初任務~二日前・午後
数哉は長い廊下を歩いていた。
白い壁に白い床、白い天井の廊下。
先を歩く黒いヒールブーツを眺めながら、その持主に付いて歩いていた。
長く艶やかな黒髪で、かなりの美人と言える整った顔立ちの女性。
鮮やかなブルーのジャケットに白地のインナー、濃紺のデニムパンツが良く似合う。
芳醇な大人の色香を纏った二十代と思われる女性。
栄月美紅と名乗ったその女性に、数哉は連れられて歩いていた。
「長い廊下でしょ? あと少しだから、ね?」
美紅は歩きながら振り返ると、靡いた髪を撫で付け、首を傾げて数哉を見つめた。
「あ、いえ、あの、大丈夫です。全然、はい」
数哉は美紅の仕草と不意に漂った馨しさに動揺し、返答に戸惑った。
それも仕方がない、小一時間前に出会ったばかりの女性に気の利いた台詞を返せる程、齢十九の数哉は経験豊かではなかった。
相手が美人であればなおさら、さらに自分好みのタイプであれば当然のこと。
結果、気後れして委縮し、この有様だった。
自分の容姿は悪いとは思わないが、良いとも思わない。
体格は中肉中背。
学業に関しては、中の中。
服装のセンスは可もなく不可もなく、今は軽いダメージ加工が入ったジーンズを穿いて、Tシャツにパーカーを羽織ったという、いつもの恰好。
物語の登場人物に例えるなら、通行人B、村人3、エキストラ、というような役に収まる。
普通。
そんな言葉がぴったりと当てはまる。
数哉は自分の事をそんな風に捉えていた。
ただし、ある事を除いては……。
「そういえば、数哉くん? 誰かに教わったりしてたの? 正直、所属すらしてなかったなんて、びっくりしたわ」
美紅は首を傾げたまま微笑を湛えて、そう質問した。
「あ、いえ、あの、教わる、というか。誰かとか、ない、です。特には」
「ウソ? 影の存在も認識してるみたいだし、滅ぼし方も心得てるようだったけど?」
たどたどしく答える数哉の横に並び歩き、美紅は同じ高さにあったその顔を下から覗き込む。
「あ、あの、あいつら、影、って、言うんですよね? 滅ぼすというか、倒すというか、いえ、いつもの事というか。ははは」
美紅から目を逸らし、数哉は頭を掻きながら、ぎこちなく空笑った。
〈影〉
数哉がそう呼ばれる存在を知ったのは、物心ついた頃だった。
知った、というより、その存在は当たり前だった。
数哉は物心がつく前に事故で両親を亡くし、祖父母と共に過疎化の進んだ田舎に住んでいた。
幼少の頃から、外を歩いても、建物の中に居ても、あらゆる所で、その〈影〉と呼ばれる存在を目にしていた。
自分とは違う姿形、何食わぬ顔でそこらを闊歩するその存在。
そして、自分と同じ人間たちは、その存在に見向きもせず平然と暮らしている。
テレビや漫画、映画などでも、その〈影〉と呼ばれる存在を幾度となく見てきて、その中では、魔物、怪物、妖怪など、色々な総称があった。
大抵は悪役で、人間に危害を加える存在として描かれたり演じられたりしていた。
日常でも、テレビや映画で描かれているほどに深刻ではないが、〈影〉が人間に危害を加えているのを見掛けたことがあった。自分自身も追いかけられたり、耳元で何かを囁かれたり、引っ掻かれたりして、ちょっとした怪我を負わされたりしたこともあった。
人に悪戯するヤツら、人に毛嫌いされた存在。
その頃の数哉は、〈影〉をそう捉えていた。
しかし、数哉の〈影〉に対する捉え方が変わったのは、小学生になった時だった。
注意深く観察して分かったことだが、歩いている人間と〈影〉は、お互いぶつかることなくすり抜けてしまい、気にも留めてなかった。
人間と〈影〉。
そのほとんどが、お互いを認識できていない、ということ。
そこで、小学生ながら矛盾に突き当たった。
〈影〉が人間に悪戯したり、直接的に怪我を負わせたりしている、という事実。
だが、すぐに矛盾は解消された。
その鍵は、例外、だった。
自分のように、〈影〉を認識できる者がいるように、人間を認識できる〈影〉がいる、ということ。
そういうヤツらが、人間に危害を加えていた。
そして、その逆も、然り……。
「いつもの事? ウソでしょ?」
「あ、はは、いや、いつもというか、日に何回か、というか。いや、ははは」
怪訝な表情で真正面から美紅に見つめられた数哉は、苦笑しながら、頭を掻いた。
美紅が訝しむのも当然の事だった。
普通ではない。
そして、数哉がその事に気付いたのは、中学生になってからだった。
〈影〉か人間、どちらか片方がもう片方を認識すると、どちらも認識し合えるということ。
そして、自分が常に……というより、超長期的に〈影〉を認識できる、ということ。
人間にも〈影〉を認識できる人がいることは分かっていた。
しかし、そんな人間も〈影〉を認識できるのは、ほんの僅かな時間であり、長くても十秒程であった。
どうやら、認識できる回数やその見え方にも強弱があり、状況や体調によって著しく変化するみたいだった。
お互いの認識に関しては、〈影〉の方も人間と同じのようだった。
要するに、ほぼ日常的に〈影〉を認識できている自分は、特殊というか、普通ではない…‥異常な存在だった。
「影滅をしてるの? いつも?」
「カゲ、ホロボシ、ですか? えーと、あの……影、を、倒すこと、ですか?」
「そう、影を滅する事よ」
変わらずのぎこちなさで答える数哉を、美紅は真摯な眼差しで見据える。
「……影滅、ですか……」
そう呟き、数哉は美紅の視線から逃れるように、ゆっくりと白い天井を仰いだ。
数哉の脳裏に、約一時間前の出来事が過った。
自分がやったこと。
〈影〉と呼ばれる、血のように紅い毛で覆われた大きな犬みたいな存在。
そいつが、路地裏で人間を……。
小さな女の子を……。
食べようとしていた。
だから、そいつを倒した……というか、息の根を止めた……というか、殺した。
これを、美紅が言う〈影滅〉、というのだろう。
「いつ頃から? 影滅を始めたのは?」
「あ、えーと、高校の時からだから、えーと。三年前ぐらい、ですかね」
質問を受け、反射的に美紅の瞳に視線を戻すと、数哉は頬を掻きながらそう答えた。
「高校生の時から? でも、たった三年で地獄犬を……」
「ヘルハウンドって言うんですか? さっきの……影、は?」
「そう、地獄犬。あんな凶暴な影と一人で戦うなんて、大したものよ」
「そう、なんですか……ははは」
「うん! やっぱり! キミを連れて来て正解ね!」
美紅はそう言って、頭を掻きながら照れ笑いをする数哉の肩をしなやかに一度叩いた。
「ところで? あの術は? 何処で覚えたの? 初めて見るけど?」
「あ、あれはですね、テレ……」
「あっ! 着いたわ」
美紅は数哉の言葉を遮り立ち止まると、右側の何もない白い壁に向いた。
「え? ここですか?」
「そう、ここよ」
美紅はそう答えると、胸元から〈6〉という数字があしらわれた銀色のペンダントを取り出し、それを壁に近付けた。
その〈6〉という数字が仄かに青く輝くと同時に、白い壁が大きな長方形を縁取るように青い輝きを放ち、次の瞬間、その壁がゆっくりと下へとスライドされていった。
「……すごい、ですね」
数哉は驚嘆の声を漏らすと、スライドされた壁のその先に続く道を眺めた。
「ふふっ! こんなのまだまだ序の口よ」
数哉の言葉に美紅はウインクをしながらそう答え、ペンダントを胸元に仕舞った。
「序の口、ですか」
「そうよ」
美紅は数哉を手招きして中に入って行った。
「凄いな……本当に。本当に……」
そう呟きながら、胸の奥に湧き上がり始めた期待感に頬を緩ませて、数哉は美紅の後を追った。