平成7年の春の足音は、とても騒がしかった
平成7年の3月下旬。
リアルタイムでは見ていないし、通っていた高校は隣町だったから自転車通学だったため、帰宅しニュースを見たら、東京都心部が大騒ぎになっていた。
地下鉄にサリンが撒かれ、交通網が麻痺し、死傷者が多数出た、治療中と報道され、地下鉄の階段で口をハンカチでおさえてうずくまる多数の人々や、ストレッチで重症者を運ぶ救急隊員などの映像が流れた。
ただ、関東圏の片田舎、たまに行く東京はもっぱらJRで移動していた高校生としては、ピンとくる地名は霞ヶ関くらいで縁遠い場所の他人事ではあった。しかし、そこが東京の中枢部である認識は持っていたので
「これは酷いことが起きたな」
とは感じた。
そしてその2日後だったろうか。
私の1つ上の先輩たちが修学旅行から帰ってきてから初めて部室に顔を出し、そのうち2人が
「東京駅で解散されたけど、地下鉄乗り入れの電車じゃないと帰れないのに、いつまで経っても運転が再開されないから、俺らどうしたらいいんだって、夕方までずっと置いてきぼりなんよ」
と、苦笑いをしていた。
この事件と前述の事件たちがどうやって線として繋がったのかは忘れたが、これらはオウム真理教による犯行だと確定的に報じられた。
それにあちらなりに反論するために、毎日1回は、広報と名乗るインドの民族衣装のような服の若い男性が記者会見を開き、記者たちと舌戦のようなものを繰り広げた。
最初のうちは細面の若手弁護士も一緒だったのだが、逮捕されたかだったか何らかの事情で、ある時期から居なくなった。
そんな日が続き、彼は時に感情的な面を見せるようになり、パフォーマンスだったのかもしれないが、自前で用意したフリップを投げ捨てたのは印象に残っている。
彼のその様子は当時の流行語になった。
当時科学部に所属していたので、そのうちに尋ねられるだろうとは思っていたが、やはり
「サリンって理科室で作れるの?」
と聞いてきた輩はいて、空気に触れたらすぐ死ぬようなガスを発生するものをどうやって学校にある小規模な設備で作れと?と思った。
有機化学に精通している先輩も同じことを同級生に言われ、こんな場所で作れる筈もない、もとより生成の難しいものなんだがな、と少々憤りながら部室で語った。
何だかんだと、私たちもオウムに迷惑をかけられてはいた。