スピンオフその1 後編 悟り後
阿修羅はシッダールタと会えるのか?
(後編) 悟り後
シッダールタの煩悩が全て取り払われ、というか阿修羅によって斬り倒され、ついに最高位である仏覚に到達した。
智慧の最高峰である。
全てを極めたシッダールタは、天界にいた。
彼を遮るものは何もなくなった。
時間も空間も世界も全てが彼の内であり、外となった。
「ようやくたどり着いたな」
その声にハッとするシッダールタ。
「あなたは」
そこにいたのは、髪を結い上げ、美しい袈裟を纏った仏陀だった。
つまり自分である。
「貴方をずっと導いてきました。もうその必要もないですね」
そう言うと仏陀は軟らかい笑顔を向けた。
阿修羅にかけていた声の主も彼だった。
「後は他の者に任せましょう。私の出番は終わりですから」
その言葉を最後に仏陀はふっと消えてしまった。
いや、もしかするとシッダールタの中に入ったのかもしれない。
「お待ちしておりました。シッダールタ殿、いえ、仏陀殿」
仏陀が立ち消えた後、シッダールタの前に現れたのは、梵天と呼ばれる宇宙の創造主の一人だった。
「人間界を救うために産まれたあなた。よくぞここまで来てくださいました」
――梵天様。そんな凄い人に会えるのか。でも、う~ん。それより早く阿修羅に会いたい――
内心シッダールタはそう思う。
ここまで来てもまだ煩悩が?
いや、そういうわけではない。
シッダールタは長い修行と瞑想で得た最高の智慧を、下界にいる人間たちが理解するなど到底無理だと思った。
その原動力となった阿修羅への想いについても、これほど人を愛することなどできないと確信していた。
で、このまま阿修羅と永遠の時を紡ぎたいのである。
それは、人間界での死を意味するのだとしても。
「阿修羅殿は既に救われました。今は天界のお住まいにおられます」
シッダールタの真意に気が付いたのか、まずは飴からと梵天が誘う。
「そうなのか! ではすぐに会いに行かないと」
「恐れながら、お待ちください」
梵天が次はムチを提案してくる。
「仏陀殿。人間たちは救えないとお考えですね」
ちょっとぎょっとする。さすが創造主。私の心が読めるのか。
いや、あんたの顔見てたら誰でもわかる。
「梵天様。恐れながら、あのような智慧を得るには、相当な覚悟と熱い思いがなければ難しいでしょう。彼らには到底実現できません」
シッダールタはもっともらしく言ってみた。
「全ての人間が貴方の境地に立つなどありえません。でも、貴方を慕ってきた、信じてきた者たちに、良き人生を送らせることはできる。そして何人かの秀でたものが、それを後世に伝えることができる。ほら、御覧なさい」
梵天の言われるままにシッダールタは人間界を覗き見る。
そこには、菩提樹の周りに集まる、修行僧の姿が見えた。モッガラーヤはもちろん、リュージュやナダもいた。
かつて共に修行していた者や師と仰いでいた者、それに鹿や象などの獣たちまでいた。
阿修羅は天界の一角に造られた屋敷でシッダールタを待っていた。
煩悩を叩き切った瞬間、辺りは光に覆われ、目が開けられないほどだった。
そして、一人の図体のでかい男が阿修羅を迎えに来た。
そいつは帝釈天と名乗った。
頭の先からつま先まで光り輝く宝珠で飾り付けたような、まあ強いていえばイケメンな部類に入る年長の男だった。
しかし、阿修羅は会った途端、何故かむかついた。
「お迎えに上がりました。阿修羅王」
と、あちらも何か含みありげな笑顔を伴い、阿修羅をこの屋敷に連れてきた。
屋敷と言っても、天界の屋敷は形がしっかりとあるわけではない。
なんとなくここが扉かな? と思うと扉が開く。
ここに座りたいな。と思うと椅子があったりする。
しかし、とにかく居心地はいい。
寒くもなく暑くもなく、乾いても湿ってもいない。
――まだかな。早く会いたい――
シッダールタにはどれくらいにぶりに会うのだろう。
人間時間にすれば、十年ほどだが、奈落ではどのくらいだったかわからない。
ふっと横を見ると、ふかふかのただっ広い寝床がある。
――ああぁ。もうなんか、恥ずかしくなるな。正直すぎるーー
阿修羅は一人赤面する。
「阿修羅!」
なんてことを考えていたときだった。
扉を開けるのももどかしく、シッダールタが入ってきた。
「シッダールタ!」
二人は飛びつくようにお互いの元に走り、しっかりと抱き合った。
「よく、耐えたな。阿修羅」
シッダールタが耳元で言う。
「それはおまえに言う言葉だ。私はおまえを信じていただけだ」
なんだか涙が溢れて溢れてどうしようもない。
綺麗な袈裟を着ているシッダールタの肩が濡れてしまう。
「あ、ごめん」
顔を上げてシッダールタを見る。
あれから、人間界の時間では十年ほどが経っていると聞かされた。
だが、シッダールタは、あの日のままだ。
「おまえ、変わらないな」
そう言うと、シッダールタは笑い出した。
「それはおまえが見たい姿を映しているからだよ。天界では普通のことらしい」
「え? お、おまえまさか私を巨乳にしてるんじゃないだろうな!」
はっとして阿修羅は胸のあたりを隠す。
シッダールタはその姿に思わず噴き出した。
「馬鹿だな。私の煩悩はおまえが斬り捨ててくれたじゃないか。それに嘘は見えない。おまえはあの時のままだ。美しく光り輝いている」
そう言うと、シッダールタは優しく阿修羅の髪を撫でる。
「ああ、そうか。そうだな。えっと今からどうしようか。お茶でも飲むか? なんかお茶が欲しいって思うとお茶が出てくるかも」
阿修羅はきょろきょろと辺りを見回す。
その目の端で、寝床が気になって仕方がない。
「それは無理だろ。煎れてやるよ」
シッダールタが煎れてくれたお茶を飲みながら、阿修羅はちょこんと椅子に座っている。
――あ、慌てることはない。これから時間は無限にあるんだから――
「あのな。阿修羅。おまえに伝えなくてはならんことがある」
「え? え、なに?」
――そう言えば、シッダールタはなんでこんなに落ち着いてるんだろう。私が死ぬ前はしょっちゅうヤリたがって、私を困らせていたのに――
「私は、また人間界に戻らないといけないのだ」
危うくコップを落としそうになった。
「な、なんだと!? 冗談言うな! おまえの仕事は終わったんじゃないのか?!」
阿修羅は見るからにうろたえて立ち上がった。
またなんか涙が出てくる。
「悟りを開き、仏覚に到達したとき、こんなところへは誰も来られないと思った。人々に何も教えられることはないと」
そう言ってシッダールタも立ち上がると、阿修羅の肩を抱き、隣どうしで座り直した。
「だが、あれから私は随分と長い時間をかけてこの道に到達した。それまでにたくさんの人々に支えられ、教えられ、時には施しを受けて生きてきた」
シッダールタの肩に頭を預けて、阿修羅は黙って聞いていた。
不思議に気持ちが落ち着いてくる。
「例え、仏覚の域まで辿り着けなくても、彼らを少しでも高いところへ導いて救いたいのだ」
「シッダールタ。本当に仏陀になってしまったんだな」
阿修羅がシッダールタの目を見て言う。黒目が光を湛えながらも限りなく澄んでいる。
顔が近い。頬が熱くなるのを感じる。思わず唇をよせてみた。
「おまえとは、いつでも会える。ここにはいつでも来れるから」
そう言うと、阿修羅の唇に人差し指を置いた。
「たとえ救えなくても、私の教えを信じてくれた智慧のある者は、それを伝えてくれるだろう。長い、気の遠くなるような時がかかるかもしれないが、いつかはその教えが世の人々を救うことになる」
口づけしてもらえないのを不満に思いながらも、最後まで阿修羅は聞いていた。
「救世主に……、なるんだな。おまえ」
それには答えず、シッダールタは阿修羅の頭を自分の肩に寄せて髪に口づけをした。
「どのくらいなんだ? 今度は長いのか?」
「そうだな。人間の寿命だから。三十年くらいかな」
――長いな……。でも、いつでも会えると言ってくれた――
「いつでも、来てくれるんだよな」
体をねじり、シッダールタの顔を見上げるようにして言った。
「心配しなくて大丈夫だ」
不安げな阿修羅をしっかりと抱き留める。
暖かくて、広くて、逞しい。あの頃と全く変わらないシッダールダの腕の中で、阿修羅は夢心地になってきた。
「ちゃんと来るから。おまえが寂しがっているとわかれば、私はいつでも飛んでくる。一瞬で来れるから、心配しなくていい」
シッダールタの優しい言葉に、つい頷く阿修羅。
「わかった。人でも何でも救ってこい。私は平気だから」
「ありがとう。私もおまえがいなければ、ここまで来ることは叶わなかった。どんなことがあっても、おまえを救うと、それだけのために精進した。ありがとう」
シッダールタはそう言って、もう一度髪に口づけすると、阿修羅から体を離した。
「じゃあ、もう行くよ。人間の体に戻らないと」
さっきまでの甘い言葉も乾かぬうちに、シッダールタはさっさと立ち上がった。
「な、なんだとぉ!」
阿修羅はシッダールタの後を追う。
「おまえ、人をどんだけ待たせて、これで戻るってどういうことだよ!」
さっきまでのトロトロだった阿修羅はどこにいったのか、髪逆立てる勢いで怒り出した。
まあ、無理もない。阿修羅は誰と交わることもなく。
息をしている間、ずっと奈落で何かを斬っていたのだ。
心を失わないように、シッダールタを思い出しながら。
それがまた辛い記憶であっても、会えない苦しさと不安を思い起こしたとしても。
このまま、魂を喰われて魑魅魍魎の一部になる方が楽かもしれない。
そんな風に思ったこともあった。
だが、その都度、自分が救われるのはシッダールタも救うことなのだと信じて、耐えたのだ。
「す、少しは私の気持ちもわかれよ!」
また自然と寝床に目がいってしまう。少し頬が赤い。
「あ、ああ」
シッダールタは合点がいったというように、阿修羅の手を握った。
「すまない。私にはもう煩悩がなくてね」
「な、なんで? わ、私が斬り捨てたからか?」
真っ赤になって阿修羅が言う。
「必要なことだったから、それは構わないんだ。でも、少なくとも生きている間は自主規制しないとな」
どこまでも澄んだ瞳でシッダールタが言う。
阿修羅は体中から気力が抜け落ちていくのを感じた。
「そ、そうか。あはは。馬鹿だな。私は」
自分を恥じるように、阿修羅はゆっくりと手を離そうとした。
が、シッダールタはその手を再び自分の方に引き寄せた。
「代わりと言ってはなんだが。ほら、手を握って、目をつぶってごらん」
「え?」
阿修羅はシッダールタに言われるまま、目を閉じた。
シッダールタの暖かい手が阿修羅の手を少し強く握ったのがわかる。
「あ……」
その手のひらから、ゆっくりとシッダールタの熱や血流や思念が流れてくる。
それはまるで、二人身体を重ねているように。
自分のからだ中に、指の先から、首すじや、背中、柔らかい部分、その全てにシッダールタを感じられた。
「んん……」
阿修羅はそのシッダールタの宇宙のような空間を漂った。
目を閉じているのに、シッダールタが自分を見ているのがわかる。
どのくらい経っただろうか。すっかり満足した自分がいた。
「どうだった? 魂を交流させた。おまえとだから、できることだけどね」
阿修羅が目を開けると、シッダールタの幸せそうな笑顔があった。
「うん、大丈夫だ」
「機嫌なおった?」
「ああ」
阿修羅は気恥ずかしそうに下を向いている。
「もう一度顔を見せて。もう行かないといけないから」
そう言われて、顔をあげる。
「すぐ、会えるよな」
「もちろん」
シッダールタは阿修羅の額に口づけすると、屋敷から出て行ってしまった。
彼の気配が消えてしまうまで、阿修羅はずっと屋敷の扉を見つめていた。
これから実は五十年も待たされることになるとは、阿修羅は知らない。
おまけ 天界その後
シッダールタが人間界に戻って数日後、阿修羅を訪ねる者があった。
梵天と帝釈天である。
「此度はご苦労だったな」
「なんだ、一体。なんの話だ」
梵天と帝釈天は顔を見合わせて笑い出す。
「阿修羅、おまえホントに全部忘れてるんだな」
帝釈天がため口をきいてきた。
「無礼な奴だな。神かなんか知らんが、私にタメ口たたくな。忘れてるって、何のことだ」
「いや、これは失敬。それはそうと阿修羅殿、貴方にお願いがございます」
笑いをこらえるように帝釈天が言う。
「阿修羅殿」
おい、っと帝釈天を制して梵天が後を続けた。
「貴方には修羅界の王となってもらいます。この屋敷にはいつでもお戻りになって構いませんが、修羅界で仕事をしていただきたい」
――は?――
一瞬ぽかんとした阿修羅は、ややだらしなく口を開けてしまった。
「な、何言ってるんだ?」
「阿修羅殿は仏陀様の救いで奈落から出られました。もちろん、天界でのお暮しも許されております。ですが、修羅界には王が必要なのです」
修羅界とは、天界、人界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界 の六界の一つである。
前世で人としても畜生としても、争いごとを生業とし、始終戦いに身を投じた者たちが行く場所である。
好戦的なのが祟って、天界から堕ちた神々までいる。
「その者たちは、いつも修羅界で争いを起こしています。阿修羅殿にはそこを統治してほしいのです」
なおも梵天が言う。
「大体、こんなところにずっといても暇だろ? あ、お暇でしょう?」
帝釈天が言い直す。なんだか不愉快な野郎だ、と阿修羅は睨む。
――だが、たしかに退屈だ。久々に暴れたい気もするな――
「そうだな。ま、何やるのかわからないが、いいだろう。ここにはいつでも戻ってきていいんだな?」
「もちろんです」
口の端を少し上げ、上目遣いで二人の神を見る。
「いいだろ。その話、乗った」
「感謝いたします」
梵天と帝釈天は深々と頭を下げた。
その三日後、阿修羅は修羅界へと降りて行った。
「やはり、この方が私らしいな」
久しぶりに携えた剣を持って、阿修羅はふふっと笑った。
完
スピンオフ その2 リュージュの憂鬱な日々に続きます!