用心に用心を重ねた末
「宿に人相描きの道具を置いています。申し訳ないですが、ご足労をお願いできますでしょうか?」
ルリはそんな口上で『予茶屋』の店主と顔を隠した浪人『顔隠し』を連れ出す。
念のため、刀をはいた『顔隠し』からは距離を少しとっている。
(『顔隠し』が本気で斬りかかってきたら、気休めにもならないけど)
それでも、無策でいるよりは、ましだろう。
「用心深い」旅の連れのおかげで、ルリも気を付けることが身についた。
(敵の懐では決して戦うな。自分の有利な場所で戦え……か)
『予茶屋』で人相絵を描くこともできた。しかし、そこは虎口と判断した。
ゆえに、ウラベがいる宿へと二人を誘導してきた。それでも、念には念を。
馴染みの木賃宿まで着くと、ふうと息を吸って、ルリは扉をゆっくり三度叩く。
「はいはい。空いてますよ……っと、ルリちゃんか」
「えぇ、お世話になっています。人相描きのお客人を連れてきました。これから、よろしいですか?」
宿の主である『おやっさん』は満面の笑みを浮かべ、何度もうなずく。
「えぇ、どうぞ」
「かたじけありません」
ルリは顔をほころばせて、両拳を握って胸付近にかかげる。
「たすかります。お忙しくないか心配していました」
「いえいえ、構いませんよ」
おやっさんは、がらがらと扉を開けると、ていねいに中へ促してくる。
ルリは手に息を吐く。すぐに絵筆を握れるよう、手袋はつけていない。
「なにか作っているのですか?」
「えぇ。夜の食事にもご期待くださいね」
「においがとてもいいですね、夜はうどんですか?」
「いいや、そば切りにしようかと思っていてね」
軽く世間話をしながら、見慣れた安宿の奥へと進む。
「あぁ、予茶屋さん、お話は聞きました。この度はお気の毒に……」
同じ宿場の店主同士だ。おそらく、顔見知りなのだろう。
看板娘を失った『予茶屋』の店主へ、おやっさんは軽く礼をした。
「えぇ、俺も悔しくてさ。だからこの娘に頼ろうとね」
「なるほど。なるほど」
おやっさんの手が、ルリの頭にぽんと乗せられる。
「これでルリちゃんは腕がいいから、きっとすぐに下手人も見つかりますよ」
「そうだといいのですが……」
「ちかくに、いるかもしれませんからね」
「おい、それで、どこで描くんだい? 人相屋さんよ」
『顔隠し』は宿の中に入っても深編笠を取ろうとしない。
さすがにそれは怪しいだろ、とは思いつつ、ルリは表情を変えない。
「ゆおけを用意していますので……もう少しだけ、お待ちください」
「早くしてくれや!」
『顔隠し』がいらいらしてきたのか声をあげる。
ルリは水がめまで小走りにいき、墨のために水を汲む。
見かねたのか、おやっさんが手伝ってくれた。
「手伝いますよ」
ルリはおやっさんの顔を見る。おやっさんも意図を察してくれているのだろう。
「うまく描けるように祈ってください」
「もちろんだよ」
「いちばん奥の、部屋で描きます。行きましょう」
ルリが片手に湯桶を掴み、指で部屋を指す。
『顔隠し』、予茶屋の店主、ルリの準備に部屋へ向かう。
(あと……もう少しだけ)
ルリの眉間に谷がうかぶ。まだ、おやっさんに伝えることが残っている。
『顔隠し』に気づかれては、いけない。
「ひと払いをお願いしますね」
「それは構わないですが、いいのですか?」
「とつぜん出てきた人相絵の出どころ、気にする人もいるでしょうから」
「なるほど、なるほど」
「よろしくお願いします」
ルリはゆっくりと頭を下げる。下げたまま、最後の言葉を口にする。
「べらべらと話してしまいましたが……おやっさん、頼みます」
「おい! まだか?」
「はい! ただいま!」
『顔隠し』の声に慌てて振り返り、部屋に向け声をかけるルリ。
そんなルリの仕草に、おやっさんが一瞬だけ片目をつぶる。
(通じたか)
簡単な符丁とでも言えばいいだろうか。
ルリとおやっさんの付き合いなら、いちいち言わずとも通じる。
少し前に、「娘みたいに思っている」と言われたのを思い返す。
(私だって、あんたのこと嫌いじゃないよ。おやっさん)
ルリは雑魚寝部屋へ入る。そこには、『顔隠し』と予茶屋の店主が待っている。
寝床で膨らむウラベの布団をちらと見て、ルリは両頬を叩く。
◇◆◇
(布団を確認する時間は……さすがにないな)
布団の中にいなくても、この部屋のどこかにいるはずと思い直す。
殺されてはいないだろうと、雑念を払う。
「お待たせしました」
墨を溶き、筆を濡らす。
ルリの正面には看板娘を失った『予茶屋』の店主が正座している。
向かい合う二人を眺めるように『顔隠し』は胡坐をかいた。
「では、色々と伺いながら描いていきます。人相描きのご経験はありますか?」
『予茶屋』は宿場の中でも往来の多い場所にある。
検分やらで、人相描きの経験があっても不思議じゃないだろう。
「ありません」
「では、手習いがてら、誰かの顔を……そうですね。ご浪人さまに協力のお願いはできますか?」
「どういうことでい?」
「人相描きでは、話し手が、顔の特徴をどう話してくれるかを、まずは知る必要があります。要は、補正作業です。そのために、ご協力していただけないかと思いまして」
「残念だが、この笠をとることはできないねえ。それとも何か? 嬢ちゃんは我の面を拝まねえと仕事ができねえって言うのか?」
『顔隠し』の表情は見えない。
しかし、声は固く、明確な拒絶をあらわしていた。かたくなに顔を晒さない。
『顔隠し』の人相を改めておきたいが、難しそうか、とルリは思った。
(そういえば、名前もわからないな。こいつ……)
とりあえず『顔隠し』のことは置いておく。
「いえいえ。滅相もない。……でしたら、店主さま。私の顔を言葉で教えてくれますか?」
ルリの言葉に『顔隠し』はふんと鼻を鳴らす。
「あ、あぁ。なんだか緊張するね」
「気楽にしてください。それが一等うまく進む秘訣です」
人相描きは、何をおいても話し手の緊張を取るところが大事だ。
『記憶の中にある人物の、印象的な特徴を描き起こす』
これを為すのが、いい人相描きである。
つまり、本物そっくりに描く必要はない。その人物だとわかればいい。
そして、それを妨げるのが話し手の緊張。
緊張のあまり、怒鳴られた岡っ引きの特徴を語った話し手。
「夫にどう説明しよう」と考えていたのだろう。
できあがった人相が夫の顔になってしまった婦人などなど。
こんな話、人相屋をやっていればいくらでも耳に入ってくる。
人の記憶はあいまいで、時に嘘を吐く。
しかし、わざわざ先人の轍を踏む必要はないのだ。
話し手の緊張を取って落ち着いてもらえば、そんなつまずきも減る。
(まあ、忘れているのに、覚えているとか言う奴もいるけどね)
店主の言葉に合わせて、ルリは筆を滑らせる。
最初はたどたどしかった店主も慣れてきたのだろう。
何枚か半紙を反故にした頃には、堂々たる腕組みで修正を要求してくれた。
(なるほど、なるほど……)
何度かの修正を繰り返し、店主の癖が掴めてきたルリは、本題に入る。
「では、店主さまが見たという辻斬りの姿形は、いかがでしたか?」
「えぇと、けっこう背は高かったな。刀を肩に背負ってた」
「ふむふむ」
店主は滔々と背丈や格好などを伝えてくる。辻斬りは浪人然とした姿らしい。
「目はつぶらで……頭は……ええと……」
瞬間、ぞわっとした感覚がルリの体中を駆け巡る。心臓の鼓動が早くなった。
背中に冷たい物を感じる。暖かい部屋のはずが、腕に鳥肌が立つ。
(おいおい、やめてくれよ)
何でもない表情の振りをしているが、ルリは顔を歪めるか叫びたかった。
看板娘を失った店主は、顎に手をあてながら、容赦のない言葉を続けてくる。
「ざんばら頭に……頬に刀傷……」
それは用心深い男の姿。紛れもなく、ウラベの人相だった。