昭和の終わりの話
話は昭和63年の秋にさかのぼる。
明け方に目が覚め、ふとTVをつけるとブラウン管に
「天皇陛下、吐血」
という文字が踊っていた。背景は夜明け前の高速道路の映像が流しっぱなしだった。
当時小学4年生の感想としては
「ああ、お年を召していたしなあ」
が正直なところである。
それからというもの、あらゆるメディアが、陛下のその日その時の血圧や脈拍、容態などを報道するようになる。
危険な状態・小康状態などの言葉を耳にしては
「これはもう亡くなる直前なんだな」
と、私のみならず国民全員がそう感じていたと思う。
事実、週刊誌などの表紙で
「天皇陛下のXデー」
と銘打った見出しがあったくらいだから。
全国的に賑やかなことを避ける
「自粛ムード」
も漂っていた。
私の家の近所の秋祭りも行われたには行われたが、毎年の屋台やカラオケ大会はなかった。
年末年始も、普段賑わうはずの場所でも活気がなく、初詣に行っても屋台は出ていなかった。
「自粛め…」
食い意地の張った小学生は少し恨んだ。
しかしそういうことが日常になりきっていた。
昭和64年1月7日。
家族の中で一番早起きした、といっても6時30分過ぎだ。
TVをつけると、いつものニュースではなく、政治家が何かを話していた。
ああ、と察する。
その数分後、真っ黒な下地に白の手書きのテロップで
「天皇陛下 崩御」
その時
「天皇陛下が亡くなるのをホウギョと呼ぶのか」
という新しい知見と
「明日から3学期だけど、今日だったら臨時休校になったかもなぁ」
という超利己的な事情について考えた。
大人、こと当時の老人にとっては心を揺さぶられたり、大騒ぎだったのかもしれないが。
祖父母と同居もせず、戦後生まれの両親のもとで育った10才にとっては、特に思うところなく、ただ、お年を召した、国で一番えらい人が亡くなる、ただそれだけの話だったのだ。