溺れる紫
また今日も、わたしの右目からは紫色の花が零れ落ちる。
人の現れない深い深い森の奥。そこにわたしはいた。
聞こえるのは獣の声や風が木々の葉を鳴らす音だけで。見えるのは一日を過ごす簡素な小屋の板の壁、自分が腰を下ろしている筵、そして唐突に、前振りもなく『右目から溢れてくる』花だけで。
暗くて、冷たくて、他には何にもない。
扉は固く閉ざされている。鍵もかけられているらしい。だけどわたしにはそもそも此処から出るつもりはなかった。無意味にそんな労力を使うのも面倒臭い。
唯一外界との繋がりがあるのは、扉の下に取り付けられた小さな扉だった。通り抜けられるのはきっと仔犬や猫ぐらいのものだろう。普段はそこも厳重に施錠されているようだが、日に二度、決められた時間に食事が外から差し出される。着るものも定期的に同じ口から与えられた。至れり尽くせり。これ以上何を望むというのか。
食事時に陽光が差し込むか否かで、わたしは今が朝であるのか夜であるのかを確認していた。しかし何度目の朝であるのか、もう判別はできない。最初の頃には数えていたけれど、今ではもうやめてしまった。
その上、思考は、無意味だ。考えることなどやめてしまえばいいと囁くもう一人がいて、わたしはそれに従おうとする。だがはらとまた小さな花が右の目から舞い散って、手のひらに落ちる。
――おまえのその病が皆に移っては大変なのだ。分かっておくれ。
とうさま、と呼ぼうとした声は、喉の奥に詰まった。焼き付いて、形にはならない。
じんわりと胸が痛む。この痛みは何だったか。
――寂しいの?
ああそうか。これは、『さびしい』という名前がつくのか。この感情はまだ、消えていなかったのか。感心しながら、ほっと胸を撫で下ろしもする。それすら無意味なのに。
それにしても、この声は誰だったか思い出せない。同じ人物が顔を伏せ、懸命に目から落ちていくものを拭っている様子が脳裏にくっきりと浮かび上がるのに、どうしてそのようなことをしているのかが分からない。男なのか、女なのかも。
――どうして泣くの?
――悲しいからに決まってるじゃないか。
己とその人物とのやり取りで、雫を頬に伝わり落ちさせるあの行為は『なく』というもので、それは『かなしい』からだと思い出すことができた。
せっかく思い出すことができても、どうせすぐに分からなくなってしまうけれど。
周囲に目を向ければ、無数に積もった小さな花が圧倒的な存在感をわたしに示す。暗いのに紫だとはっきり分かるほどに堆積しているこれらは、総て私が生んだもの。
こうして花が落ちるたび、わたしの中から少しずつ少しずつ、『感情』と呼ばれるものが消えていった。
最初は『よろこび』。それが完全に消えたら、次には『いかり』。その次は『かなしみ』、『たのしみ』。そのほかにも、きっとたくさん消えただろうけど、自分の中で消えてしまったものの名前を覚えておくのは難しい。だから次々に忘れてしまった。その感情に彩られている記憶も一緒に。
――怖くてもいいんだよ。
こうして唐突に、彼だか彼女だかも分からない人物をふと思い出すとき、感情の名前も共に思い出して、また忘れる。記憶も感情も。それに対して何かしらを思うはずのものも消えてしまって。そのうちきっと、わたしはわたしであることを忘れてしまうのだろう。
それにしても、『こわい』というのはどういう感情だったか。ああ、分からない、分からないよ。
――どうして! どうして君は諦めてしまうの!! 簡単に手放してしまうの!!
どうしてそんなに『ないて』いるの、と、むしろこちらが訊きたい。
あの人は、誰なのだろう。
分からない。わたしには、もう、分からない。
その時、ふと、右目からではなく、左の目から何かが零れ落ちた。
「あれ……?」
そっと触れれば、冷たさを悟る。
これは、これは、何。
――悲しいから泣くんだよ。涙は、何もかもを浄化してくれるんだよ。
「――なみ、だ……」
涙。これは涙だ、と繰り返した。自らに刻み付けるように、ばらばらと降り注ぐものを、しかし決して『紫色の花』ではないものを手のひらで受け止めながら。
「あなたはだあれ? ……教えて、教えてよ……」
こうして思い出すのに、また忘れてしまう。感情がひとつ消えるたびに、朧ろになってしまう。
会いたい。会わせてほしい。現れてほしい。
私が総てを忘れてしまう前に。君の名を思い出したいという感情すら、消えてしまう前に。