第6章ー4
「英艦隊の行動は、明らかに国民派の行動を利するものである」
モロッコからスペインへの国民派部隊の海上輸送を、事実上援護した英艦隊の行動に対し、共和派は、英政府に正式に抗議し、英外務省は、遺憾の意を示したが、英海軍軍令部は、
「公海上で艦隊の演習をしていただけであり、結果的に国民派の行動に便宜を図ってしまったことにはなるので、確かに相当では無かったかもしれないが、謝る筋合いはない」
との主張をした。
実際には、そこは阿吽の呼吸というもので、国民派と英海軍の一部は共同行動をしていたのではあるが、そんなことを英海軍が、明かすわけがない。
共和派にしても、明確な証拠が無い以上、抗議に止めるしか無く、そうこうしている間に、モロッコの治安維持に必要な最低限の部隊を除き、モロッコにいた国民派の部隊はスペインへの展開を完了した。
その間に、スペイン本土でも、様々な大混乱が各地で起こり、多大な悲劇を引き起こしながらも、大雑把ではあるが、国民派が支配を確立した地域と、共和派が依然として支配を確立している地域とに徐々に分かれるようになっていった。
スペイン各地で起きた国民派の決起とそれへの共和派の対処は、それを叙述すれば、優に1冊の本が出来るくらいである。
ここでは、バルセロナについてのみ述べる。
7月18日の夕方、バルセロナ州政府の幹部や労働組合の幹部の下に、モロッコで国民派が蜂起したとの一報が入った。
労働組合の幹部達は、バルセロナでも同様の事態が起こる、と即座に判断、州政府の反対を無視し、組合員を総動員して、軍の武器庫等を襲って武器を確保し、職場のダイナマイト等を使って手製の手榴弾を急造し、乗用車やトラックは夜を徹して、装甲車へと改造し、と武装抵抗の準備を至急整えようと努めた。
動員された組合員達は、手を動かしながら、心の片隅で思った。
明日から始まる筈だった人民オリンピックは中止だ。
バルセロナでオリンピックが開かれるのは、何年後になるだろう、と。
7月19日朝、国民派の軍隊1万2000人が、兵営から出動して、バルセロナを制圧しようと行動を開始した時には、組合員達の武装は何とか整っていた。
出動した軍隊は、武装した組合員達(彼らを助けようと、人民オリンピックに参加予定の選手の多くが、彼らと共に戦い、「赤い国際旅団」の源流の一つになる。)の激しい抵抗に遭う羽目になった。
一部の部隊は兵営に押し戻され、一部の部隊はバルセロナ市の中心部の建物の一部を占拠することに、何とか成功したものの、武装した組合員達の重囲下におかれた。
組合員達は手分けして、街頭の各所に拡声器を配置し、絶え間なしにニュースや指令、激励を流した。
これにより、自分達が優位にあるという雰囲気を、更に醸し出そうとしたのである。
実際、こうした状況を見て、午後になると形勢を観望していた治安警備隊800人が、組合員の側に立って、終に参戦した。
その支援を受けて、国民派が占拠していた建物が、幾つか組合員達の手に奪還されると、籠城していた国民派の兵の中から、投降者が出るようになった。
7月19日夕刻、バルセロナ制圧部隊の指揮官、ゴデド将軍は、組合員達に投降のやむなきに至り、身柄を拘束されていた。
ゴデド将軍は、ラジオ放送で、自分が捕虜になっていることを表明し、これはマドリード等で、共和派が勝利を収める一因となった。
7月20日、最後まで抵抗をしていた兵営が、組合員達の総攻撃により陥落。
ここにバルセロナは共和派が確保することになった。
だが、それまでに組合員達は、5000人以上が死傷した。
彼らは、内戦の間は、バルセロナの市民達の英雄として伝説となった。
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