Part.41『友情と恋情と』
最終章「少女たちの懺悔」
私は夢を見ていた。
おそらく、中学一年の冬の夢だ。
場所は、中学校まで至る通学路。
明日香ちゃんは、悴んだ手に息を吐きながらマフラーを巻き直すと、そっと私に手を差し出した。彼女の顔は紅潮していて、差し出された手を握り返すと、手のひらはしっとりと汗ばんでいた。
吐く息も煙る寒空の下、なぜ、彼女の頬が紅潮していたのか。
なぜ、彼女の吐息は弾んでいたのか。
なぜ、彼女の手のひらが熱を帯びて、汗ばんでいたのか。
今ならば、すべて理由がわかる。彼女は私に――恋をしていた。
* * *
翌日、明日香ちゃんは学校を休んだ。そして、彼女がいないことに、心のどこかで安堵していた。
そんな自分に嫌気が差す。安堵している理由が、自明の理だったから。
私は、彼女の告白に対して、結論を出すことを恐れ逃げている。
昨晩、明日香ちゃんから受けた愛の言葉が、頭の中でリフレインしていた。知らなかったんだ。他人から向けられる好意が、こんなにも重かったなんて。彼女のことはもちろん好きだ。でもそれは、友人としての好きであり、明日香ちゃんの好意に対して、同じ形で応えてあげられない自分に気づいていた。だから、チャットアプリを開いて、何度も何度も、彼女にメッセージを送ろうとしては、結局送れずにいた。支離滅裂な文章を、書いては消して、書いては……消して、と考えをまとめられずにいた。
私は安堵していた。問題を、先送りする理由ができたことに。
ホッと胸を撫で下ろして、目を背けているんだ。
とんだ卑怯者だ。
昼休みになると、三度二年生の教室に向かっていた。彼女に対する自分の気持ちに答えを見出すため、今、聞いておかなければならない。
明日香ちゃんが言いよどんだ、過去の話を。
さすがに三度目ともなると手慣れたもので、いつも声がけをしてくれる男子の先輩……はなんとなくスルーして、未来さんの姿を見つけて呼び止めた。
「すみません。三枝千鶴先輩を呼んでもらえませんか?」
その名前が私の口から出たのが予想外だったのだろう。彼女は瞳を白黒させていた。
「え、あれ……? 千鶴と仲が悪いんじゃなかったの? 私の勘違いだった?」
「悪いです」と私は即答した。「顔も見たくありません」心底イヤだと言い放つ。「できれば不干渉の立場を貫きたかったのですが、いろいろと事情が変わりました。そんな感じに汲み取って頂けますと幸いです」と苦々しく吐き捨てた。
「どうなってんの」
困惑したように私の顔をチラリと見て、未来さんが教室の中に入っていく。
待つこと数分。
なんとも複雑な表情を顔に張り付かせた三枝先輩が、廊下に出てきた。
「アンタが私の所にやってくるなんて、珍しいことがあったもんね。いったいどういう風の吹き回しかしら?」
きっ、と先輩がこちらをにらんだ。そりゃあ私だって、話なんてしたくないですよ。でも、そうはいかないんですよ。まずは、率直に言ってみるか。
「ああ、もしかして、この間の不満でも言いにきたの? もしそうなら――」
「そういう訳ではないです。少しだけ、話をしたいことがあるのですが、今、時間良いでしょうか?」
「嫌だよ」
「そうですか。残念です。本当はこういう手段を使いたくはなかったのですが」
スマホをポケットから出してちらつかせてみる。明日香ちゃんに写真を撮られた一件を思い出したのか、彼女の顔色がサッと変わった。先生、二年生の先輩に嫌がらせを受けたんです、という対処をお願いするのも一興か。いつまでも根に持つ女だと思われるのは癪だが、この際四の五の言っていられない。
「ちょ、ちょっと、どういうこと」
「いえ、もういいです。それでは」
押してダメなら引いてみろ、ではないが、融通の利かない相手であれば仕方がない。私は背を向けて歩き始める。向かう先は職員室だ。切り札というのはこういうときに使うもの。周りにいた二年生の先輩たちが、怪訝な顔で囁きあっている。いいぞ、騒ぎが大きくなればなるほどこちらが有利になるのだ。仕切り直しになるのは面倒だが、情報を聞き出す方法なら、あとでなんとでもなるだろう、と悪いことを考えていたあたりで肩をつかまれた。
「ちょっと、待てって」
「話を聞く気になってくれましたか?」
「わかった聞くよ、聞くから。いったいなんの話を聞きたいんだよ」
ん~……と考えているふりをしながら、次の言葉を選んでいく。
「その前に、この間の件、謝ります。すみませんでした。頭に血が上ってしまって、配慮のない言葉を使ってしまったなと、今は少し反省しています」
こちらから頭を下げて、先日の非礼を侘びておいた。こうして下手に出ておいたほうが、後々話を進めやすい相手だからだ。
「ま、まあ、あのときは私も少し言いすぎたから謝るよ。で、なに? 話したいことってそれだけじゃないんでしょ?」
日が経ったことで案外冷静になれたのか、それとも安っぽい挑発が効いたのか、三枝先輩は、意外にも素直に頭を下げた。
よし、まあまあ壁は崩せたかな。ここらで本題を切り出してみるか。
「中学時代の話を聞かせてほしいんです。吹奏楽部に所属していたとき、明日香ちゃんと揉めたことがありますよね?」
ウラはいっさい取れていない。そうだろうと予測した上で、カマをかけてみただけだ。
「その話か」
と言ったきり、三枝先輩は沈黙した。非が明日香ちゃんの側にあるのなら、すぐ否定したら良い。そうしない時点で、自分の側に非があると、揉めた事実はあると、言っているも同然だった。
もう一度スマホをチラつかせようかと、悪役極まりないことを考えたところで、「そういうことね」と得心したように三枝先輩が呟いた。
「ここでは人目につくからさ、ちょいと場所を変えようか」
* * *
三枝先輩の提案によりやってきたのは、渡り廊下の途中にある自動販売機の前だ。脇にベンチが置いてあるため、話をするにはもってこいの場所だ。通る人の姿はまばらで、誰もこちらに注意を向ける様子はない。
自動販売機でお茶を二本買うと、一本を三枝先輩に差し出した。正直、ここまで義理立てするべき相手とは思わないが、一応の社交辞令というものだ。
それに、だいぶ話しにくいであろう内容で、口を割ってもらわなければならない。そのための出費と割り切れば、安いものだ。
お茶の缶に一度口を付けたあとで、三枝先輩が言った。
「直接夢乃に訊けばいいだろう? と言いたいのはやまやまなんだが、そうはいかない事情があるんだね?」
「その通りです。察しが良くて助かります」
それで納得したのか、無言で彼女がベンチに座る。言葉を手繰るみたいにしばし沈黙していたが、やがてぽつぽつと語り始めた。
「事の始まりは、加護が吹奏楽部を退部した少し後にまでさかのぼる。加護が退部した原因は私のいじめにあるんだろう、と夢乃の奴がつっかかってきやがったんだ」
その通りじゃないか、と思っていると、心でも読んだみたいに、「その通りだと思っているんだろ?」と彼女が訊ねてくる。「いえいえ、そんなことは」と心にもないことを言うと、「いいよ。実際その通りだ」と彼女は自嘲した。
「あの当時、部活の内部はふたつに割れていた。私を中心として、『程々に部活を楽しむ』というスタンスの人間と、夢乃やお前のように、実力いかんに関わらず、『しっかりと部活に取り組んでいる』人間だ。そういったエンジョイ勢の一人である私が、自分と同じスタンスで頑張っていた加護を退部に追いやったのが、さぞアイツは気に入らなかったのだろう」
三枝先輩が当時のことを語っていく。
私が中学二年のとき、三枝先輩はトランペットのパートリーダーだったが、その練習態度は決して褒められたものではなかった。それ自体は、彼女も自覚していた。それだけに、時々視線を向けてくる私のことが気に入らなかった。三枝先輩の不真面目さを、私が無言で非難していると、そう彼女は受け取っていたわけだ。
今さらのように、自分がいじめられていた理由が腑に落ちる。
「加護が退部した直後くらいの話だったろうか。私は、内定していたアンコン(アンサンブルコンテスト)のメンバーから突然外されてしまった。なぜ突然? と首をひねったものだったよ。だが、理由はいたってシンプルだった。しっかりと練習を重ねていた夢乃の実力が、私を上回っただけなんだよね」
どうだろう。少し違う気がした。
明日香ちゃんのトランペット奏者としての実力は、二年の春にはすでに部内でトップだったと思う。おそらく、彼女がアンコンのメンバーに名乗りを上げたことによって、押し出されるかたちで三枝先輩が落選したのではないのか。まあ、実力で負けていたこと自体はその通りだが。
「それから、ずっと私は面白くなかった。憂さ晴らしに加護の悪口を吹聴してまわったのもそのせいだ。『アイツは、部活動から逃げ出した負け犬だ』とかいろいろね。そのことが夢乃の逆鱗に触れた。ある日のことだ。部室で二人きりになったとき、夢乃の奴がしゃしゃり出てきたんだ。加護の悪口を言うのはもうやめてください、とね。そこから、売り言葉に買い言葉で口論となって、逆上した私は夢乃の首根っこをつかまえてロッカーに叩きつけた。これでアイツはビビるだろうと思ったんだ。ところが……」
「……反撃されたんですね?」
光景が、目に浮かぶようだ。「まあね」と三枝先輩の顔が苦み走った。
「まさか、夢乃の奴があそこまで腕っぷしが強いとは思っていなかったからね。逆に腕を取られて体勢を反転させられると、振り向きざまに殴られた。腰の入ったいいパンチだったよ」
嫌な記憶が脳裏を駆け巡っているのだろう。頬をさすりながら三枝先輩が遠い目をした。
「実にカッコ悪い話だが、鼻血を流して私はノックアウトさ。みじめに床に這いつくばった私を見下ろして、夢乃の奴、なんて言ったと思う?」
「いえ、それも聞いたことがないです」
「あなたに咲夜の何がわかるんですか! って叫んだんだ。目尻に一杯涙をためてな。まったく、意味わかんねえ」
そんなことが。うまく言葉を返せない。
「この暴力沙汰が原因となって、私はおろか、夢乃までがアンコンのメンバーから外されることになった。さらに夢乃は、コンクールで決まっていたソロパートからも外されてしまった」
これですべてわかった。明日香ちゃんは、ソロパートを外された理由を自身の不調にあると語っていたが、あれはやはり嘘だったんだ。
ふう、と三枝先輩が小さく息を吐いた。飲み干した空き缶をくず籠に放り込むと、ガランと乾いた音が響いた。
「これが、お前が部活をやめたあとに起こった出来事のすべてだ。正直、夢乃の奴も、私のことを恨んでいるだろうね」
三枝先輩は顔を上げると、「もういいか?」と訊ねてくる。「はい。言いにくいことを話していただいて、ありがとうございました」と殊勝に頭を下げると、じゃあな、と素早く踵を返して去っていった。
無人となったベンチに腰を下ろし、呆然と空を見上げる。
雲ひとつない、澄み渡った青空が眼前に広がっていた。だが、私の心はそれほど晴れてはいなかった。
事情を何も知らない人からは、三枝先輩と明日香ちゃんが、アンコンのメンバー入りを巡って争った事件に映ることだろう。だが、本質は違う。明日香ちゃんは、自分のために争ったんじゃない。私の名誉を守るために、三枝先輩の嫌がらせがそれ以上エスカレートしないように立ち向かってくれたんだ。
自身に降りかかるであろう不利益を、かえりみずだ。
なんてことだ。とてもじゃないけれど、知らなかったでは済まされない。
自責の念が、叫びとなって脳内で木霊する。私は彼女の告白をきちんと受け止めて、熟考した上で答えを出してあげなくちゃならない。
その日の夜。お風呂から上がると、鏡台の前に腰かけて、ドライヤーで髪を乾かしていた。
そういえば、最近鏡を覗く回数が増えた。去年までは、身だしなみに気を遣うことがなかったから、というか、そもそも自分の顔を見るのが嫌だったはずなのに。
私が変われたのは、間違いなく先輩のおかげだ。
ブラッシングを終えて、眉毛を整えていたとき、スマホが軽快な音を奏でる。画面を見ると、表示されていたのは『今泉京』の文字だ。
右手で眉毛バサミを器用に扱いながら、左手でスマホを拾い上げる。
「もしもし」
『ごめん、咲夜。今、大丈夫?』
「はい。大丈夫ですよ」
電話の内容は、夏休みに入ったら部活のメンバー全員で、気晴らしに遊びに行こうよ、というものだった。目的地は八景島シーパラダイス。「え、二人きりじゃないんですか?」とお約束で拗ねてみせると、「発案者は部長だから」とバツが悪そうに先輩が苦笑する。
『埋め合わせは、あとで必ずするからさ』
気遣ってくれているとわかるその言葉に、甘酸っぱい感情で心が満たされていく。
「わかりました。楽しみにしていますね」
話を締めくくると同時に通話が切れた。ふと、心の表層に浮かんできた罪悪感が、総出で私を襲ってくる。
ごめんね、先輩。
私の心は、ここ数日の間ずっと浮ついているんです。
先輩に対して抱く恋情と、明日香ちゃんへの友情とが、ずっとせめぎ合っている。彼女の告白に対する答えを導き出せぬまま、ふたつの感情の狭間で心がゆれている。自分の感情なのに、なんだか自分のものではないみたいで。
むしろ、埋め合わせをしなくちゃならないのは私のほうだ。
罪悪感が、心の器からあふれそうになったそのとき、スマホにもう一度着信がある。
今度の電話の主は明日香ちゃんだ。
噂をすれば影が差す、とでも言うべきか。心の準備ができていないので、急激に心臓が暴れ出す。ひとつ深呼吸をしてから電話に出た。
「もしもし」
『あ、もしもし咲夜? 夜遅くなってからごめんね。今、電話大丈夫だったかな?』
「うん、大丈夫だよ。……どうしたの?」
『ちょっと急な話なんだけれど……。これから、咲夜の家にお泊りに行ってもいいかな?』
「え……?」
本当に急な話だった。どうやって断ろうかと一瞬思うが、向こうからしてくれた提案だ。ここで断るべきじゃない。
逃げちゃダメだ。加護咲夜。
「私は別に構わないよ。明日香ちゃんがくること、親にも話しておくね。じゃあ、待ってる」
* * *




