プロローグー6
高橋是清が引退した後、岩手一区を基本的に地盤とした代議士は、立憲政友会所属の田子一民だった。
だが、一皮剥けば、田子は岩手一区内にしこりを残している存在だった。
何故なら、原敬が暗殺された後、原の親友の高橋が、親友の弔い合戦を合言葉に岩手一区の選挙に出馬した際に、当時の有力野党だった政友本党(憲政会と後に合同して、立憲民政党を結成する)から田子は岩手一区の候補者として出馬しており、激しい選挙戦を戦った末に、僅か49票差で高橋に負けた存在だった。
その怨みで、原を長年支持してきた古参の立憲政友会の会員から、田子は嫌悪感を持たれていた。
だが、高橋が引退して田子が後継者となった1928年の衆議院選挙からは、選挙制度が小選挙区制から中選挙区制となった事から、その点は余り問題となっていなかった。
田子は、政友本党から立憲政友会に寝返って所属してからは、それなりに黙々と代議士としての職務に励み、地元にもそれなりに尽くしていたからである。
だが、この度の小選挙区制導入により、かつての事が蒸し返された。
岩手県は2つの選挙区だったのが、小選挙区制導入により、7つの選挙区に再編制された。
そして、新岩手一区から田子が出ようとしたことから、かつての怨念が噴き出した。
「あの田子という男を、岩手一区の立憲政友会所属の代議士候補者として応援するのは勘弁してほしい。かつて、首相を務められた原先生の親友にして、立憲政友会総裁も務められた高橋先生に、公然と逆らった男を応援して回るというのは、人間としてできない」
そう言う声が、古手の立憲政友会の岩手県の県議や盛岡市の市議の何人かから挙がった。
田子は、それなりに賢明だったので、旧岩手一区の一部である新岩手二区からの立候補で妥協することにしたが、今度は新岩手一区の立憲政友会の候補者がいなくなってしまった。
こういう場合、岩手県の県議なり、盛岡市の市議を、立憲政友会の候補者としては、却って立憲政友会の内部にしこりを残すと考えた、鈴木喜三郎立憲政友会総裁や斎藤實首相らは、相談した末に外部から立憲政友会の候補者を選任することにした。
そして、最終的に候補者として、白羽の矢が立てられたのが、米内光政海兵本部長だった。
「それにしても、何故、私を候補者にしようと考えたのです」
米内海兵本部長は、斎藤首相に率直に疑問を呈した。
「決まっている。君の政治的見識は、それなりのものがある。私の後継者として、2、3年経験を積めば、首相さえ務まるだろう。更に、君は英雄として、知名度が高い」
「私は英雄になるつもりは無かったのですがね」
斎藤首相からの高評価に、米内海兵本部長は苦笑いした。
米内海兵本部長は、かつての「北京政変」の際に、清朝のラストエンペラー、溥儀を北京から無事に脱出させて、日本に亡命させる作戦を行った際の現地総責任者だった。
その作戦を成功させたことによって、日本の国内外に、弱きを助けるサムライの名にふさわしい存在として、米内海兵本部長は名を高めた。
実戦経験も申し分が無いどころか、一流だった。
鈴木貫太郎中将(当時)の下で戦ったヴェルダン要塞攻防戦、土方勇志大将の下で戦った、南京事件をきっかけに勃発した日(英米)中限定戦争で、米内海兵本部長は共に名を挙げている。
「ともかく、君が新岩手一区から、立憲政友会の候補者として立候補すると言えば、地元の立憲政友会支持者達は、米内先生を代議士に、の掛け声で一致結束するだろう。岩手一区は、それこそ君の故郷だしな」
斎藤首相は笑いながら、米内海兵本部長に、代議士となることを勧めた。
「分かりましたよ」
米内海兵本部長は、とうとう説得された。
ご都合主義と叩かれそうですが、田子一民については、史実をそれなりに踏まえています。
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