第8章ー2
フランコ将軍ら、スペイン(国民派)軍の将帥にしてみれば、速やかに首都マドリードを抑えるのこそ、内戦を早期に終結させる最良の手段だった。
だが、目の前の2人の日本の軍人は、スペインの将帥が下手な意見を言った場合、それを黙らせるだけの実戦経験を持っていた。
土方勇志伯爵は、日清戦争以来の長い実戦経験を持っている。
しかも、個別の戦闘なら敗北の経験はあっても、退役するまで、戦場に赴いた際には、最後には全て勝利を飾って帰国していた。
石原莞爾大佐にしても、本来なら初陣を飾る筈の(第一次)世界大戦では、結果的に陸軍大学で、当時、教育を受けたりしていたため、ほとんど前線に行かずじまいだったが、その後の断続的な対中戦争で頭角を現し、満州事変に至っては、「あの勝利は、石原の作戦によるものだ」と周囲に言わせるだけの実績を挙げていた。
この2人がスペインに赴くと聞いたことから、蒋介石は、養子の蒋緯国を特に希望して「白い国際旅団」の一員として送り出した程であり、また、ソ連も、スペイン共和派を勝利に導くために、と「赤いナポレオン」、「赤軍の至宝」と当時、謳われていたトハチェフスキー元帥を軍事顧問団長としてスペインに派遣した程だった。
(実際の(スターリンの)本音としては、トハチェフスキー元帥に、利敵の罪を着せて、最初から殺すつもりでスペインに送り込んだのだという有力説がある。
トハチェフスキー元帥自身も、「赤いナポレオン」という異名が、自分にあるだけに、スペインに出発する直前、気を許せる親友に対して、
「スペインとナポレオンは相性が悪い。そんなところに行くのは、気が進まない」
とこぼしていたという証言がある。)
こういった実績を誇る土方伯爵、石原大佐両名の意見となると、フランコ将軍ら、スペイン軍の将帥もその意見に耳を傾けざるを得なかった。
土方伯爵は、和田操大佐に命じて96式司令部偵察機で実際の戦場を撮影させた写真や、日英情報部の軍事諜報によって収集された情報が記載された書面等を示しながら、スペイン軍の将帥を、理詰めで説得を始めた。
更にその脇で、石原大佐が、その口添えをする。
「我々は、今、3つの主な戦線を抱えています。一つ目は首都マドリード、二つ目はカタルーニャ方面、3つ目がバスク、ガリシア等の北部方面です。一つ目と二つ目は連携しており、3つ目の北部方面は孤立状態にあります。この孤立した戦線に、主力を向けることでまず潰し、それによって得られた余剰兵力を、一つ目と二つ目に集中することで勝利を収めるのです」
土方伯爵は、熱心に説いた。
「しかし、我々の軍の主力は、首都マドリードを半包囲状態に既においている。後、一押しで落とせるのではないか。北部戦線に軍の主力を向けては、首都マドリードを共和派軍によって解囲される可能性があり、折角の戦果が台無しになってしまう」
フランコ将軍と同席しているモラ将軍が反論した。
その横では、フランコ将軍らも肯いている。
石原大佐が、それに再反論を加えた。
「考えが甘いな。主力を北部に向けるのは、誘いの隙だ。共和派軍に攻勢を強いざるを得ない状況を作らせることで、共和派軍を無理な攻勢で消耗させるのだ」
石原大佐は、上を上と思わないところがある。
だからこそ、この頃の海兵隊の上層部が持て余し、石原大佐が、土方伯爵には頭が上がらないのに目を付けて、土方伯爵の参謀長として、スペインに送り込んだともいえる。
(もっとも、石原大佐自身は、ナポレオンが勝てなかったスペインの戦場で勝利を収めてみせる、と勇躍して出発しているし、土方伯爵自身も、やんちゃ坊主扱いして、石原大佐の参謀長就任を歓迎した。)
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