Magic Blue
温かさが私からすり抜けていく。
この白くて狭い部屋だと、自分さえも遠退いていきそうで、もう何も感じなくなる。
「愛しているわ」
頭の中でその言葉が「自分」という自我に話しかける。
やめてほしかった。涙が出てくるだけだから。
膝を抱えてうずくまることしかできないから。
そう考えていると、白い部屋の壁に青いドアを見つけた。
幻覚だと思った。だって、その部屋には私以外、何もなかったから。
鮮やかな青の色彩が虚ろな目に入り込んで来た。
少し色がくすんでいるドアノブに手をかけてみる。
今まで閉ざされていたかのように、軋む音を響かせて開かれた。
そこには、暗い森があった。
思わず、足が竦んでしまった。
本当にどうしたんだろう。これは夢なのかな。
でも、もうこの部屋には居たくなかった。
裸足のまま、ドアの外へ出る。振り返ると、今までいた部屋の中がとても恐ろしく見えたから、名残惜しさも残さずにドアを閉めた。
足の裏から土と小さな石の感触を感じる。
少し痛くて、少しこそばゆい。
前を見る。立ち並んでいる木々が、風に揺れている。
その奥は、とても暗くて何も見えなかった。
でも、何故か心が安らいで、足は一歩ずつ進んでいく。
ただただ、進んでいく。もう後ろは振り返らなかった。
長い間歩くと、木と木の間から灯りが見えた。暖かそうな光が手招きしているように感じて、私は駆けていた。
暗い森の影を抜けると、大きな家があった。
窓から漏れ出している光が目に映る。
ゆっくりと近づく。
そのまま、またドアの前まで来た。
もう躊躇うこともない。ドアノブを回した。
「ようこそ。待っていたよ」
そこには、笑顔が素敵なお兄さんがいた。
かっこいいのに、格好は変だから緊張しなかった。
「こっちだよ。ついておいで」
お兄さんは私を手招きして、部屋の奥に進んでいく。
家の中はとても広い図書館だった。
たくさんの本に目移りしながら、お兄さんについていく。
「少し、ここで待っててくれるかな?」
「……うん」
「ありがとう」と笑って、お兄さんはもっと奥の部屋に行った。
連れてこられたところには、小さな木の椅子と、テーブルと、小さな絵本があった。
行儀よく座って、テーブルの上の絵本を開いてみる。そこには月明かりの下で、裸足の女の子が砂浜を歩いている絵が載っていた。青い海がとても綺麗だった。
他のページは何も書いてなくて真っ白だった。
あの部屋を思い出して手が震えたから、すぐに最初のページに戻った。
ずっと見ていられる気がした。
私もこの女の子みたいになれたらな。
「おまたせ」
お兄さんが帰ってきた。何か手に持ってる。
「ブラウニーだ!」
私は嬉しくてつい大きな声を出してしまった。
お兄さんは優しく微笑みながら、テーブルにブラウニーの入ったバスケットを置いた。
そして、一緒に入っていたお皿に綺麗に切り分けて私の方へ差し出してくれた。
「どうぞ、召し上がれ」
「いただきます!」
渡されたフォークで、ブラウニーを口に運ぶ。
とっても、おいしかった。甘いけど、苦くて、すぐに食べてしまった。私はお兄さんにおかわりを頼んだ。
すると、お兄さんは困ったように笑って謝ってきた。
「ごめんね。もう無いんだ」
私が少し寂しそうな顔をすると、お兄さんは申し訳なさそうな顔をしてしまったから、わがままを言うのはやめておいた。
「このブラウニーは、お兄さんが作ったの?」
「ううん。知り合いの子がね、作りすぎたからっておすそ分けしてくれたんだ」
「その人、女の子?」
「そうだよ」
「……お兄さんは、その人が好き?」
「うん、好きだよ。でもね、その女の子には僕がその子と同じくらい好きな男の子がいるから」
「残念?」
「少し、残念だよ。でも、それ以上に嬉しいんだ。
あの子たちが幸せそうなのが」
お兄さんは、本当に嬉しそうに笑っていた。
私もそれを見て、笑った。
「見せてあげたいものがあるんだ、付いてきてくれる?」
「うん」
私はお兄さんの手を握った。
そのまま、お兄さんと一緒に奥の部屋に行く。
中を開くと、またあの青いドアがあった。
お兄さんがドアノブを回して、開けた。
そこには、さっきの絵本と同じ海が見えた。
思わず、お兄さんの顔を見上げる。
「行こうか」
私は大きく頷いて、ドアの外へ出た。
本当に絵本と一緒だった。
白い砂浜、少し暗い青色の海。
私は本当に嬉しくて、砂浜を走った。
波の音が聞こえてくる。
上を見上げると、三日月と星が光っていた。
本当に綺麗だった。
私もなれたんだ。絵本の中の女の子に。
お兄さんが笑いながら私に手を振ってきたから、私も笑いながら手を振った。
少し疲れて歩いていると、お兄さんがゆっくりと近づいてきた。
そしてそのまま、お兄さんは私の前で片膝をついた。
「どうしたの?お兄さん」
「君に、渡したいものがあるんだ」
お兄さんの何もない手の平から、綺麗な光を出しながら青い花が出てきた。
「私にくれるの?」
「うん、君に持っておいてほしいんだ。受け取ってくれるかい?」
「……うん!」
もらったその花は、小さかったけどとても綺麗だった。ずっと見つめていると、だんだんと眠くなってきた。きっと、夜更かしをして疲れたんだろう。
膝をついたままのお兄さんを見ると、お兄さんは悲しそうな顔をしてこう言った。
「また、君を独りにしてしまう……君はそれを許してくれるかい?」
「……うん。大好きなお兄さんだから、許してあげる。……ねぇ、お兄さんの名前はなに?」
今思い返すと、忘れ去られた記憶。
でも、あのお兄さんの嬉しそうな声は忘れなかった。
「僕は、君を笑わせにきたピエロだよ」
ども、気怠げなシュレディンガーです。
最後の一言で、私の連載小説を読んでくれている人は誰だか分かったと思います。
分からなかった人は、「空洞と魔法と雨」も読んでくれると嬉しいです。