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交渉の結果、あの男もといマスターの喫茶店で私はアルバイトをすることになった。
あれから医者を呼び、薬を飲ませ、暖房を切らすことなく面倒をみてくれたのだ。ついでに風呂まで借りてしまった。──おかげで弟の熱は一晩で下がり、大事には至らなかった。
ここまでしてもらったのにありがとうの一言だけを置いて帰れるほど、私の心臓は強くなかった。
フェリーチェのお客様はやはりほとんどが女性だった。それを意識してか、制服はアンティークピンクのかわいらしいメイド服だった。弟はマスターとおそろいの執事服を着て、店の奥でかしこまっている。──ありがたいことに、弟もつれてきていいという話になったのだ。
そろそろ開店の時間だろうかと時計を見上げたとき、カランカランと鳥の形を模したドアベルが来客を告げた。
「いらっしゃいませ」
「あらあなた、新しいバイトの子?」
高そうなドレスをまとった少しきつい顔立ちの美人が、こちらをにらむようにしてそう言った。どこぞの上級貴族のご令嬢だろうか? 外には侍女と護衛らしき2つの影が見える。
「はい、アリスと申します。あの、お席はどちらにいたしましょうか?」
開店直後なので、どこでもどうぞという状態だ。
「カウンターがいいわ。ああ、案内は結構よ」
女性は手を上げて私を止めるとすたすたとカウンターへ近寄り、両手をついて厨房をのぞきこんだ。ああ、あとであそこを拭いておかないと。
「ねえ、アーロン。新しいバイトの子が入ったのなら、学校に来られるわよね?」
マスターのご学友かしら? 邪魔をしては悪いと思ったので、私はテラス席のテーブルを拭きに行くことにした。
カラカラカランとやや乱暴にドアが開けられる音と、怒鳴り合うような声が聞こえてきた。
「ボクはボクのやりたいようにやるだけだよ、キャロライン嬢」
「私は諦めないわ、アーロン。何度だってここに来るんだから」
冬の朝の住宅街には、彼らの声がとてもよく響く。止めたほうがいいのだろうかとそれとなく近づいたまでは良かったが、2人の事情も関係も身分もよく分からないので何と声をかけていいのか分からなかった。
侍女や護衛らしき2人と一緒におろおろしていると、こちらに気づかれたみたい。
「ねえ、バイトさん。アーロンは、いえ学生は学校へ通うべきだと思わない?」
「えっと、あの、私にはよく分かりません」
いきなりバトンを投げられても困る。私は学校には通ったことがない。通おうと思ったこともない。……授業料が高すぎるのだ。少なくとも、正式には認知されていない子爵令嬢が払えるような金額ではなかった。
「そうよね、その若さで学校に行かずに働いているんですもの。アーロンの才能には気づけないわよね」
「キャロライン嬢、うちの従業員をけなすのはやめてくれないか?」
マスターがご令嬢の腕を引いた。
「あら、情熱的ね。熱いキスでも交わしてくれるのかしら?」
ここにいても何もできない、むしろ邪魔だと判断した私は、弟がいるであろう店の奥へと引っ込むことにした。
弟は予想どおり店の奥にいた。ソファに座って緑色のリボンをつけたクマのぬいぐるみをひざの上に抱えて、見つめ合っていた。その様子はとてもかわいらしいのだけれど、
「あらクリス、それはお店の備品でしょう? どうやって持ち出したの?」
店の棚に飾ってあった4体のうちの1体だと気づいた私は、どうやったら無理なく取り上げられるか考える。
「お兄ちゃん、が、くれた」
「お兄ちゃん? お兄ちゃんって、もしかしてマスターのこと?」
弟がうなづく。
「そう」
弟が嘘を言っているとは思わないけれど、ぬいぐるみは決して安いものではない。そっと頭をなでてみるととてもいい手触りで、これはその中でもきっと高いのだと思う。手入れもきっと大変だろう。弟にはかわいそうだけれど、マスターにお返しした方がいいと私は思った。
カランカランと音が鳴った。
「いらっしゃ……あ、マスター」
「さわがしくして悪かったね」
「いえ」
あのご令嬢は帰ったのだろうか? ドアの向こうには影がない。……いえ、それよりも今は、ぬいぐるみだ。
「あの、マスター、あのぬいぐるみは?」
私は弟の方を示しながら、できる限り声をひそめて訊いてみた。
「ああ、あの子は来須だよ。……いらっしゃいませー」
マスターはそれだけ言うと、仕事に戻ってしまった。いえ、ぬいぐるみの名前が訊きたかったわけではと思ったけれども、今は仕事の時間。
「いらっしゃいませ」
私は来店されたばかりのお客様の方へと歩いていった。
「今日も1日、ご苦労様でした」
マスターが店を閉める準備を終えて、タイを外した。
この店はまわりと比べて開店時間が早いが閉店時間も早い。とはいえ冬の空は午後4時すぎにはとっぷりと暗くなってしまうのだが。
「おつかれさまでした。……あの、マスター。弟がぬいぐるみをお借りしたようで、あの、ありがとうございました」
店の奥で眠ってしまったらしい弟を見て、ふっとマスターが笑った。
「君が気にすることはないよ。あれはボクが渡した……そう、ご褒美のようなものかな」
「ご褒美ですか?」
「ああ。まるで天使のような愛らしさだと評判でね、また遊びに来てもらうために色々と用意してみたんだ」
弟のまわりにはよく見ると、店で遊んでも邪魔にならないような玩具や絵本がいくつも置いてあった。そしてそのどれもが、赤の他人に気軽にくれてやれるようなものではなかった。