雪の日の恋愛事情
寒さって嫌い。身体は強張るし感情は暗くなるし何もしたくなくなる。筋肉が固くなって全身が全力で動くことを拒否する。暑いならまだいいんだ、嫌いだけど。やる気削がれるけど。でも寒さだけはいただけない。だって人間って寒すぎたら死ぬんだぜ? 暑すぎて死ぬこともままあるけど。
そんな訳で俺は雪も嫌い。だから今窓の外の雪を見てはしゃいでる二人の後輩たちの気が知れない。多分これは初雪だ。部室棟は暖房と縁を切っているから現在めちゃくちゃ寒い。寒いの嫌い。高校に入って2度目の冬が来た。
「三浦先輩、雪です」
見りゃわかるよ。しかしキラキラした目で振り返る後輩に何も言えない。飴を舐めているのか頬が少し膨らんでいた。もう一人の後輩はその隣で小さく笑っている。仲良いよなぁ、この二人。もちろんそこに含まれる感情が普通の親友をちょっと越えてしまったことに俺は気付いている。だからって何も言わないけどね。
「宮田、猫は雪よりこたつじゃなかったっけ?」
「そこまで猫っぽくないです」
間髪を容れずに言い返される。こいつは猫が嫌いらしいが、性格が全体的に猫に似ている。その自覚もあるようで、今まで猫に例えたからって怒られた試しはない。そういう意外なところでこだわりがないのも猫っぽい。
「ま、寒いの嫌がってるのは猫と同じか」
ぽつりと呟くと宮田の隣でもう一人の後輩、篠本が気まずげに目を逸らす。彼はこの寒さで羽織っているのはカーディガンだけ、一方宮田は制服のブレザーを一枚着込み、なぜかもう一枚を肩にかけている。上手くいっているようでよろしいこった。
まだ部活を始めるには時間が早い。よって部室には俺たち3人しかいない。このバドミントン部には一応十数人の部員が存在しているが、早く来る部員は決まっている。クラスが違うためイチャイチャする時間を多くは確保できない篠本と宮田。そして、部長である自分。自分のラケットを取り出し、少しため息をつく。動くと暖かくはなるが、汗を掻くと気化熱という史上最悪の原理が働く。今日はあまり動きたくはなかった。動かないと寒いけど。
そのままぼんやりしていると、いつの間にか宮田がそばに来ていた。
「どうした?」
「先輩、くさい」
いきなり酷いと思ったが、
「たばこくさいです、三浦先輩」
その言葉に納得する。
「…犬か……」
「嗅覚イコール犬は流石に酷いと思います」
「別にたばこ吸った訳じゃないよ。父親が吸う人なの」
「そーなんですね」
特に何も思った風もなく宮田が頷く。しかし篠本が、その向こうでふと首を傾げた。
「ニイナ、なんで急にそんなこと?」
「え、なにが?」
「たばこ。お父様がってことは、先輩ってずっとたばこ臭かったんじゃないのか? なんで今更?」
「あー…ん? いつもはたばこ臭くなかったような……あ」
「……あ」
二人が全く同じタイミングで言葉を失う。二人とも顔に「ヤバイ」と書いてある。少し遅れてその理由に気づいた俺はため息をついた。俺の言葉の選び方も悪かったけど。
「……勘の良い子は嫌いだよ」
「みっ、三浦先輩!」
焦った顔をする篠本。宮田は青ざめて口をひき結んでいる。
……可愛い後輩たちだ。
俺は降参の意を込めて両手を挙げる。
「はいはい。嘘ですよ、嘘。父は喫煙者じゃない。だから別に、別居してるわけでも親が離婚したわけでもないよ。普通に一緒に暮らしてる」
「え……じゃあやっぱり、」
「俺が吸ったわけでもないってば」
やはり父との間に事情があると思っていたのか、二人が明らかに安堵した。俺は思考を巡らせる。出来れば本当の理由も隠しておきたいんだけど。
「じゃあなんでですか? 匂い」
ど直球で聞いてくる宮田にかなう気もしない。
俺は少し考えて、それっぽい理由をでっち上げる。
「朝、バス待ってたら、隣でたばこ吸いだしたおっさんがいて……」
「先輩、最初からそれ言ってくださいよ。なんで隠したんですか?」
……篠本も無駄に鋭くて困るのだ。
無自覚のほぼ最強タッグに純粋な目で見つめられ、俺は柄にもなく狼狽える。と、その時。
「………へーぇ、今朝バスに乗る機会なんていつあったんだ?」
開けっぱなしだった部室の入り口から声がした。
振り返ると、黒いジャージ姿の青年の姿。
「先生……」
「よう、ハル。今朝ぶりだな」
我らが副顧問、木野である。
「木野先生、どうかしました?」
「いや、ハルに忘れ物を届けにな。ほれ」
篠本に返事しがてら、彼は俺にぽいっと何かを投げ渡す。
俺は難なくそれをキャッチしながら、顔をしかめた。
「……その呼び方やめてくれません?」
「やーだ。いいじゃねーか本名だろ?」
「苗字で呼んでってことなんですけど。行間読む力もないんですか?」
「自分のいいように解釈する力も必要だぞ」
「意味わかんない」
木野に渡されたものを鞄にしまうと、宮田がハッとしたように小さく声をあげた。
「同じだ……!」
「何が」
「先生と先輩のたばこの匂い……!!」
俺は額に手を当てた。まずい、これは、もうバレる。
篠本が「あー……木野先生喫煙者だった…」と一言。まずい、こいつにはもはやバレている。
木野が宮田に「なになに?」と顔を向けた。
「今日、急に三浦先輩からたばこの匂いしたんで、びっくりして聞いたんですよ!」
「ふむふむ」
「そしたら父親が喫煙者だとか、かと思えばそれは嘘とか、バス待ちの時に喫煙者に会ったとか、なんか変だったんです、先輩が! 」
「ふーん、あいつの父さん、あいつが生まれたのを機にたばこやめてるぞ」
「えっなんで先生が知ってるんですか!?」
「ひみつー。で?」
「それで、なんでかなって思ってたら、先生から先輩と同じたばこの匂いがしたんです!」
「まー、そうだろうな。朝こいつ俺の車に乗って学校来たし」
「ええええ!!?」
俺はほとんど頭を抱えた。言いやがったあの野郎。篠本が俺に同情的な視線を送ってきているのが分かる。知ってるよ篠本、お前も振り回される側だもんな。
「昨日俺ん家泊まったんだよ、ハル」
「ふぇっ!? なんでっ!!?」
「さーな。つかお前ら、こんなとこで駄弁ってないでさっさと練習しろよ」
「でも寒いんですー」
「動けばあったかくなるだろ」
木野と話しながら宮田が練習着に着替え始める。篠本を見ると、こちらは目を丸くしていた。
「……泊まったんですか」
「うるさい」
木野と宮田の話し声をBGMに黙々と着替える。話題はいつの間にかコロッケの話になっていた。正直ついていけない。
そのまま二人はカツカレーの話で盛り上がりながら先に行ってしまう。話題の展開が分からない。
俺はこちらも黙々と着替えていた篠本に声をかける。
「……置いてかれたぞ」
「いいんです。いつもこんななんで」
篠本は肩を竦めただけだった。猫の気紛れに関しては諦めているらしい。
軽く中身を整えてロッカーを閉めると、ほぼ同じタイミングでロッカーを閉めた篠本がぽつりと呟いた。
「…先輩も」
「ん?」
「置いてかれちゃいましたね」
クスッと笑ってこちらを伺う篠本。俺は黙って肩を竦めた。
*
「せんせ」
部活後、部員全員が帰ったことを確認し、部長として責任を持って部室の鍵を締める。それを後ろで見ていた木野に、視線をやらずに話しかける。
「あとこの鍵返してくるんで、先に車で待っててください」
「俺も行くか?」
「何言ってんだ馬鹿か」
「冗談。俺、が、返しに行こうか?」
「いい。ご老体はあったか〜い車で待ってな」
「7歳しか違わんだろ」
「7歳も違うだろ。てか行間読め。俺が戻るまでに車暖めろって言って・ん・の!」
ニヤニヤしている木野を駐車場方向へと押し出し、俺は職員室へ急ぐ。
木野和樹。俺の人生を狂わせた人。
最初の肩書きは、母さんの親友の息子。幼稚園から小学校低学年にかけて休日とかによく遊んでいた。俺としては年の離れたお兄ちゃん感覚で、彼が高校受験のために疎遠になるまでの間、割と素直に慕っていた。
二つ目の肩書きは家庭教師。勉強が良くできた彼は、大学に通い教員採用試験の勉強をする傍ら、中学生の俺に勉強を教えていた。もちろん給料も貰って。母としては信頼の置ける木野に俺を見てもらう方が良かったのだろう。俺は、しばらく会っていなかったせいで彼に対して昔のような親しい対応は取れず、常に敬語で接していた。木野は変わらず俺を弟のように扱っていたが。
三つ目の肩書きは部活の副顧問。無事合格した俺と無事高校教師となった木野は、何の因果か立場は違えど同じ部活になってしまった。この頃にはもう俺の木野に対する敬語は端々が崩れ、同時に純粋で素直な尊敬も崩れた。木野は遠慮が無くなった。
で、四つ目の肩書きは、恋人。
雪はやまない。気温は低いまま、地面を白っぽくさせ始めた雪を溶かす気配は無い。少し急ぎ足で見慣れた車にまっすぐ向かう。迷わず助手席に乗り込むと、期待通りに暖かい空気が俺を包んだ。先に車の持ち主を送り込んで良かった。思わずふふっと笑うと、名を呼ばれた。
「ハル」
俺が返事するよりも横を向くよりも早く唇が奪われる。
「…ん……っふ…」
一瞬だけ深まる口付け。軽く舌を撫ぜられ、小さく声を漏らした瞬間に熱が離れた。
「……あんたさぁ、ここが校内って分かってる?」
「…あー……まぁ、なんとなく」
「ついに耄碌したかおっさん」
「おっさん呼ばわりは流石に早すぎね?」
木野はクスクスと笑いながらエンジンをかけた。
生徒が先生の車に当たり前のように乗るとか本当はあんまりよろしくないんだろうけど、木野がそこを気にしている様子はない。若さゆえか、それともバレてもいいとでも思ってんのか。俺としては関係がバレても「先生が……無理矢理……っ!」とかなんとか言えばオールオーケーなので気にしてはいないけど、木野としては下手したら教師を続けられないだろう。アホなのかこの人。
車の窓を流れていく景色を理由もなく眺め、ふと、鞄の中に無造作に入れたままのものの存在を思い出す。部活の前に木野に投げ渡されたもの。あの時は後輩二人の目を気にしてさっさと入れてしまったため、どこにしまったやら実は覚えていない。何って、鍵だ。木野の部屋の鍵。
手始めに、いつも小さなものを入れる場所を探る。無い。次に一番大きなスペースを開ける。と、ビンゴ。探すまでもなく、詰め込まれたものたちの一番上に乗っかっていた。
「…失くすなよ」
「失くしてませんよ。見つけました」
いつから気づいていたのか、前を見たまま木野が声をかける。俺は別にやましくもないので動じずに答えた。ちらと一瞬こちらに目を向け、木野は運転に戻る。
この鍵は、俺のものだ。木野が以前くれた。自由に入れって。その後度々使ってきた。光をよく反射していた銀色が薄くかげってしまうくらいには。
顔を上げると、車は赤信号に止まるところだった。
「……あんた、前に、俺がいるところじゃたばこ吸わないって言ってませんでした?」
「……言った」
「じゃあなんで今朝たばこ吸ったんです?」
「……無意識」
昨日は父も母も出張で、堂々と木野の家に泊まった。流れでコイビト同士がする事もして、朝。起きたら隣で裸の男が紫煙吐いてやがった。ハードボイルドかっ、というツッコミは掠れた声では届かず、いつもは受動喫煙がどーたらこーたら言う木野はなんでもない顔でおはようって言うし、時間は遅刻ギリだし、学校に向かう途中で木野が家の鍵忘れたとか言うし、どうせ今日は使わないと思ったから鍵貸したら放課後返されるし、なによりたばこの匂いしっかりついてたし。てか何、鍵を俺に返したって事は、今日も俺木野の家に行くの?
「ばかじゃないの? いっつも受動喫煙って言ってた木野はどこ行った。死んだんですか?」
「過去の自分は死んだと表現するのは非常に詩的で興味深いが、あいにくそんなもんじゃない。朝のぼんやり感から覚醒するために吸ったんだよ」
「そのために俺の隣でたばこ吸うとか、よっぽどぼんやりしてたんですね」
「まぁな」
「ぼけが始まったか」
「そこまで年じゃねぇよ。ただなんつーか……考え事だ」
妙に歯切れが悪い。
「ぼんやりと考え事? 俺が隣にいた事忘れてたばこ吸うレベルの? 一体何考えてたんだよあんた」
「うっせぇな……朝勃ちは生理現象だろうが!」
急に声を荒らげた木野に口をつぐむ。うわぁーお。想像以上の理由だった。
「……元気だなあんた」
「言うなくそ! その状態で隣にお前とか……なんかもう、ヤバイだろ! お前服着てねぇし! たばこ吸って気を紛らわす以外、ないだろ!」
「トイレ行けよ」
「寒かったんだよ!」
木野の顔を見ると耳まで真っ赤になっていた。可愛いなとは思うが理由が可愛くない。
とはいえ朝から気になっていた事への納得はいった。俺はため息をついてフロントガラス越しの景色に目を移す。黒みの強い夜の世界は、街灯でぼんやりとオレンジ色に光っている。その中をオレンジの雪が舞っていた。朝には積もってしまっているだろうか。
「このままあんたの家直行なんですか?」
「……ハル、お前携帯見たか?」
「朝から電源切ったまま。なんで?」
「あー……。まぁ、結論から言うと、俺ん家直行」
頭上にはてなマークが出た気がする。父は明日までの出張として、母は今日の夜に帰る予定だったはずだが。当然俺も自分の家に帰る予定だったはずだが。木野の言い振りだと携帯を見れば理由が分かるんだろうが、正直電源入れるの面倒。時間掛かるし。
携帯を取り出しもしない俺に痺れを切らしたのか、木野が理由を教えてくれる。
「おばさん、青森出張だったろ」
「うん」
「豪雪で新幹線止まったんだと」
「……マジで?」
「マジで」
降り積もる雪。この地域は雪に縁がないわけでもないが雪害がひどい場所でもない。そんなここでも降っているのだ、豪雪地帯は大変なんだろう。そんな場所なんざ行ったことないが。
「なるほど……それで木野は俺をお持ち帰り出来るからって浮かれてる訳ですね」
「う、浮かれてねぇから。お持ち帰りしなきゃ損だなって思っただけだから」
「しなきゃ損って、なんか最低男っぽいわその言い回し」
「うるせ」
コツンと軽く拳が頭に触れる。思わずクスクスと笑いが込み上げた。
非日常が日常と化しているみたいな妙な日々だ。俺の当たり前は一般常識から逸脱しているはずだ。男と付き合ってて、しかもそれが学校の先生で、幼馴染み的な間柄で。でもまぁ、それでもいいや。頭の隅でおかしいって思ってても、俺はいたって普通に生活できてるし、さ。
*
「じゃあ、次の大会に向けて頑張っていきましょう。要項でなんか質問ない? ないね。よしじゃ、解散しましょう。先生方から何か」
「いや、特に」
「俺も無いな」
「はい。以上でミーティングを終わります。お疲れ様でした」
初雪から一週間経った日の昼休みである。俺は特別教室の壇上で部屋を見渡した。十数人の生徒たちと、後方に座る顧問副顧問。バドミントン部のミーティングだった。すでに部員たちはダラダラと話しながら退出を始め、顧問勢も何事かを話しながら立ち上がっている。
「……篠本」
「はい?」
俺は一人で教室から出ようとした篠本を呼び止めた。
「宮田ってどうしたの」
今日のミーティングでいなかったのは宮田だけだ。
「あーなんか……美化委員会がどうのって」
「ああ、そう。休みじゃないのか」
「ええ。そのプリント渡しときます?」
「……いや、いいよ。部活ん時渡すから」
「そうですか」
「……しのもっちゃんとにゃんこって仲良いよねぇ〜」
俺と篠本との会話の横から、楽しそうな声が入った。
声の主はゆるふわショートカット(天パ)の少女だ。机の端に軽く腰を掛け、によによしながらこちらを見ている。行儀の悪い……。
「女子としてその格好はどうかと思うよ、井上」
「べっつにいいじゃんねー? あ、でもそか、不良に見えちゃうかもしんないや」
井上は俺の同級生である。そして女子バドミントン部の部長。机から降りたはいいが、彼女はそこでコンビニのパンを開封し始めた。おい、ここで食べる気かよ。
「てーかほんと、しのもっちゃんとにゃんこ、結構仲良いよね。割といつも一緒に居るし。お互いの事情把握してるし。あーぁぁ、男子っていいなぁ。妬けるよぉ」
「あ、それ私も思ってました」
焼きそばパンを食べながらグチグチ言う井上に同意の声が重なる。後輩の原だ。
「篠本君と宮田君って、違うクラスでしょ? なのに今日とかも篠本君、宮田君の用事知ってるし……。なんか男子っていいですよね。友情壊れなそう」
「えーっ、女子の友情も壊れないよー?」
「だとしても、壊れやすい友情って女子の間に多いですよねぇ……。別に壊れてもいいかなっていう浅い友情を、女の子って平気で作れますから」
原が結構な毒を疲れたように吐く。その言葉、友人に聞かれたらかなりの数の友情が壊れそうだな、と思ったが言うのはやめておいた。
「でもさ、しのもっちゃんたちはちょっと異常な程じゃない?」
井上が笑いながら言った言葉に、それまで会話を受け流していた篠本の表情が固まった。
「にゃんこってしのもっちゃんにべったりだし。しのもっちゃんもなんだかんだで、何につけてもにゃんこと一緒に居たがるじゃん? 男子にしては珍しいよねぇ」
「言われてみればそうかもしれません。連れションとか毎回しそう……」
「それは女子すぎない?」
「もしくは恋人の域ですね」
女子二人が笑い声をあげる横で、篠本はギリギリ不自然じゃない程度の無表情だ。少し、まずい流れかもしれない。篠本がボロを出すとは思えないが、だからこそ。
篠本が小さな笑みを作りながら会話に入った。
「……なんでそんな方向に行くんですか」
「だってそうだったら面白いなーって。二人とも、イケメンくんにイケメンちゃんじゃーん」
「実際に、どう? 篠本君は宮田君と付き合ったりできちゃうんじゃない?」
原の悪意のない笑顔が向けられる。
怖いな、と思った。いつその笑顔が自分に向けられるかも分からない。今回はたまたま篠本だったというだけの話だ。木野先生と仲良いね、と、触れて欲しくない場所に触れられる日が、いつか来るかもしれないのだ。
もちろん簡単にバレてしまうようなヘマはしない。だけどそのために俺は、自分を否定する言葉を躊躇わずに言わなければならない。なんでもない顔で、当たり前のように、自分を殺さなければならない。
それはやはり、少し怖いから。
篠本がふっと笑う。その口が言葉を紡ぐより早く、俺は口を開いた。
「おい。うちの後輩あんま困らせるなよ」
呆れた風を装って篠本を遮る。
井上も原も、楽しそうにケタケタ笑った。
「三浦っち〜、一応あたしの後輩でもあるんですけど〜?」
「どーだか。こんなギャルがちゃんとした先輩って認識されるかよ」
「冗談。あたしギャルとか好きじゃないのよ」
はんっと鼻で笑う井上。
原が話を俺に振った。
「でも三浦先輩も思いません? 男子でここまで仲良いのって初めて見た。ニコイチ? みたいな」
「別に、人それぞれだからな。ていうか俺の周りは多かったよ、いっつも二人とか三人で一緒にいる奴ら」
「あー、じゃあ私が出会ってなかっただけかもしれないですねー」
「てか、にゃんこに普通を求めること自体間違ってたかも」
「ちょ、井上先輩、それは流石に酷すぎですよ」
「あれま、片割れがなんか騒いでるわ」
「片割れってなんですか!?」
篠本が井上にツッコんだ時、ずしっと俺の肩に重みが掛かった。
「ぐっ……」
「おーいお前ら、早く教室出ろよー」
木野だ。
「……あんたは毎回毎回…っていうか重い……!!」
「木野先生ー、あと三口だけ待ってー。食べ切っちゃうからー」
「早くしろよ」
「ありがときのてんてー! よしあと十口!」
「誤差の範囲内を大幅に超えてやがる!」
何かと図太い井上が結局パンの残りをまさかの二口で食べ切り、原と話しながら出て行く。続いて退出しようとした篠本を呼び止めた。
「篠本」
「……なんですか」
「言いたくないことは、わざわざ言わなくてもいいと、思うよ」
「……」
篠本は驚いたように俺を見つめたが、すぐにぺこりと頭を下げる。
「……ありがとう、ございます」
「うん」
篠本がその場を去った。
「………で、あんたはなんでいつまでもそうしてんだ」
「んー?」
木野はずっと俺にのしかかっている。
「愛しいハニーに、会いたくて……かな」
「……」
「うそうそごめん待ってジョークだから待って殴らないで」
無言で腕に力を込めた俺に勘付いたか、木野がさっと俺の上から退く。
「……殴る絶好のチャンスが……」
「お前は常日頃何を思ってるんだよ」
木野がため息を吐いて、「業務連絡だ」と言う。
「さっき確認取ったんだが、今日は居残り出来ないんだそうだ。後でみんなに伝えとけ」
「あ、了解です」
「……優しいんだな」
にやっと笑う木野の言葉を、ムカつくことに正確に理解する。
「……別に。あれも大事な後輩だし」
「あれって。ひでぇの」
木野が楽しげに含み笑いする。
さっきの篠本のことだ。冗談で掛けられた言葉に、彼はおそらく、否定を返そうとしていたのだろう。
そんなことする訳ない、って。
付き合うなんてあり得ない、って。
宮田との関係を護るために、篠本はそうやって、自分の心を殺そうとしていた。
「少女漫画じゃあるまいし、あれを聞いた宮田が勘違いして〜って流れとかにはなんねぇだろ」
「そういうんじゃないし。むしろよく出たねその発想」
「冗談だよ。でも別に、」
「わかってるよ。別に止めなくても問題はなかった」
実際、少しお節介が過ぎたかなって自分でも思う。けど。
「けどさ……やっぱり、辛いよ。嘘でもそんなこと、言うのは」
そして、怖い。自分たちの関係は世の中に受け入れられるようなものじゃないって思い知らされるのが。嘘をつかなければ許してもらえない世界で生きていかなきゃいけないって突きつけられるのが。
「……へぇ」
いつの間にか俯いていたらしい。視線を上げると、木野がニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべていた。
「可愛いこと言うじゃん、ハル」
「…やっぱ前言撤回、ていうか勘違いするなよ。別に俺はあいつらの話をしているだけであって、」
「その割には結構感情込もってたけどなぁ」
「気のせいだ」
「はいはい、ツンデレツンデレ、照れ隠し〜」
「この…っ!」
俺が怒鳴る前に木野はさっさと教室を出ていった。残された俺は勢いを削がれて少し呆然とした後、諦めて自分の教室へ戻る。いいよ、木野の軽口はもはや天災みたいなもんだよ。いちいち突っ込んで止めようとしても無駄だ。教室の電気をパチンと消すと、くすんだ冬の太陽光が空間を満たす。
後輩の中でも篠本と宮田を特に可愛がっている自覚はあった。二人とも一年の中ではバドも上手いし、なんだかんだで真面目だし、でもそれよりも。彼らの関係が変わらないことを願っている。親近感とかじゃない。それよりもっと酷い。重ねてるんだ、あいつらと俺らとを。自分たちが終わってしまうのを恐れて、あいつらが終わらないようにそれとなく気をかける。エゴもいいところだ。それともこんな醜い面でさえ、木野はまた可愛いとほざくのだろうか。
窓の外を雪がちらつく。この冬二度目の雪だった。
*
今年は暖冬らしい。豪雪地帯とは言えないまでも、雪が積もったまま溶けないことが多いここで、一週間置き程度に降っては溶け、降っては溶けってするのは珍しいように思う。それとも、暖冬という言葉がそう思わせるのか。記憶は時に非常に曖昧で、俺はもはや去年までの冬の日常を正確には覚えていない。
3度目の雪が外を舞っている。刺すような寒さの朝は、現実に夢を持ち込めないようなどこか無機質な明瞭さを感じる。どこに行っても空間に冷気が満ちていて、それはこの部室棟にも。吐いたため息は白く掻き消える。
かちゃり、と控えめにドアノブを回す音がして、俺は振り返った。薄く開いたドアから覗いたのは、一瞬予想した姿ではない。我が後輩、宮田仁衣奈だ。
「おは……あ、なんだ三浦先輩か」
少し硬めでおとなしめの、いわゆる「余所行き」の表情をしていた宮田が、俺の顔を見た瞬間緊張を崩す。懐かれてることを喜ぶべきなのかもしれないけど、どことなく失礼な奴である。
ため息に、知らず期待していたことへの落胆を隠した。
「おはよう。挨拶がまだ途中な気がするんだけど?」
「あっすいません。おはよーございます」
緩めの語調でわざわざ頭を下げる宮田。つられて俺も頭を下げる。
「はい、おはよ」
「先輩、何してるんですか? ダメもとで来たら部室開いててびっくりしたんですよ」
「あー…、うん。ちゃんと話すと5分かかるよ」
「5秒にまとめてください」
「雪かきしようとしたら木野先生に止められた」
「面白そうなので話してください」
宮田の目が好奇心に輝く。そんな大した話でもないんだけど。
昨日の夜から降っている雪は道路に10cmほど積もっていた。こういう時、運動部が校門やらなんやらで雪かきをしていることが多い。主に野球部、サッカー部、バスケ部。たまにテニス部。音楽室のある音楽棟付近は合唱部と吹奏楽部(運動部じゃないだろ、というツッコミはしてはいけない)。しかし我らがバドミントン部にはその伝統がないのだ。ないならないでいいけど、やったらやったで株は上がるだろう。いい印象はあるに越したことはない。というわけで、俺は部長として、雪かきをしようとしたのだが。
「先輩っ、ダメですよ! 風邪引いたらどうするんですか!」
「……木野先生にも同じこと言われてさ、」
曰く、
『はぁ!? 雪かき!? やめろ、そんな重労働するな! しかもこんな寒い中! 風邪引いたらどうすんだ! 簡単には引かないって……ちょっとでも引きそうなことするなって言ってんだよ! とにかくやめろ! 部活の株? 気にすんなどうせそこまで誰も考えねぇよ! どうしても気になるなら、俺がやってやるから!!』
一字一句違えず再現すると、宮田がなんとも言えない表情をした。
「…だから木野先生雪かきしてたんだ……」
どうやら本当に俺の代わりにやってくれているらしい。
「本当の馬鹿らしいな、あの人」
「ひ、否定出来ない……」
「それで、荷物は部室に置いてってたから取りに来たの。まぁ置いた後で木野先生に止められたから無駄足になったけど……これで納得した?」
「しました。あとすいません」
「何?」
「木野先生じゃなかったから」
予想外の言葉に軽く目を見張ったが、宮田はもう俺から視線を外していた。
自分にあてがわれたロッカーを開く小柄な後輩の後ろ姿を見て、小さく息をつく。
猫みたいな奴。宮田はよくそう形容される。世間一般で言うツンデレとかそういう訳じゃないんだけど、なぜだかそう言われるのだ。たとえば内弁慶なところとか、ちょっと眦が上がった大きくて丸い目とか、気が移りやすいところとか。そう、なんというか、イエネコそのものだ。そういうところが猫好きの篠本の琴線に触れたのかどうかは俺には分からないけど。
宮田はロッカーから何かを取り出したみたいだった。「あった……」と少し嬉しそうに呟いた彼が気になって、そっと近づき、背後から声をかけた。
「それなに?」
「うわひゃんっっ!」
俺が発声した瞬間に宮田が奇声を上げて飛び跳ね、一瞬で2メートル近く距離を開けられた。てか、移動が早すぎて見えなかったんだけど。
あーなんか、こういうの見たことある。テレビでやってた、飼い主の突然の大声に驚いて飛び上がった猫。あれだ。
「……悪い」
「せ、せせせせ先輩、びびびっくり、」
「うん悪い、俺が悪かったから、とりあえず落ち着こう」
宮田が脱力したように肩を下げる。
「もぉ、先輩ぃ……」
「ごめんって。で、それ何?」
「これですか?」
宮田が俺に掲げたのは、飴の袋だった。
「飴?」
「はい」
嬉しそうに笑う。
コンビニでも売ってそうな、ただの飴の詰め合わせだ。わざわざ部室に取りに戻るようなものでもないと思うんだけど……。
「これね、いちが買ってくれたんです」
はにかみながらの宮田の言葉で得心した。いち……壱は篠本の下の名前だ。そういえば最近……具体的に言えば宮田と篠本が付き合い始めたぐらいの時期から、宮田が飴を舐めている姿をよく見かけるようになったような気が。
「飴、好きなのか」
「えと……あんまり」
「おい」
てっきり彼氏が彼氏に好きなものを買ってやっている構図かと思ったら、期待を裏切ってきやがった。これだから宮田は……。
しかし、次にそっと付け加えられた言葉の方が、よほど俺の予想を裏切ったと言える。
「でもこれが目に見えるあいつの愛情だから」
聞き返すことも忘れた。宮田は苦しげにするでもなく、ただ笑っている。
「これを貰えなくなったら、それが引導かなって」
気ままそうな宮田に似つかわしくない意味をはらんだ台詞だった。
「……宮田それさ、立場が低い方の台詞だよ」
「でしょうね」
「逆じゃない?」
「そうかもしれません」
宮田はやはり静かに笑っていた。
「告白もあっちからだし、振り回してる自覚だってあるし、最後通牒は僕が出すべきなんだろうなぁ」
それでも、と宮田は続けた。
「僕だってなんの犠牲もなくいちのこと好きでいる訳じゃないんですよ? 本当は僕だって、振り回されてるし、怖いもん」
冗談めかして微笑んでいる不自然さが逆に、それが本心であると告げている。
「……篠本も、知らないところで願掛けられてて大変だね」
「気まぐれに飴買うの辞めやがったら泣いてやるんで。それに腑甲斐無いけど甲斐性あるから、うちのカレシ。なんとなく気付いてくれてますよきっと」
ニシシッと笑う姿はいつもの宮田に戻っていた。俺はため息をつく。
「珍しく宮田の方が健気に惚気けると思ったら、結局にゃんこか……」
「あっ先輩まで猫って言わないで下さいよぉ。僕の猫嫌い知ってるでしょ?」
「猫に似てる自覚もあるんでしょ?」
「そーですけど。あっでも僕も、今日は意外でした!」
「何が?」
「珍しく先輩が恋人のために頑張ろうとしてたから!」
にんまりとチェシャ猫じみた笑顔を向けられて、告げられた言葉の意味を理解し、軽い眩暈で額を押さえた。
いつだ……いつバレた! 多分こいつは冬の初めには気が付いてなかったはず……!
「あ、いちが教えてくれたんです」
続けて落とされたさらなる爆弾に俺は見事に被弾した。
「てゆーか、前までなら僕も流石にいちが恋人だってバレるような発言しません。いちが『あの人たち気が付いてるはずだし、こうなったらフェアにいかないと』って」
くそ……篠本め! ああ、あいつが恋にもだもだしてる間『不器用だなぁ』と優しく見守っていた自分が馬鹿だった! そうだ、あいつは恋愛経験無いだけで、無駄に頭も良くてえげつない人間だったんだ!
「それにしても先輩も可愛いですねぇ。そりゃいくら副顧問とはいえ、受け持ちの部活が雪かきやってなかったら印象悪いですもんねぇ。それに木野先生ってまだまだ新人だし、まわりの評価も気になるところですから。結局自分で雪かきしてますけどあの人」
くっ……宮田が完全に先輩をいじるモードに入ってる……! 『あくまで部活のためだ』って言い張ればいいところなんだけど、顔が赤くなった今否定したってもう遅い!
「別にっ! あ、あいつの評価次第でうちの部活の印象も変わるしっ!」
「……なんか僕にはない猫みを感じます。ツンデレな感じの」
「うるさいっ!」
ああ、顔が熱い! 顔を背けたままでいると、宮田がニコニコしたまま静かに話しかけてくる。
「先輩って基本優しいですもんね」
「は?」
「いちに聞きました。いらないこと言うの止めてくれたって」
少し考えて、前のミーティングのことだと思い出す。
「別に……あれは……ちょっとしたおせっかいっていうか……」
「それでも助かりました。って、いちも言ってました。だから、ありがとうございます」
それも言おうと思ってたんで、と宮田はぺこりと頭を下げる。
「いいよ、俺も、自分に重ねちゃっただけだから」
「そこでちゃんと行動に移せるのが凄いんですよ」
屈託のない笑顔が向けられる。いろいろ考えてしまっていたけれど……やはり、可愛い後輩たちだ。
「じゃあ先輩、僕もう行きますね」
そう言って宮田が部室の扉を開ける。そろそろ朝の予鈴が鳴る時間だ。俺もそろそろ行かなければ、と荷物を背負ったところで、宮田が「あ」と声を上げた。
「先輩」
「何?」
「おせっかいのお返しです」
にっこりと……どことなくチェシャ猫じみた笑みに、嫌な予感が走る。
宮田は……ちょんちょんと、自分の左の首筋を指した。
「おっきな虫に食われてますよ」
二秒遅れてその意味に至った俺は、自分の首筋を押さえて膝からくずおれた。「ではでは〜」と宮田が部室を出ていく。おいこら待て! いややっぱ待つな! 相反する気持ちを抱え、一瞬にして赤くなったであろう顔を両手で覆う。
記憶を探れば、確かに昨日のあれやこれやの中に問題の箇所で印を付けられたような場面がある。いつも付けるなって言ってるのに……! 人が抵抗しないのをいいことにあの馬鹿は!
これは明らかに所有の印じゃなくて、俺を恥ずかしがらせるためだけの仕掛けだ。それをまんまと発動させてしまった宮田も宮田だし……いや待て、宮田も確信犯じゃないか? 篠本に仕込まれた情報をこれ以上ないタイミングで発動させた件もある。天然を装ってとんだじゃじゃ馬だよ、宮田!
「あああ……」
どうりで今朝さりげなく木野がタートルネックを投げてきたわけだ。そこで気付くべきだった。しかし宮田が普通に見つけたということはキスマークは亀の首の襞に隠れきっていない。最悪だ。
冬の空気が熱くなった頬を撫でてクールダウンを促す。だがそんなことできそうにない俺は、今頃雪かきに汗を流しているだろう恋人へ、万感の思いを込めて叫んだ。
あの野郎!
前に書いたキモイやつらのアナザーストーリーでした。一年くらい前に書き始めて放置してたやつを完成させたものです。着地点を一年間忘れなかった自分を褒めています。