05 月と瓦礫は交わらない
ツユキとヤクモが一つの約束を交わしていた頃、建物の内部は騒がしかった。
懇願するような少年の声が壁に反響し、大きく響き渡る。
「ごめんなさいっ、ごめんなさい。違う、ねえ、痛──っ」
血が止まるのではないかと思う程の力で腕を掴まれ、少年はずるずると引きずられていた。相手の歩幅などまるで無視して進むレキのせいで、足下がもつれる。始めは申し訳程度に抵抗してみたユヅキだったが、結局それも諦めた。
そんな彼らを、物陰から楽しそうに覗き見る女性達の視線から逃げるように、少年はそっと目を閉じる。
部屋に戻ったかと思えば、レキはふいに手を離し、代わりにユヅキの胸ぐらを掴んだ。「あ、まずい」と思ったときにはすでに手遅れで、細く軽い身体は容易くベッドの上に投げつけられた。ベッドとはいえそれほど柔らかいものではない。背中から落ちたユヅキはその瞬間息が詰まった。
けれど息を吸い込む間もなく髪を鷲掴まれ、顔を引き上げられる。
「お前ふざけてんじゃねぇよ。出るなって言っただろ。逃げようとでも思ったのか?」
刺すような視線がユヅキを見据え、恐ろしく低い声に身体の芯が震えた。
違うと首を横に振るが、その行為は掴まれた髪のせいであまり意味をなさなかった。かわりに喘ぐように口を開けて、必死に声を絞り出す。
「違う……っ、逃げたりなんかしない、だから──」
浮かぶ顔は、黒髪の彼。
「アゲハには──っ」
「その名前を出すな……っ!」
ユヅキの顔をかすめるように、レキの拳が振り下ろされた。その拳は激しい音を立ててベッドを突き抜けた。ほんの傍らで爆発した激しい怒りに、ユヅキの身体は恐怖に竦む。
とどめは爆ぜるような行動とは反対に、冷たい言葉で振り下ろされた。
「お前が逃げなきゃ何もしない」
この言葉は、ユヅキの心を容赦なく斬りつける。
レキが自分を傍に置いておくのは、アゲハに対する当て付けと丁度いい人質なのだ。ユヅキがここにいればアゲハは決してレキに手を出すことはないのだから。
──でも、じゃあもし、もしもアゲハに見捨てられてしまったら?
頭の片隅で、弱い自分が囁いた。そうしたらきっと、レキにとっても用済みだ。
所詮、自分などその程度の存在にすぎない。
暴力とは違う恐怖に身体が震えた。普段考えないようにと押し込めていたところへ思考は行き着いてしまい、少年の背筋にじわりと汗が滲む。
そんなのは嫌だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
きっと自分は、この男に惹かれているのだとユヅキは思う。
なぜなら、外見からは想像できないけれど触れると柔らかい髪の毛や、実は少し可愛い寝顔を愛しいと思ってしまう自分がいるのだから。
だからアゲハごめんなさい。
もう一度会いたいけれど、ここを離れたくないと思ってしまってごめんなさい。こんな想いを抱いてしまってごめんなさい。
謝罪の言葉は止まることなく零れ落ちた。
*****
少年の口から出てきた名前は、男の逆鱗に触れた。
「アゲハには──っ」
『アゲハには、何もしないで』
今にも泣き出しそうな顔で懇願するユヅキの態度が、レキにとっては無性に腹立たしかった。
「その名前を出すな……っ!」
爆ぜた激情に任せて振り下ろした拳は、激しい音を立ててベッドを突き抜けた。怯んだユヅキの瞳が恐怖に揺れる。
ユヅキがここにいるのはアゲハのためだ。
そして、そう仕向けたのは他でもないレキ自身。
アゲハに相手が出来たと言っていたヤクモの声が、レキの頭をよぎった。
いっそのこと、あいつはお前なんか見捨てて女を作って上に来る気だ。と言い放ってしまいたい衝動に駆られる。しかしそれを言ってしまえば、きっとこの少年は自分の元を離れるだろう。
レキにとってはあんな弟など嫌悪感の塊の様な存在だが、ユヅキを自分の元に留めているのは紛れもないそのアゲハに他ならないのだ。
「お前が逃げなきゃ何もしない」
そう言わなければ繋ぎ止めることができない。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
返される言葉は延々と繰り返される謝罪だけだった。そして、その姿は余計にレキの怒りを増すだけでもあった。
ユヅキが許しを請うのは、アゲハの為なのだ。アゲハを傷つけないでくれと。レキにとってユヅキの「ごめんなさい」は、自分に対する拒絶の言葉にしか聞こえなかった。
「……それで、どこへ行ってた」
内に渦巻く感情など微塵も感じさせない声で、レキはユヅキを問い詰める。
すると少年の身体はびくりと強張った。顔を覆っていた指の隙間から、恐る恐るといった様子で再び瞳を覗かせる。
威嚇するように鋭い目を向ければ、下手に隠しても無駄だと悟ったのだろう。ユヅキは観念したように小さな声で言葉を紡いだ。
「窓から、迷子が見えたから」
「………は? 迷子?」
「う、うん。放っておいたら危ないと思──っ」
もはや最後まで聞く余裕もなかった。
言葉の途中でレキの動きに気付いた少年は、とっさに歯を食いしばり目を瞑る。直後、鈍い音が部屋に響いた。
ユヅキの頬は、レキの拳で殴られた。
「──……っ!」
「本当に、ふざけんなっ」
告げられた言い分は、レキにとってあまりにくだらない理由だった。髪を掴む左手に力を込めるとユヅキの顔が尚も痛みに歪む。
「窓も塞いでやろうか」
「や、嫌だ……っ。お願い、もう勝手なことしないから」
残る窓も塞げば、ユヅキと外界を繋ぐものはなくなるだろう。
けれど、どうやらそれは嫌らしい。
瞳に怯えを浮かべながらも必死に訴えてくるその姿が、やはりこの少年の拒絶の意に思えてレキは自嘲するように息を吐く。
「だったら大人しくしてろよ」
吐き捨てるように告げ鷲掴んでいた髪から手を離すと、そのまま怯える目を遮るようにユヅキの目元を覆った。
息を呑んだ少年に構わず衣服を剥ぎ取れば、見慣れた肌が現れる。
外気に触れたユヅキの胸には──何も印がない。
*****
その日はカレンが仕事場へ着くと同時に、仕事仲間の女性が慌てて駆け寄ってきた。
彼女の仕事場は人々の胸に印を刻む店である。
さほど大きくはない木造建築の一階がその仕事場だった。どうやら彼女は従業員用の裏口でカレンが来るのを今か今かと気を揉んでいたらしい。
「良かった、待ってたのよ!」
「何? どうかしたの?」
あまりに慌てた様子で迫られて、さすがのカレンも気圧された。思わず半歩後ろに下がったけれど、同じだけ彼女も身を乗り出してくる。
「また来てるのよ。あなたを指名してる」
告げられた言葉に、カレンは自分の顔があまりの嫌悪に歪むのが分かった。
「また? 嫌よ、たまには他の人で我慢してもらって」
「気持ちはわかるけれど無理よ。本当に申し訳ないけど、あの人の相手は他の子じゃ無理だわ。それに本人がどうしてもカレンを連れて来いって言ってて……」
「………分かった」
気は進まなかったが、他の子にあんな奴の相手をさせるのも確かに酷だった。カレンは渋々ながらも了承して裏口をくぐる。
最近彼女の仕事が忙しいのは、これが原因でもあった。
「……いらっしゃい」
偉そうにイスに座り足を組んだ男を見れば、声はいかにも不機嫌そうに低くなってしまう。
「遅い。俺は客だぜ?」
そんな嫌味にも全く動じる事なく笑う、銀髪の男。カレンの口からは思わずため息が零れた。
「向こう岸にも店はあるでしょう? ……カイ」
「はっ、違うね。俺はカレンに会いに来てんだよ。つーことで今日もよろしくな」
馬鹿にしたように笑ったかと思えば、男は自分の足元に蹲っている少女を足で差し示した。薄汚れてしまった少女の姿を見れば、無理矢理襲って連れて来たのは明らかだ。その証拠に、華奢な身体が小刻みに震えている。
そして、この少女に今から自分の印を刻めと、彼はそう言っているのだ。
カレンはこの男が心底嫌いだった。
しかし、なぜかカイは印を刻むときには毎回向こう岸からここまで足を運び、カレンを指名する。それが頻繁なために、最近彼女は仕事場に入り浸りとなっていた。
おかげで近頃ナルミの機嫌が悪い。彼が拗ねるととても面倒臭いというのに。
「私は会いたくないわよ」
「つれねーなー。でも今日ここに来たのはついでだぜ」
「ついで?」
「そ。まあ……ちょっと野暮用でな」
わざとなのか、何か意味を含ませたように口の端を上げるカイの笑い方は、どこか歪んでしまっているようにカレンには感じられられた。
カレンはこの男と──この笑顔が大嫌いだった。




