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声が―――聞こえる
ひそひそとささやき合う声が。
聞き取れなくても何を話しているのか僕にはわかる。馬鹿にして笑っているんだ。顔だけでなく髪にまでクリームを付けてケーキをほおばっているお母様を。
僕のお母様は今日34歳になった。でも、とてもそうは見えない。バラ色のほおをして、リボンとフリルをふんだんにあしらったドレスをまとった姿は少女のようだ。
自分のことを笑っている連中を見てうれしそうに微笑んでいる。
お母様には自分が笑われているとわからない。
なぜなら、彼女には3歳児程度の知能しかないからだ。幼いころ重い病気にかかってその時の後遺症で脳に障害が残ってしまった。身体は大人でも心は小さな子供のまま・・・・・・
自分の身のまわりのこともひとりではできないし、感情のコントロールもできない。自分の感情に正直で無邪気。僕たちとは違う世界に生きている。
それがラトリカーティ・コングラート、僕を産んだ母親だ。
お母様がきらいなわけじゃない。大人の持つずるさがなくて裏も表もない。純粋さはまぶしいくらいだ。
でも、、、“このひとが僕の母親です”と紹介するのには抵抗があった。
正直、お母様のことは誰にも知られたくはない。彼女に向けられる憐れみと蔑みの視線は僕のプライドをひどく傷つける。
僕はアレクサンドル・コングラートのひとり息子で、いずれコングラートコンツェルン総帥の座を受け継ぐことになる人間だ。
いつでも冷静でどんなことにも動じることなく、迅速で的確な決断が下せなくてはならない。そして、僕の意志は尊重されなくてはならない。
そのためにはすべてのひとに敬われる存在でなくてはならない。
僕が馬鹿にされることなどあってはならないんだ。断じて!
それなのに、ひそひそ声はどんどん大きくなっていく。今やパーティ会場全体がどよめいているみたいだ。
「黙れーっ!! お母様を笑うな! 僕を笑うなっ! 僕はセイスタリアス・コングラートなんだぞ!」
そう叫びたいのに声がでない。。
「・・・・・・セイスタリアス様、起きてください」
耳元で名を呼ばれ目が覚めた。どうやら夢を見ていたらしい。だが、どよめきが聞こえているのは現実だ。
「我々はどうなるんだ!」
「なんとかならないのか!!」
客室の騒動が2階にある個室の中にまで響いている。
高速船は短距離を移動するためのもので寝泊りするためのコンパートメントはない。客はキャビンに並んだシートで到着までの時間をすごす。ここで言うコンパートメントは特別室の意味を持つ。
それなのに、なんて薄い壁なんだ。きちんとした防音がされていないじゃないか。いつもなら自家用艇を使うのだがタイミング悪く整備中だった。
それなら別の船をチャーターすればよかったのに、少しでもはやくお母様に会いたかった僕はわずかな時間を惜しんだ。その結果がこれだ。
コンパートメントには僕とシェーファー兄弟がいる。彼らは僕の執事だ。
丈の短いジャケットに細身のパンツ、ロングブーツに白手袋。乗馬服のようになものを身に着けているのは、上品さを失わず動きやすい服装を追求した結果だ。
ふたりは僕のボディガードでもあるのだ。
「何かあったのか」
僕を悪夢から覚ましてくれたエイムスにたずねた。
「現在この高速船は制御不能におちいっています」
「な に?!」
思いもよらない言葉に少なからず驚いたがなんとか心を落ち着ける。エイムスの前でうろたえたりしたら、口うるさいじいやのような執事に何を言われることやら。
「くわしい状況を説明したまえ」
よかった。上ずったりせずにいつも通りの声がだせた。
「一切の操縦がきかなくなったため方向転換も減速もできません。眼前にはソアレス9が迫っており、このままだとファンタナ海岸に衝突します」
なんということだ! さすがの僕も言葉を失った。
コングラートの人間が乗った船が、コングラートコンツェルンが建造した人工島に体当たりするとは!!
ソアレス9――――
“ユートピアで暮らそう”のキャッチコピーで業績を伸ばしてきたC.Cフロンティア社が、9番目に建造した人工島だ。
言うまでもなくC.Cフロンティア社はコングラートコンツェルンの一員だ。
穏やかな気候の穏やかな海に造られた島には現在2万人が生活している。戦火の届かない内海にあり、外海の島のような物々しい防壁などはない。
そして、ファンタナビーチはリゾートだ。そんなところに船が突っ込めば多くの死傷者をだすことになるだろう。
当然、高速船も無事ではすまない。この速度で突っ込めばまちがいなく大破する。
海に逃げるか。いや、だめだ! 減速せずに海に飛びこめばスクリューに巻き込まれる可能性が高い。危険すぎる。
乗員乗客合わせて300人の命も風前の灯火だ。300人の中には僕もいるというのに! このセイスタリアス・コングラートが!!
「原因は何だ」
冷静を装ってたずねるともうひとりの執事、ライトナが答える。
「コントロール系のトラブルのようです」
「直せないのか」
「修理中ですが間に合いそうにありません」
間に合わない?! ではどうするんだ?!!
「大丈夫です。セイスタリアス様だけは我々がどんなことをしてもお守りいたします」
ライトナの頼もしい言葉にすがりつこうとすると、エイムスの鋭い視線が僕を貫く。
「セイスタリアス様は300人の乗客を見捨てて、ご自分だけ助かろうとなさるようなお方ではありません」
「当然だ」
他に答えようがなかった。エイムスは僕に逃げるという選択肢を与えてはくれない。いつも思っていることだが、エイムスはこの僕をいじめて楽しんでやいないか?
この―――っ! エイムスだって同じ運命をたどることになるというのに涼しい顔をして。
わかっているとも。この僕に何とかしろと言っているんだ。コングラートコンツェルンの後継者ならそれくらいできて当然だと。
いいだろう。僕が後継者にふさわしいところを見せてやろうではないか。
考えろ! 考えるんだ!! きっと何か方法があるはずだ。
普通に考えるとこの船を破壊してしまおうということになるのかな。そうすれば、“9”だけは無傷ですむ。その場合、最小の犠牲が乗客300人ということになる。
だめだ! だめだっ!! 他にないのか。300人の乗客も“9”の住人も全部まとめて救うことのできる方法は・・・・・・
確か、“9”は海を埋め立てて造られた島ではない。よし! それなら何とかなるかもしれない!!
「エイムスは“9”の管理責任者に連絡を取れ。ライトナは“9”周辺の海流を調べろ」
指示を受けたふたりは余計な質問をして貴重な時間をむだにしたりはしない。
「かしこまりました」
うやうやしく頭を下げてすぐさま行動にうつす。
エイムスとライトナのシェーファー兄弟に血のつながりはない。生まれもわからない孤児を僕の父アレクサンドルが引き取って、父の忠実な執事シェーファーの養子にしたのだ。
目的は僕の執事兼ボディガードに育てること。
ふとりとも誕生日がわからないため年齢もわからない。都合上、僕と同い年ということにしてあるが、たぶん2、3歳年上だ。
物心ついたときから常にそばにいたふたりは、ひとりっ子の僕にとって兄のような存在だ。僕のことなら何でも知っていて、最低限の言葉ですべてを理解してくれる。
うっとうしいと感じることもあるが、そばにいないと不安にもなる
前方のソアレス9は次第に大きくなっていく。船の速度はまったく落ちていないらしい。
僕とシェーファー兄弟はブリッジに来ていた。キャビンのどよめきはヒステリックになっている。
まだか? まだなのかっ!!
エイムスは通信機で“9”の責任者に指示をだしている。ライトナは海図をにらんで航海士と海流を確認している。
僕にできることは何もない。ただ祈ることだけ。船長専用のシートに背を預けて堂々と構えながら心の中で泣き叫ぶ。
いやだぁあああああ!! 死にたくない! 助けてぇええええっ!!!
心の中で神様の足にしがみついていたって誰にもわかりはしない。表面だけ冷静に見えていればいい。
「どのくらいかかりそうだ?」
どれだけでも待てると余裕を示したつもりだったのだが
「準備できました」×2
やせ我慢の必要はなくなった。
「よし。やれ」
大きな波を受けて高速船が揺れた。
「どうやら間に合ったようですね」
エイムスが安堵の溜息をついた。
「当然だ。僕はセイスタリアス・コングラートなのだから」
“9”は人工の浮島だ。海底に沈められた重りに鎖でつないで流されないようにしている。その鎖が今切られたのだ。
あとは建造時以来使われることのなかった推進機を作動して、高速船の進路から移動させればいい。これで衝突は避けられる。
どうだね。素晴らしい作戦じゃないか。こんな奇想天外なアイディア、この僕の他に一体誰が思いつく?
「トラブル発生! 推進機の半分が作動していないと報告がありました」
ライトナの言葉に驚きはしたがうろたえはしない。推進機は長い間放置されていたんだ。そんなこともあるだろうと予想はしていた。半分生きていたのらなんとかなる。
「問題ない。作動するものをフル稼働させろ!」
どうだ。堂々としたものだろう?
「問題大ありです!」
へ? 僕を見るエイムスは険しい顔をしている。
「作動する推進機は全部北側にあります」
なんという様だ。作戦は失敗だ。
ソアレス9は高速船の進路からはずれることなく、その場でゆっくりとまわっている。
このままではどこに衝突するかもわからない。ファンタナビーチでは避難はすんでいたのに、これじゃ状況を悪くしただけじゃないか。
推進機の状態を確認するひまはなかったんだ。他にどうすればよかったと言うのか。僕は間違ってなどいない。僕は悪くない!
いくら言いわけしてみても、結果がすべてだ。
僕はここで死ぬのか
まぬけな作戦をたてた愚かな人間として。
そんなことはコングラートのプライドが許さない!
では、どうする? どうすればいい?!
一度は助かったと思ったのにまた危機が迫っている。今度はもっと近く、すぐ目の前に。
恐怖で気が狂いそうなのに、思い浮かぶのはお母様の顔だった。
お母様は今何をしているだろう。お土を楽しみにしていたはずなのに渡せなくなってしまった。もっともっと喜ばせてあげたかったのにもう会えない。
お母様には僕がついていなくてはだめなんだ。僕が守らなければならなかったのに。
視界がかすんでいる。不覚にも涙がにじんでしまった。手の甲でぐいと涙を拭う。こんな情けない姿は誰にも見られたくない。特にシェーファー兄弟には。
恐怖をおさえ込んだふりをして顔を上げる。サイレンが聞こえてきた。“9”では大変な騒ぎになっていることだろう。衝突地点にひとがいなければいいのだが。
そうすれば死傷者は高速船の300人だけですむ。乗客はイチかバチか海に飛び込むしかない。
おや。あんな所にひとがいる。。“9”を見やった僕は不思議な人影を見た。そのひとは教会の屋根のてっぺんに立っていた。どうやってあんな所に登ったのだろう?
岬の突端に建つ教会の屋根には彫刻をほどこされた細長い飾りが付いている。
そんなものの上にのったりしたら飾りが折れてしまいそうなのに、まるで重さなどない蝶のようにそこにとまっている。
遠くてよくは見えないけれど大人ではない。銀色の長い髪を風になびかせながらこっちを見ている。そんなはずはないのに目が合ったような気がした。
あれ? あの子は・・・・・・
その時だ。
不意に船がきしむような音がして大きく揺れた。
シートから投げ出された僕は床にたたきつけられることを覚悟したがそうはならなかった。エイムスが下敷きになって受け止めてくれたんだ。なんてことを!
「エイムスっ!!」
あわてて起き上がり執事を助け起こす。ボディガードも兼ねているからといってそこまでしてくれなくてもいいんだ。
「わたしは大丈夫です。そんな顔をなさらないでください」
この僕がどんな顔をしていたと?
「セイスタリアス様、前をご覧ください」
ライトナに言われてブリッジの外を見る。正面にあった“9”の位置がずれている。どういうことか考える間もなく、高速船は“9”の脇を猛スピードで通りすぎた。
キャビンから歓声が聞こえる。
助かったのか?
助かったんだな?
そうか! さっき船が揺れたのは進行方向が変わったからなんだ!!
「修理が間に合ったのか」
「いいえ、そんなはずはありません」
いつでも明確な答えをくれるエイムスにしてはすっきりしない返事だ。
「ではなぜ、コースを修正できたんだ?」
「わかりません」
エイムスは困惑顔だ。ライトナに目をやると両手を上に向けて首を振っている。
とにかく、これでしばらくは安全だ。船の行く手をさえぎる障害物はない。修理がすめば“9”に戻れることだろう。
「おかげで命拾いしましたよ」
「さすがはコングラートコンツェルンの後継者ですな」
「お父上も鼻高々でしょう」
高速船の300人が僕をほめたたえる。どういうわけか、僕が乗客と乗員の命を救ったということになっているらしい。
僕は何もしていないのに。
余計なことをしたせいで、かえって“9”を混乱させたのに。
「あなたは命の恩人です」
それは誤解なのに。
「当然だ。僕はセイスタリアス・コングラートなのだから」
本当のことを打ち明けられずにそう答えるしかなかった。僕の恥はお父様の恥、コングラートの恥になる。
シェーファー兄弟を見るとエイムスは無表情、ライトナは苦笑いしている。きっとふたりが真実を知る者を買収して黙らせることだろう。
真実は永遠に闇の中。胸の奥がちくちく痛む。
いけない。この僕がこんな小さなことに心をわずらわせていてはいけない。
僕はセイスタリアス・コングラート。いずれは世界を動かすことになる人間だ。本当に奇跡だって起こせるのかもしれないじゃないか。