第9章ー8
そんな状況にあるとはいえ、トハチェフスキー元帥とソ連軍軍事顧問団の面々は、当時、世界でもトップを争う優秀さを、スペイン共和派の大攻勢の前に示していた。
大攻勢を行うことについても、できる限りの機密保持作戦を講じ(例えば、この大攻勢に関する連絡は、基本的に全て伝令等で行うものとされ、南北に分断されたスペイン共和派軍が、この大攻勢についての連絡を南北間で行う方法は、何とか稼働可能な僅か3隻の潜水艦を用いた輸送作戦に託される有様だった)、航空支援や戦車等の投入も、積極的に計画の中に組み込まれて、全体作戦が立案された。
ただ一つ、彼らに執って最悪だったのは、その相手が、文句なしにそういったことについては、当時の世界で最も精通し、経験しているといえる将帥だったことだった。
1918年段階で戦車師団を編制、運用し、1927年段階で戦車の集中投入と、密接な航空隊の地上支援を組み合わせることで、一挙に敵陣を突破し、包囲殲滅した実績を持つ土方勇志伯爵相手に、航空支援や戦車等を投入した攻撃作戦を立案するというのは、ハンニバル相手に、野戦を挑もうとする大スキピオと同様の苦難を覚悟せねばならないことだった。
しかも、ハンニバルの方が、大スキピオより、質量共に優勢な部隊を率いている状況下においてである。
後知恵からすれば、スペイン国民派の後方を完全なゲリラ戦で混乱させつつ、守勢に徹した方が、スペイン共和派は、まだ善戦できた可能性が高い、という非難がなされるのも無理はない状況だったのである。
だが、それでは明確な勝利が得られず、スペイン共和派に必要な有利な講和、停戦は望むべくも無い。
少しでも有利な講和、停戦の為には、大攻勢をするしか、スペイン共和派には手段がなかった。
そして、大攻勢をする以上、その為の人員、物資の移動が、スペイン国民派に掴まれるのも、止むを得ない話だった。
「さすが、我に追いつくソ連機無し」
和田操大佐直々に、偵察飛行から無事、帰還してきた加藤正治軍曹をねぎらっていた。
加藤軍曹自身は、戦闘機乗りになりたかったのだが、96式司令部偵察機の操縦士として、スペインに赴く羽目になっていた。
そして、96式司令部偵察機を操っての初出撃の際に、I-15戦闘機3機の襲撃を受けたものの、96式司令部偵察機の高性能も相まって、その襲撃を悠々と振り切ってしまった。
そして、
「我、ソ連戦闘機3機の襲撃を受けるも、これを振り切る。我に追いつくソ連機無し、繰り返す、我に追いつくソ連機無し」
と打電させたことから、上記の異名がついていた。
「ところで、敵地上軍の動向は、どう見た」
和田大佐は、加藤軍曹に質問した。
「偵察員が撮影した写真を精査していただきたいですが、私の見る限り、大攻勢間近ですね。敵軍の戦車を多数見ましたし、前線間近に簡易飛行場を整備しようとしています」
加藤軍曹は答えた。
「やはりな」
和田大佐は、加藤軍曹の言葉に、我が意を得たり、と肯きながら言った。
「敵軍の無線通信量も、増大傾向にある。航空偵察の結果を組み合わせて考えると、これはスペイン共和派の大攻勢が間近い、と判断すべきだろうな」
和田大佐は、自問自答した後で決断した。
「土方伯爵や石原莞爾大佐に、本格的な敵軍の大攻勢間近し、との警報を出そう。地上戦闘を有利に進めるためにも、航空部隊としては、できる限りの戦力を投入しての航空撃滅戦を展開しよう。おそらく、スペイン共和派が行なおうとする、この大攻勢の帰趨によって、スペイン内戦の終わりがどうなるのかが、最終的に決まることになるだろう」
和田大佐は、そう独り言を言った。
その言葉を聞いた周囲の者も肯いた。
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