大きな炎を灯した。
「……よし。いいだろう。その作戦、のった!」
「ありがとうございます!」
「ただ、そのままじゃなぁ……」
杏憂は悠青を眺めながら小首をかしげた。
「え、な、何がですか?」
「瓏国の親王が『うちの国を奪ってください』なんて言って信じてもらえるとでも思っているのか?」
「うっ……」
「偽名と別の実績での知名度が必要だな……」
二人は眉根を寄せながらうんうんと唸った。
「実績は……、そうだな。薬術師として有名になればいい。それが一番の近道だしな」
「はい。わたしも得意ですし」
「次に見た目だが……。その美しい髪を染めてしまおう」
「か、髪を染める⁉ 黒には色が入りませんよね?」
「まかせろ。私は仙子だぞ? そのくらい余裕だ」
「はあ、そうですか。では、偽名はどうしましょう」
「この世に太平をもたらす瑞獣と言えば、麒麟だ。だがそのまま名乗っては面白くもなんともない」
「面白さは求めていませんが……」
「甜子、というのはどうだ?」
「甜子、とは?」
「別名、甘露子とも呼ばれる存在で、意味は〈神々に愛されし子〉だ」
「え、大仰すぎませんか?」
「まぁ、そのまま名乗ればな。だからこうしよう。今日からお前は桂甜だ!」
「桂甜……。気に入りました。名付け、ありがとうございます」
「所属はここ、鳳琅閣でいいだろう。もし誰かが桂甜と悠青の共通点に気付いたとしても、同じ場所で修業していたのならそれも道理だと説明できるしな」
「さすがは師匠。抜け目ないですね」
「まあな!」
こうして始まったのである。
国の安寧を願うかつての廃帝が目指す、平和のための国盗りが。