第7章ー5
この世界では、第一次世界大戦に際して、西部戦線(主にフランス等)に20万人以上の日本陸海軍の将兵が派兵されています。
そのため、彼らを父とする子が、最も少ない推計で1000人以上、多い推計だと5000人余りがフランス、イタリア、ベルギー等で生まれています。
土方伯爵達が、ローマにたどり着いたのは、10月になっていた。
その頃には、続々と世界各地からカトリックの信徒を中心に、国民派に味方する義勇兵がローマへと集ってきていた。
遥々と中南米や米国から駆け付けた者までいるが、最も多かったのは、やはり欧州出身者だった。
アイルランドやフランスから駆け付けた者もいる。
秘かに独国内を抜けて、駆け付けたポーランド出身者もいた。
勿論、全てがカトリックと言う訳ではない。
義勇兵として、ここに集った日本人は、ほとんどカトリックではないし、英国人も、その多くがプロテスタントだった。
要するに国民派を支持する面々が集ったと言って、過言では無かった。
伊やポルトガルは、自国独自で義勇兵を募り、スペインへと送り込んでいることから、ここにはほとんど集っていなかった。
(もっとも、土方伯爵としては、第一次世界大戦の苦い記憶から、伊の義勇兵はお断りしたいくらいなのが本音ではあった。)
結局、年内に日本人1万人余りを中心に、3万人以上の「白い国際旅団」の兵が集うことになり、また、編制を完結次第、スペインの大地へと赴くことになった。
言語の問題から、基本的に出身国ごとに、中隊、大隊を編制、そして、それらを組み合わせ、旅団を編制していくという手順になるのである。
そして、ローマで土方伯爵ら日本人義勇兵を、もっとも驚かせたのは、日系義勇兵の存在だった。
かつての世界大戦で、欧州に遺されていた日本兵の子ども達、数百人がローマに集っていたのである。
父の国の部隊と肩を並べて戦いたい、そう考えた彼ら(主にフランス人が多かった)は、「白い国際旅団」に志願して、ローマへと駆け付け、土方伯爵らを待っていたのであった。
その中には、多くの女性が混じっていた。
彼らは、歳月を重ねる間に、20歳から10代後半になっていた。
土方伯爵ら、かつての世界大戦参戦者達は、複雑な想いを抱いて、彼らを眺めた。
何しろ、ローマにいる日本人義勇兵の中には、身に覚えのある者も、中には何人かいたからである。
土方伯爵ら、日本人義勇部隊の幹部は、手分けして彼らと面談することにした。
土方伯爵が、ざっと目を通すと、その中に、アラン・ダヴーという名が目についた。
土方伯爵は気づかれないように、自分の面談者の中に、その人物を紛れ込ませた。
土方伯爵らが、彼らの身の上を聞くと、多くの者が苦労していた。
まだ幸いだったのは、周囲からの偏見がそう少なかったことだった。
僕の、私の父は日本兵だというと、周囲では割合、同情してくれる者が多かったとのことだった。
だが、多くの者が認知を受けておらず、表向きの実父はいない者が多かった。
中には、母から実父の名を聞いていない者もいた。
アラン・ダヴーも、その1人だった。
土方伯爵とダヴーは、面談をしていた。
「父上の名は聞いていないのかね」
「聞いていません。私の母ジャンヌが、教えてくれません。母は、あなたの父は戦死した、あなたの父には、日本に妻がいたから、あなたを認知しなかったの、でも、私のことを心から愛して、私の下を去って行ったの、と言っています」
「そうか」
土方伯爵は想った。
母の名も一致する。
おそらく、このダヴーは、岸総司や篠田千恵子の異母弟の成長した姿だ。
「見知らぬ父の国の部隊と共に戦おうと思うこともないだろうに」
「私のルーツですから。それに、カエルの子はカエル、というそうですね。そういうことですよ」
ダヴーは、フランス人らしい皮肉を言った。
「確かにそうだな」
「義勇兵に志願するために、休学許可を受けた陸軍士官学校生として、微力を尽くします」
ダヴーは、土方伯爵にあらためて敬礼し、土方伯爵は答礼した。
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