第5章ー1 スペイン内戦への路
第5章の始まりです。
スペイン内戦を描くに当たり、その背景をその前に描かないと、何故、スペインが内戦に突入したのか、わかりにくいと思い、第5章として、事実の説明を入れることにしました。
「本当にかなわんな。色々とあの国は複雑すぎる」
1936年6月下旬のある日、前田利為陸軍少将は、ぼやきながら、部下から提出されたスペインの最新情勢に関する報告書に目を通し、朱筆を入れて、自分の知識を交えた指摘を加えていた。
部下に点検させた上、再度、報告書に目を通して、問題無いかを確認して、前田少将は、杉山元陸相と山梨勝之進海相に、その報告書を提出することになっている。
前田少将は、満州事変までの戦訓を受けたことから、発足することになった陸海軍合同(言うまでも無く空軍と海兵隊も協力している)の軍情報部の初代長官だった。
前田少将が確認している報告書は、最終的に陸相と海相に提出され、更に場合によっては、首相や閣議にも提出されることが想定されている国家最高レベルの機密の塊と言ってよかった。
本来からすれば、前田少将が付いている陸海軍合同軍情報部(ちなみにアルファベットでの略号は、JDIA)は、中将級が就くことになっている地位だが、年内に中将昇進が内定していることもあり、前田少将が抜擢されて就任していた。
もっとも、それにふさわしい経歴を、前田少将が持っているのも事実だった。
前田少将は、陸軍士官学校17期卒業生であるが、陸軍大学校は23期卒業生である。
この陸軍大学校23期卒業生は、首席が梅津美治郎、次席が永田鉄山等々と、第二次世界大戦時に日本陸軍の精華と謳われた人材を輩出した期であった。
前田少将は、この23期を3番で卒業しており、これは、第二次世界大戦時に「日本陸軍の作戦の神様」と謳われた小畑敏四郎を凌ぐ成績であった(ちなみに、小畑は6位)。
しかも、梅津は陸軍士官学校15期、永田や小畑は陸軍士官学校16期である。
梅津や永田より若年にもかかわらず、それだけの成績を挙げて、陸軍大学校を卒業しているのだから、超優秀な人材なのは間違いなかった。
また、血筋等も超一流だった。
分家から先代当主の養嗣子として入り、襲爵した身の上とはいえ、「加賀百万石」と謳われた前田本家当主であり、侯爵の爵位を帯びていた。
当然、藩祖ともいえる前田利家の血を承けている存在である。
資産等も超破格であり、いわゆる「家来」が、今でも140人もおり、中でも「家令」は、男爵の爵位さえ持っていた。
世界大戦時には、海兵隊に出向し、海兵隊大尉として、銃火をかいくぐって、帰国したのだが、その際に今上天皇陛下をはじめとする皇族等へ欧州土産を、自分の資金で買って、直接、手渡したという逸話の持ち主でもあった(ちなみにこの1件は、さすがに陸軍内で問題となり、当時の田中義一陸相から、直接、立場を弁えろ、と前田大尉は、たしなめられる羽目になった。)。
こういった経歴の持ち主だから、欧州の上流社会にも、前田少将は、当然、顔がきく。
爵位を持たぬ者、お断りといった場面でも、それなりの資産を持たないと入れない場面でも、前田少将は問題なく顔を出せるからである。
そして、チャーチル元海相等の欧州の政財界の重要人物とも、前田少将は直接の知り合いであることから、今の地位に抜擢された。
「それにしても、スペイン情勢は厄介極まりない情勢になっているな。自分個人の意見としては、下手に介入すると大やけどをしそうなので、介入反対の意見を挙げたいくらいの厄介なところなのだが」
前田少将は、独り言を言った後、更に続けた。
「スペインは、これまでの長年の歴史、宗教の膿が、今になって、一度に吹き出してしまったな。人間で言えば、病気を治すために、早く手術をしないといけなかったのに、手術は痛いから、とさぼり過ぎて、手遅れにしてしまった。全く、外国にまで迷惑を掛けている」
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