プロローグー8
プロローグの終わりになります。
景気が少しでも悪くなると、与党、政府に対して悪感情が世論に広まるというのは、古今の真理である。
斎藤實内閣の世論の支持は下降傾向を示すようになった。
更に悪い原因があった。
斎藤實は、山本権兵衛内閣時代に海相を務めたことがあり、その後も元老となった山本権兵衛元首相の私的顧問を務める等、政治的な経験は蓄積していたが、実際に選挙戦を政治家として戦ったことは無かった。
それなのに、首相になったのである。
立憲政友会総裁の鈴木喜三郎が、斎藤首相を衆議院では準与党としての立場から支えたが、所詮は顧問であり、しかも鈴木自身も、司法官僚や内相の前歴から国民から嫌悪感を抱かれている存在だった。
そういったことから、斎藤内閣は、衆議院選挙に打って出るタイミングを、結果論だが、逸してしまう。
更に、斎藤内閣は、犬養毅、前首相にして前立憲政友会総裁の負の遺産も継承してしまった。
犬養首相は、首相就任以前の立憲政友会総裁時代に、立憲政友会の新支持者層を開拓しようとして、労働組合法案や婦人公民権法案等を、野党立憲政友会からの法案として、衆議院に提出していた。
だが、自らが首相に就任し、1932年の衆議院総選挙に大勝利を収めてからは、これらの法案の提出をさぼるような姿勢を示してはいたが、具体的な態度を示す前に、五・一五事件で暗殺されてしまった。
(これに関する犬養首相の考えについては、政治学者の間でも現在に至るまで考えが分かれ、論争が続いている。
暗殺されていなかったら、犬養首相は立憲政友会の長年の方針に反するとして、これらの法案を提出しなかったという説と、暗殺されていなかったら、「憲政の神様」として、これらの法案成立にまい進したという説と両方がある。)
斎藤内閣は、野党、立憲民政党からの攻勢もあり、労働組合法案や婦人公民権法案等を可決成立させた。
斎藤内閣にしてみれば、犬養前首相の公約を守った、立憲政友会の信義を保った行動だったが、立憲政友会の長年の支持者(いわゆる地方の男性、保守支持者)の大半からすれば、立憲政友会の旧来の支持者層を裏切る行為に他ならなかった。
更に、独がナチスによる政権掌握に至った経緯に鑑み、斎藤内閣は、立憲民政党と談合の上、選挙公営法案と小選挙区制を基本とする選挙法改正案を可決成立させた。
斎藤内閣にしてみれば、これによって小党分立の愚を排除し、二大政党制による健全な民本政治が実現されるという考えだったが、実際には、これによって社会大衆党等のいわゆる無産政党は、単独での衆議院の議席獲得を断念し、野党の立憲民政党との共闘に奔った。
そして、宇垣一成元陸相を党総裁に迎えた立憲民政党は、無産政党を歓迎して迎え入れ、立憲政友会は、来る衆議院総選挙での苦戦を覚悟せざるを得ない状況になった。
こういった数々の結果論にはなる失策により、斎藤内閣は1936年2月に、任期満了に伴う衆議院選挙を戦わざるを得ない事態に陥っていた。
林忠崇侯爵は、土方勇志伯爵に尋ねた。
「斎藤首相、いや、斎藤内閣、立憲政友会のこれまでの判断は間違っていたか」
「いえ、私の見る限り、その時々の判断を間違っていたとはいえません」
斎藤首相は、土方伯爵からすれば、海兵隊の先輩である。
土方伯爵は、その為もあり、甘く見ていた。
「土方が言うとおり、その時々の判断は誤っているとは、とても言えない。だが、結果的には誤ったと言えるのではないかな」
林侯爵は慨嘆するように言った。
「その通りですね」
土方伯爵も、不本意ながら肯かざるを得なかった。
実際、斎藤首相が事実上率いる立憲政友会は、衆議院総選挙で敗北するだろう。
「政治は難しい」
林侯爵は、嘆いた。
幾ら何でも、この当時の日本で労働組合法や婦人参政権等はありえない、と言われそうですが、史実でも立憲政友会や立憲民政党は、国会でこういった法案を提出したり、それをいわゆるリベラルな方向に修正を求めたり(よりリベラルな修正を求めたのが、この当時の二大政党制の中で、より保守的な立憲政友会と言うのが皮肉ですが)しています。
他にも、失業保険法や小作農救済のための各種法案が、国会に出されています。
だから、歴史が少しずれれば、この頃にこのような法案が通る可能性は充分にある、と私は考えます。
次に登場人物紹介を挟んで、第1章に突入する予定です。
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