幸せなら村を焼こう
それは昔々の――ひどく暑い夏の日のことだった。
ガラン、ガランと古い教会の小さな鐘が青空に響く。
いささか錆の混じったそれは、しかし、紛うことなき祝福の音だ。
次いで、ギイと軋む音を立てて田舎の古教会の扉が開く。
「おめでとう、姉さん!!」
婚礼衣装を纏って姿を現した四歳年上の姉を、カラムたちは盛大な拍手で迎えた。
頬に鮮やかな紅を差した美しい姉が恥ずかしそうに、しかし誇らしげに手を振り返す。
「ほんとうに、おめでとう、姉さん……」
拍手のしすぎで、日々の農作業で荒れた手がひりひりと痛む。
それでもカラムは村の誰よりも大きな拍手で姉を祝福した。
カラムは他種族の母なし児だった。ある日、森に捨てられていたところを拾われ、姉と共に育てられた。
カラムはチビでノロマで、その分だけ小さな頃から姉にべったりだった。
まだ十を少し過ぎたカラムには結婚というものの実感は薄い。姉が家を出ていく寂しさの方が大きいくらいだ。
万事に控えめな姉だった。貸本を好んで読み、村の誰よりも賢かったが、体は丈夫ではなかった。嫁に出てやっていけるのか家族ですら不安がったほどだ。
それでもこの一時、村の誰よりも美しく着飾った姉の姿は幸福そのものだった。
「おめでとう、姉さん――」
カラムの自慢の姉だった。
気づけば、カラムは姉の歳を追い越していた。
その日のことを、覚えている。空を泳ぐ雲のひとつまで覚えている。
結婚式の最中に、ソレは唐突に現れた。
ソレは赤い影だった。
焼け焦げた真っ赤な外套。
顔に縫いつけられた鳥の嘴のような仮面。
ソレの両腕は燃えていた。鼻が腐り落ちそうな異臭を放って、燃えていた。
その両腕から放たれる炎は鉄すらも溶かす超高熱の死であった。
幸せの絶頂に訪れては村を焼く怪異。赤衣の怪人。
巷間で囁かれる、タチの悪い妖精童話のひとつであった。
その両腕から放たれた炎は家を焼いて、麦畑を焼いて、人を焼いて、田舎の小さな村を瞬く間に焼き尽くした。
石造りの食糧庫すらも溶かして焼いて、あとにはなにも残らなかった。
ただひとり、川に突き落とされたカラムを除いて。
誰もが焼かれていく村に呆然とする中、誰よりも早く動いたのが姉だった。
はじめて見た姉の姿だった。はじめて見た姉の必死な表情だった。
カラムは姉に川へ突き落とされた。
カラムが最後に見たのは、婚礼衣装を纏ったまま炎に焼かれる姉の姿だった。
あれから幾年が経った。
カラムは幾度となく回想する。
「なぜ――」
獣道と見分けのつかない農道を歩きながら、カラムはぼそりと呟く。
辺境の農村にいては決して身に付かない最先端の知識を学んでなお、解明されない疑問があった。
なぜ、姉は自分を川に突き落としたのか。
その疑問こそがカラムを生かした。
復讐の念よりも、村を焼かれた絶望よりも、その疑問こそが全てを喪ったカラムの核となった。
カラムは赤い影を追うモノとなった。その先に問いの答えがあると信じた。
この時代、世の中にはまだまだ不思議なもの、未解明なものが残っていた。魔術があり、魔物がいた。
村だった焼け跡を出たカラムは王都に出た。都には多くの種族が出入りしており、その数だけ死角があった。
カラムは物乞いとなり、教会の門前で言葉と文字を学び、身分を偽って賢者に弟子入りした。
多くを学んだ。カラムはチビでノロマで、おまけに無教養であったが、その分だけ貪欲だった。
まるで、かつての姉の姿をなぞるように。
カラムは数十年を経て、賢者と肩を並べる知識を身につけた。
そして旅が始まった。
いくつもの焼かれた村を見た。
その過程で、カラムは賢者の言うところの「法則性」に気づいた。
赤い影は祭事に現れて村を焼く。村人が一堂に会する機会に、彼らを一網打尽にするためだ。
赤い影は村を焼く。特に食糧庫を焼く。逆に金目のものは残されていることが多かった。
明らかに、火付強盗の類ではない。
だが、単なる怪異化生とも言い難い。その行動には明らかに意図があった。村を効率的に焼こうとする思考が透けていた。
ならば、その目的とは――
「……いや、本人に訊けばわかることか」
カラムは遠くに見えてきた赤い影に目を眇めて呟いた。
意図や法則性があるということは、行動が予測できるということだ。
賢者の下で知恵を蓄えたカラムにとってはさして難しいことではなかった。
村がひとつ焼かれるごとに予測の精度は増した。カラムが訪れた村が赤い影に襲われるようにすらなった。
今となっては赤い影を追っているのか、自分が追われているのかすらわからない。
わかるのは、予測は極めて正確であり、自分たちは必ず出会うということである。
よって、問題はこの怪人を捕獲ないし撃破できるか、という点に尽きる。
その答えもまた、すでに出ていた。
「……」
赤い影は嘴のような仮面をカラムに向け、異臭のする両腕をゆるりと持ち上げた。
カラムはフードに隠した乾いた表情でその様を見つめていた。
カラムの半生はソレを打倒することに費やされてきた。
「終わりにしよう、火付け野郎」
スラング混じりの言葉を吐いて、カラムは背から斧を引き抜いた。
赤い影がいかなる存在か推論を重ねた結果、物理的に頭を叩き割るのが最適解だと判断したのだ。
「私はお前の先へ行く。問いの答えを見つけるのだ」
宣言する。
追いつくだけなら二つ前の村でよかった。
戦うだけなら一つ前の村でよかった。
だが、確信を得るにはそれだけの時間がかかった。
結論はでた。ゆえにカラムは迫る炎に向けて駆けだした。
赤い影の両腕から放たれる炎は鉄すらも溶かす。魔術か魔道具か、あるいは生体か。
だが重要なのはそこではない。
それが――信じられないほど高熱であるが――単なる炎であること。
その確信を得るために、カラムは幾つもの村が焼かれる様を見てきたのだ。
炎がカラムの全身を包み込む。
視界が炎一色となる。耐火の防護を施した筈の服が瞬く間に燃え尽きる。
その中を、カラムの矮躯が駆け抜ける。
数十年を経ても小さな体には火傷のひとつも負う気配がない。
当然だ。常は顔を隠すためにフードを被っているが、それも燃え尽きた今なら誰の目にも明らかだ。
カラムは――彼女はドワーフだ。
人間に倍する寿命と、生まれついての強力な火の加護。
ドワーフは火傷を負わない。煙にむせぶこともない。
優れた鍛冶師として生まれ落ちるドワーフは、同時に火を主武装とする者の天敵である。
「おおおおおあああああああああッ!!」
吼える。カラムはチビでノロマだが――ドワーフの膂力は人間の数倍をいく。
同族の骨と髪を組み合わせた斧もまた、超高熱の炎に溶ける様子はない。
「――――」
斧を振り下ろす刹那、突然、赤い影の動きが止まった、気がした。
そうして、カラムの斧は赤い影の脳天を叩き割った。
夏の風に鉄錆めいた匂いが混じる。
「こんな……こんなモノに、私たちの村は……」
斧を手にしたまま、カラムは乾いた声を漏らした。
呆気ない終わりだった。
赤い影は即死した。人間のように即死した。
否、ほんとうに人間だったのだろう。そういう手応えだった。
あまりに呆気なさ過ぎて、カラムの半生を費やした行動が無駄に思えるほどだった。
「せめて、顔くらいは見ておくか……」
カラムは死体の顔に縫い付けられた血塗れの嘴を引き剥がす。
それは賢者の元で学んだがゆえの好奇心だった。
顔を見れば、出身や血筋に見当がつく。それほどに優れた知識がカラムの中にはあった。
人間より遥かに長い寿命がそれだけの時間を与えた。
だが、そこに陥穽がある。
カラムは賢者に等しい知識を得たが、賢者にはなれなかった。
ゆえに、彼女は足元にぽっかりと開いた奈落についぞ気づくことはなかった。
仮面の下にあったのは義兄の顔だった。
「あ、ああ、ああああああ……」
義兄。すなわち、姉の夫。
そういえば、とカラムは声を漏らした。
姉が焼かれる姿は見たけれど、義兄が焼かれる姿は見ていなかったな、と。
そして、もうひとつ。
問いに答えが提示される。
なぜ、姉は自分を川に突き落としたのか――
――ドワーフが火に傷つかないことを姉は知っていたのに。
それはすなわち、ドワーフはチビでノロマで――泳げないからだ。
姉と義兄の間にどのような経緯があったのか、カラムは知らない。
村を焼く必要が、自分すらも焼き尽くす必要がどこにあったのか、わからない。
わかることは僅かにふたつ。
焼け焦げた外套と嘴のような仮面は魔道具であり、魔術……あるいは呪術と呼ばれる代物であり、それらを纏えばカラムも同じモノになるということ。
そして、もうひとつ。
義兄が村を焼く法則性を、カラムは極めて正確に予想できるということだ。
妖精童話は終わらない。
――――後の世で、ソレは火廻と呼ばれた。
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