夏休み。麦わら帽子と自転車と夕立。
太陽が雲に隠れて、うだるような暑さが少しだけ和らいだと思っていたのも束の間。
夏は自分の季節だと言わんばかりにまたひょっこりと顔を出した太陽の強烈な日差しに、私は大事なことを思い出した。
頭に手をやる。
熱を孕んだ、髪の毛に触れる。
麦わら帽子が無い。
今日、出かけるときにはかぶって出たはずだった。
けれど、今は無い。
どこだろう。
どこに忘れてきたんだろう。
ここまで歩いてきたコースを思い出す。
きっと、あそこだ。
公園の木陰のベンチ。
あまりに暑くて、自動販売機で飲み物を買って、あそこに座って飲んだ。
そのときに、額の汗を拭くために帽子を脱いで、脇に置いたんだ。
ちょうど木陰にいるときに日差しが翳ってしまったので、帽子を忘れてきたことに今の今まで気付かなかった。
普段、帽子なんかめったにかぶらないものだから、違和感がなかったせいもあるだろう。
買ったばかりの、白いリボンの麦わら帽子。
参ったなぁ。
思わず、ため息をつく。
公園からここまで、だいぶ歩いてきてしまった。
しかもここまで下り坂で楽をしてきた。ということはつまり、戻る道は上り坂ということだ。
でも、そのまま帰るわけにもいかない。
仕方ない。
覚悟を決めて歩き出そうとした時、ちりんちりん、と軽やかなベルの音がした。
「高村ぁ」
軽い声で私の名前を呼びながら、こちらに向かって自転車をこいでくるのは、見慣れた坊主頭。
野球部の曽根だ。
珍しく、制服でも練習着でもない普段着姿。
真っ黒に日焼けした顔に満面の笑みを浮かべている。
「何してんの、こんなとこで」
「別に。ただの散歩」
私は答えた。
「曽根は?」
「俺はこの自転車の試し乗り」
曽根は得意げにそう言うと、私の真横でスポーツタイプの自転車を止めた。
「ほら、かっこいいだろ」
「自転車はよく分かんない」
「すげえ軽いんだぜ、ほら」
曽根は自転車から下りると、それを片手でひょいと持ち上げてみせる。
「本当だ」
曽根の自転車は、ぴちぴちのウェアにサングラス姿で流線型のヘルメットをかぶった人たちがよく乗ってる高そうな自転車に似ていた。
一学期までは、前かご付きの普通の自転車に乗っていた気がする。
「買い替えたの? 高そうだね」
「まあな。この間の西中との試合で三塁打打ったら、父ちゃんがすげえ喜んで買ってくれた」
「ああ、曽根のお父さん。買ってくれそう」
私は、まだ曽根のことを下の名前で呼んでいた小学生の頃によく顔を合わせていた、曽根のお父さんの豪快な笑顔を思い出す。
そういえば、すごく野球好きの人だった。
だから息子にも、塁なんて名前をつけちゃうんだった。
「今年は巨人も強いしね」
「そう。父ちゃんの機嫌もいいんだ」
曽根は、きひひ、と笑う。
「後で、そんな高いもの勝手に買うなって母ちゃんに怒られてたけどな」
そう言って、自転車を地面に下ろす。
「ふうん」
曽根も暑い中で、毎日部活を頑張っているんだから、それくらいのご褒美はあってもいい気がする。
「じゃあ、西中には勝ったの?」
「いや、負けた」
曽根は苦笑いする。
「向こうには二本もホームラン打たれた」
「そうなんだ。西中は強いもんね」
「でも、次は勝てるぜ」
曽根は私を見て胸を反らした。
「西中は三年が抜けたら結構弱くなったからな。今回だって、結構競ったんだ」
「そっか。がんばってね」
小学生の頃は、曽根の試合をよく見に行った覚えがある。
でも中学に上がって、なんとなく男女の違いみたいなものを意識するようになってから、クラスも変わったし、曽根とも疎遠になった。
どちらからともなくお互いに、高村、曽根、と他人行儀に呼び合うようになったのもその頃からだ。
だからこんな風に二人で話すのも、ずいぶん久しぶりだ。
周りに他の人の目がないからか、すごく自然に喋れている気がする。
「高村は、もう帰るところか」
「うん、そのつもりだったんだけど」
私はすっかり熱くなってしまった髪の毛に手をやる。
「麦わら帽子、公園に忘れてきちゃって」
「麦わら帽子?」
曽根は目を丸くした。
「お前がかぶるの?」
「うん。悪い?」
「いや、別に」
曽根が首を振ったとき、遠くの空で低いごろごろという音がした。
見上げると、北の空から大きな雲がぐんぐんと広がってきていた。
湿った風が吹き抜ける。
「あ、これ夕立になるぜ」
曽根がそう言って、自転車にまたがる。
「公園のどこ?」
「え?」
言っている意味が分からず、私は曽根を見た。
「何が?」
「麦わら帽子を忘れた場所だよ」
曽根は言った。
「俺がひとっ走り、取ってきてやるよ」
「え、悪いよ」
「傘持ってねえんだろ、今から歩いて取りに戻ったら、びしょ濡れになるぞ」
そう言った後で、曽根はにやりといたずらっ子みたいに笑った。
「その代わり、取って帰ってきたら俺の自転車のこと、ちゃんとかっこいいって言えよ」
「何、それ」
「ほら、早く」
曽根は焦れた顔をした。
「どこだよ、置いてきた場所」
「自動販売機の近くのベンチだと思うんだけど」
そう言った時には、曽根は自転車を漕ぎだしていた。
「それと、麦わら帽子かぶったところ、俺にも見せて!」
「えっ」
「約束な」
曽根は真っ黒に日焼けした腕を一度振り上げた。その背中がぐんぐん小さくなる。
上り坂を、まるで下り坂みたいに駆け上がっていく。
夏休みでも毎日学校に行って、部活で鍛えているだけのことはある。
曽根の自転車はたちまち見えなくなった。
暗くなってくる空を見上げて、少しずつ冷たくなってくる風を感じながら待っていると、驚くほど早く、曽根がまた坂の上に姿を現した。
私に向かって、大きく麦わら帽子を振っている。それに合わせて白いリボンが揺れる。
得意そうな、満面の笑顔。
そういえば、昔応援に行った野球の試合でも、ヒットを打った後の塁の上で曽根はあんな顔で私を見て笑っていた。
私も思わず手を振り返す。
それに合わせたかのように、地面にぽつりと黒い染みが落ちた。
「そこのバス停の屋根の下!」
曽根が声を張り上げた。
「早く、入れ!」
「うん!」
私は走り出す。
ぽつ、ぽつ、と黒い染みが増えていく。
夕立の匂いが、辺り一面に立ち込めた。