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空白

「待ちます」

 セピア色に染まった記憶の中で、その女は宣言した。誇らしげな顔つきで、きっぱりと。それは一方的な約束で、本来なら忘れても自分には何の支障もなく、また守る義務もなかった。ただこちらの問い掛けに、食い気味に返ってきたその言葉の強さは、いくつもの年月を経ても色褪せない。

 ――それがきっと、答えなのだろう。

 いくら調べてみても、彼女がこちらに愛想をつかし、さっさと結婚したという事実は出てこなかった。それどころか、出征した“元”婚約者を待つ非常に奇特な、有り体に言えば物好きな令嬢として名をはせていた。退路を探したのに、こうも堂々と塞がれてしまっては、最早自分が取るべき行動は、一つしかない。

 非常に面白くないことに、自分は彼女の元へ行かなければならない。彼女にはめられたようで、不愉快だ、とても。

 彼女の元へ向かう足取りは、決して軽いものではない。

 しかし、迷いはしなかった。

 

 

 

 

 絶望的な戦況からの奇跡の勝利に、国中が沸いていた。ここ、ザヴェニエム王国は隣国フィノイス帝国の侵略を受け、5年にも渡る攻防の末打ち倒し、勝利をもぎ取った。フィノイスの軍事力は軽く見積もってもザヴェニエムの数倍、ザヴェニエムはフィノイスに併呑されるかに思われた。その絶望的な戦力差は、とある軍師の奇策により覆され、王国は独立を保った。今、ザヴェニエム国民は戦時中苛まれていた不安を拭い去りながら、戦勝という名の栄光に酔っていた。

 戦場から帰還した英雄を一目見ようと、人々は都で開催される凱旋パレードに押し掛けている。彼らの熱気で埋め尽くされている通りを、器用に人々の間をすり抜けながら逆行している男がいた。飾り気の無い真っ黒なコートに身を包んだ男は、迷いのない足取りで進んでいく。途中、人々とは真逆の方向へ向かう男を視界にいれた者もいたが、彼の顔を見るなり慌てて視線をそらせた。彼の髪や瞳の色こそザヴェニエムにありふれた茶色だったが、その眼光の鋭さは只人のそれではない。顔立ちは整っているものの、柔和さは一欠片もなく、何人も彼の道行きを阻むのは憚られた。

 男は黙々と歩き続ける。やがて果てがないと思われた喧騒からも抜け、平民層とは明らかに違う、立派な邸宅が立ち並ぶ通りに出た。普段はさぞ賑やかであろう流麗な館を尻目に、男はひとつの屋敷の前で足を止める。その館は他の屋敷に比べ、良く言えば年季が入り、悪く言えば古びていた。蔦の絡み付いた屋敷を前に、男は白い息をはく。

「……どなたですか?」

 庭先で植物の手入れをしていた、やや訛りのある少年が男に気付き声をかけてきた。年頃は10代半ば、おそらく最近雇われたのだろう。ソバカスの残る顔はいかにも純朴で、鼻の頭には土が付いている。

 男はちらりと少年を見やると、平坦な声音で告げた。

「この屋敷に、テレーゼ・フォルネはいるか?」

 少年は、ぱちぱちと目を瞬かせた。

「テレーゼ様、ですか?確かに、いらっしゃいますが……」

「俺はベルンハルト・リヴィウスという。面会に来た、取り次いでもらえるか?」

「はあ……聞いてみます」

 男の名を聞いても、少年は特に反応を示さなかった。少年には明らかに来客に対する礼儀が身についていなかったが、男が咎めることはない。

 しばらくして、屋敷の入口から中年の域に差し掛かった男女が出てきた。普段であれば、優雅かつきびきびと動く彼らは今、躓くのも厭わない速さで男の方に向かって来る。

 男の側に辿り着いた男女――老執事と侍女長は、男の顔を穴が開くかと思うほど見つめた。

「まさか、本当に――」

「ベルンハルト様、ベルンハルト・リヴィウス伯爵令息でいらっしゃると?!」

 侍女長の問い掛けに答えようと、男は口を開く。しかし、それより先に、柔らかい声がした。

「嬉しいですわ。まさか、貴方からいらっしゃるなんて」

 記憶よりも、か細い。それでも耳を打つ音は、昔を鮮やかに呼び起こした。声の方へ男が顔を向けると、細身の女がいた。女は淡い色合いのドレスを着て、ゆっくり歩いてくると、男の前に立った。男は、じっと彼女を見下ろす。

 幾分、痩せただろうか。それでも、女はこちらを見る瞳に隠す様子もなく喜色をみなぎらせ、微笑みをたたえている。そんな女に、男はこう結論を下す他なかった。

 ――彼女は、変わっていない。

 だからこそ、男は遠慮なく憎まれ口を叩いた。

「お前が、押し掛けてこないからだ――テレーゼ」

 女は男の言葉にぱちりと瞬きをした。ふふ、とその形の良い唇から笑い声が漏れる。

「押しても駄目なら引いてみろって作戦、あなたにも通用するのですね、ベルンハルト?」

 からからと朗らかに笑う女に、男は渋い表情になった。ああ、この女は憎らしいほどに変わらない。

 その不機嫌な顔のまま、男は言う。

「そんな白い顔で、つまらない冗談を言うのはお前くらいだろうな」

 女の笑いがぴたりと止まった。恐る恐る、といった調子で男を上目遣いで見上げた女に、男は呆れる。

「あらまあ……お気付きになりまして?」

「思い立ったら即行動のお前が、愁傷に大人しくしている理由なんて、それくらいしか思いつかない」

「それもそうですわね」

 男の言葉に、女は他人事のように深く頷いた。男が苦言を呈する前に、ふらりと女の体が傾ぐ。

 男は、女を危なげなく抱き留めた。 

「テレーゼ様!」

 はらはらと二人の様子を見守っていた侍女長が、慌ててテレーゼの傍らに駆け寄った。老執事は泡を食って屋敷に飛んで帰っっていく。走りざま遠くなる声が、すぐに薬を準備するよう指示していた。

「どうしてお待ちくださらなかったのですか! お医者様もあれほど、外に出るなとおっしゃっていたのに!」

 叱る侍女長の声も、女に届いているかどうか怪しい。女の体は、やけに熱かった。

 男は無言でコートを脱ぐと、女をコートで包んだ。そのまま横抱きにして、ぶっきらぼうに訊ねる。

「どこだ?」

「はい?」

「こいつを、どこに運んだらいい?」

「あ、はい、テレーゼ様の寝室へ」

 侍女長が答えるや否や、男は躊躇いなく屋敷へ向かって歩き始めた。その背中に、侍女長は慌てて追い縋る。

「案内いたします」

 侍女長に視線だけ向け、男は簡潔に答えた。

「覚えている」

 それより看病の準備を、と言い添えた男と女の顔を侍女長は見比べた。視線で促す男に、侍女長は頭を下げた後、屋敷へ駆けていった。

 ふと女の虚ろな瞳が、こちらを見上げているのに気付く。

「どうした? 揺れが気に障るか? できるだけ震動がいかないように抑えているが、これ以上は」

「……いえ」

「なら、何だ」

 女は遠くなる意識を必死につなぎ留めるように、言い切る。

「こうして、あなたに抱き上げてもらえるなんて、夢のよう」

 馬鹿、と言い掛けて、男は大きくため息をついた。こんな夢見心地な馬鹿でなかったら、自分なぞ待っている筈はない。それは女も承知しているようで、男の吐いた息にむしろ笑みを深めていた。

 屋敷に男の足がかかる直前、女は男の胸に愛しげに頬擦りした。男は黙って歩を進めていく。

「ねえ、ベルンハルト」

 青白い顔で夢うつつに、女は口を開く。

「お帰りなさい」

 その言葉に、男は一瞬だけ身を固くした。本来なら、誰にも気付かれない男の動揺を、女だけは知っている。

 だから、男は素直に告げた。

「……ただいま」

 それは男が今生、二度と使うことのない言葉だった。不覚にもその重さを滲ませてしまったことに苦い顔をする男の下で、女はただ微笑んでいた。

 

 



「テレーゼ様のお体は、すっかり弱くなられてしまったのです」

 まるで自身が病を得ているかのように、顔色の悪い老執事は告げた。侍女長はテレーゼの世話をするため、席を外している。男はテレーゼを運び終えた後、客間に通されていた。屋敷の者が慌てて用意しようとしたもてなしを断り、ただじっと対面に座した老執事を見据える。老執事は怒鳴り付けられた訳でもないのに、抗いがたい圧力を感じ、正直に主の症状を説明した。聞き取りながら、前もって予測をしていたからだろうか、男は特に取り乱しもしなかった。まるで尋問でもしているかのように、淡々と事実を確認していく。

「いつからだ?」

「ほんの、昨年からです」

 老執事の声が揺らいだ。老齢から、皺の寄った目尻に涙が浮かぶ。

「数年前に、王国の戦況が思わしくなく、旦那様が従軍され、戦いの傷が元で見罷られてから、奥様も後を追うように……。残されたテレーゼ様が、フォルネ伯爵名代として家を管理されていらっしゃったのですが、突然倒れられて」

 老執事は、鼻をすすった。

「手を尽くし、医者や薬を探しましたが、……」

 途切れた老執事の言葉を、男は辛抱強く待った。

「もって、後一年とのことです」

「……そうか」

 男は頷くと、立ち上がった。老執事は、男を見上げて困惑する。

「ベルンハルト様?」

「先に、あいつと話をしてくる」

「テレーゼ様と? ですが……」

「もちろん、テレーゼの具合が良ければだが」

「それはそうですが……、ベルンハルト様!」

 老執事の制止をかわし、男は部屋を出た。男は迷いもせず、女の部屋へ辿り着く。

 男は扉をノックした。ややあって、扉が薄く開き、侍女長が顔を覗かせる。

 侍女長は男を見て、すっと表情を消した。

「……ベルンハルト様」

「容態は落ち着いたのか」

「ええ。先程はテレーゼ様を運んでくださり、ありがとうございました」

「いや、いい。今、テレーゼと話はできるか?」

「申し訳ありませんが、テレーゼ様はお疲れで」

 侍女長の言葉を遮るように、ちりんと鈴が鳴った。侍女長は礼儀もそこそこに、部屋の中へすっ飛んでいく。部屋の外からは侍女長が何かしら言っているのは分かるが、女の声は聞こえない。やがて大きなため息と共に、侍女長は戻ってきた。一気に疲れたような表情をしつつ、侍女長は男を部屋に招き入れる。

「テレーゼ様のお許しがでました。……ただし、ご無礼を承知で申し上げますが、くれぐれもテレーゼ様のご負担になりませんよう、どうか、どうか……お願いいたします」

 容体が急変するようなことがありましたら、すぐお呼びください、と言い足して、侍女長は退室した。女の部屋は、男の記憶にあるものとほとんど相違がない。ただ、いつでも溌溂と来客を持て成した主だけが、力なく寝台に身を横たえている。それでも女は、男が寝台脇にある椅子に腰掛けるのを、嬉しそうに見ていた。その目の輝きは、かつてと同じものだった。枕元の小机に置かれたランプに照らされたその顔色は、お世辞にも良くない。

「本当に、大丈夫なのか」

「ええ。こうして横になっているし、一度落ち着いたら、大丈夫です。……せっかくあなたが来てくださったのに、こんな情けない姿を見せてしまって、ごめんなさい」

「お前が、謝る必要はない。こちらが押し掛けたのだからな」

「そういえば、そうでしたわね」

 先程会った時は化粧などで隠していたのか、にこりと笑った女の目の下には深い隈があり、唇はひび割れていた。明らかに衰弱している彼女の姿を目の当たりにして、男の脳裏に侍女の言葉が浮かぶ。

 男の心には、迷いが生じた。男がここに来た目的を、告げるべきか否か。

 告げれば、彼女の心に多かれ少なかれ、負担をかけてしまうのではないか。

 ここに来るまでにはなかった迷いだ。正直、彼女の病がここまで重いとは、予想だにしていなかった。

 男が言いあぐねているうちに、女はそれを聞いた。女からすれば、それを聞くのは当たり前だろう。

 婚約を破棄した相手が、元婚約者の家を先ぶれもなしに、訪れたのだから。

「あなたが今日ここに来たのは、どうしてですか?」

 女の声には、男を非難する響きはない。女は、男をじっと見上げていた。急かす風でもなく、責める風でもなく。凪いだ海のように、ただじっと男の返事を待っている。

 そう。

 彼女は、十分に待ったのだ。

「――もう、俺を待たなくていい」

 男の言葉に、女はじっと男を見上げる。口元を両手で覆った女の言葉は、震えていた。

「それは、我慢比べは私の勝ちということですか?」

「我慢比べ……? 何のことだ?」

 女の発言の意図が分からない男をよそに、女の顔が緩む。

「待つと言った私に、ようやくあなたがプロポーズしてくださったかと」

「……お前はどこまでもお気楽だな」

 止めるまもなく出た男の皮肉に、女はにこりと笑った。そして何でもないことのように、その言葉を紡いだ。

「それくらい、私はあなたが好きなのです」

「……俺は」

 男は、言葉に詰まる。男にしては、珍しいことだった。彼女の気持ちがあの時以来、少しも変化していないことに、胸をつかれたからかもしれない。

 男は、目を眇る。真っ直ぐな女の好意は、眩しかった。いつも、そうだ。眩しくて、暖かくて、柔らかい。

 空っぽだった男に、愛を、寂しさを教えたのは、彼女だった。

 男は、リヴィウス伯爵家当主の姉が産んだ子――それも、父親の分からない子供であった。外聞の悪さから、表向き当主の実子の一人として育てられながらも、男はどこか距離を置かれていた。孤独を孤独と知らないまま、ただ日々を消費していた男に、貴族としての体裁を繕うためにあてがわれた婚約者。それが彼女――テレーゼ・フォルネ伯爵令嬢だった。人間としてつまらない自分の、何処に彼女が惹かれたのかは未だもって分からない。それでも彼女が自分に向けるものは、紛れもなく、また疑いようもない純粋な好意で。受け取り方もろくに知らない自分に、彼女は溢れるほど注ぎ――いや、むしろ零れることを厭わない態度で接してきた。だからこそ、固く凍り付いていた自分の心も絆されたのかもしれない。いつしか彼女を目にするたび、心は浮き立ち、また逆に別れる際は軋むように痛んだ。自分の心がそのように動かされるのを――動くのだと、彼女を通じて知った。

 婚約を破棄したのは、従軍が決まってすぐのことだ。自分が投入される戦場は、日に日に悪化の一途を辿っていた。生きて帰れる保障など、砂粒ほどもない。だからこそ、下手に自分と結婚して無意味な瑕疵を作る必要はないと――薄情な自分など忘れて、別の誰かと幸せになってほしいと思った。

 それなのに。

“待ちます”

 自信満々に言い切られたその時、心を覆ったのは喜びだ。あまりにも身勝手な自分自身に、身を焼くような怒りが起こった。

“……勝手にしろ。だが、後悔はするな”

 そう怒りを抑えた声音で言い捨てた自分にも、彼女は恐れなかった。

 戦時中は、彼女の面影を念入りに封じた。

 ……そして、彼女を切り捨てなければならない、理由もできてしまった。

 奇跡的に生き延び、帰って来た時、彼女がまだ待っていると風の噂で知った時。

 彼女を拒絶すると、自分自身で決着をつけなければならないと、そう決めた。

 そう決心した、はずだった。

「でも、だめですわね」

 女の口調は、言葉の内容とは裏腹に、ひどく小ざっぱりとしていた。女は、男を見上げながら、困ったように笑う。

「私はこの通り……病弱な体になってしまいました。到底、あなたに嫁げる状態にありません」

「……諦めるのか」

「非常に悔しいですけれど」

 女は悔しげに、……それは、絶望的な表情ではなく、どちらかと言えば子供が遊戯で負けて悔しがっているような、明るさがあった。

「あなたを幸せにする気概なら誰にも負けませんけれど、こればっかりは仕方ないです」

 死人のような青白い顔で、それでも女は力強く言い放った。

「私の最大の願いは、ベルンハルトが幸せになることですから」



「一つ、聞いてもいいだろうか」

 しばし間を開けて、男は口を開く。静かな声だった。

「お前はどうして、俺にそこまで入れ込んだんだ?」

 男に尋ねられて、女は予想外といったように目を丸くする。無表情の男に、女は微笑んだ。

「そうですね、それは――あなたを愛することは、怖くなかったからでしょうね」

 女は懐かしむように、瞳を閉じる。

 男とは、普通の恋人のように甘い関係ではない。そもそも、彼が自分を好いてくれるかどうかも、分からない。

「好きになったきっかけなんて、覚えていません。ただ、……変な話ですけれど、出会ったばかりのあなたは、どこか不確かで、崩れてしまいそうで……。決して、あなたが弱い方だと言っているのではありませんよ?」

 はじめて会った時の、まるで丁寧にしつらえた人形のような彼。何事も粛々と受け入れ、そのままどこかに消えて行ってしまいそうな彼に、胸が締め付けられた。

「あなたを必要としている――求めている者が、たとえ一人でもここにいると、そう伝えたかったのです」

 彼から愛されたい、なんてことは眼中になかった。もちろん、もし愛されたのならばそれはきっと嬉しいのだけれど。そんな私欲が入り混じるより先に、華奢でも脆弱でもない彼が、やけに儚く見えた自分は、ただ必死に彼がなくならないようにしたかった。あなたにここにいてほしい――いてもいいのだと、そう伝えたかった。仮に、将来的に彼が誰か別の人を選んでも、全く構わない。いいや、それはちょっと虚勢が入っている。きっと、彼が選んだ相手に嫉妬もしてしまうだろうけど、それでも。何も望まなかった彼が変われたのなら、自分は本望なのだ。

 ただ、心残りがあるとすれば、彼が幸せになる瞬間を、おそらく自分は目にすることができないこと。

「大丈夫、ここまで散々心を砕いたのに、私を捨てるなんて! なあんて、あなたを怒ったり、恨んだりしませんよ?」

 ねえ、だから、……幸せになってくださいね?

 希う彼女の横顔は、どこか弱気だった。

 男は、じっと女の顔を見下ろす。その茶色い瞳からは、迷いが消えていた。

「俺の、幸せか」

 そう一人ごちた男は、女の頬を撫でる。首を傾げた女に、男ははじめて笑いかけた。はじめてみる表情に、女は目を見開いた。

「テレーゼ、……俺と結婚する気はあるか?」

 

  

 はく、と女は大きく息を吸い込んだ。ぎゅ、と細い指で自らの頬にのばされた手を、精一杯の力を込めて握る。逃がさない、とでも言うような女の動作に、男は愉快そうに喉奥で笑った。

「男に、二言はありませんよね?」

「ああ、ない。ないが、条件はある」

「条件?」

「ああ」

 おうむ返しに聞いた女に、男は告げる。

「まず、公にはできない。それと、期間は一週間だ」

「します」

「相変わらずの即断だ」

「当たり前です、ずっとあなたを想っていたのですから」

 逃がしません、と語気の荒い女の髪を梳きながら、男は聞いた。

「どうしてそんな条件があるのか、疑問を持ったりしないのか?」

 考える間もなく、女はきっぱりと答える。

「言う気は、ないのでしょう?」

「……ああ」

「なら、無理に聞き出しません」

「……てっきり、“酷い男だ”と罵られると思っていたが」

「まさか」

女は、花のように笑った。男は、それを瞳に刻み付ける。

「私にとってあなたは、“いつだって最高の男”なんですから」

「そうだったな」

 男も笑う。その手付きのやさしさに身を委ねようとした女は、はたと思い出した。

「でも、どうしてですか。私は、もう」

「俺に幸せになってほしいと願ったのは、お前だろう」

「それは、……」

「本当は、そう願ってくれるお前と、最期まで一緒にいたい」

 女ははっとした。信じられないものを見るように、男を見上げる。

「お前の側にいることが、俺の幸せだ」

 堪え切れずに、女の瞳から涙が零れる。それを優しく拭ってやりながら、男は告げた。

「テレーゼ、愛している。どうか、俺の妻となってほしい」

 テレーゼは、出せない声の代わりに、何度も頷く。ベルンハルトは笑って、そっと彼女に口づけた。


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