コーラ?
T君がまだ幼かった頃、母方の伯父夫婦がよく家に来ていた。
伯父夫婦には子供がいなくて、T君と四つ年下の妹はよく可愛がられていた。
伯父さんはお酒が好きで、豪快によく笑う人だったという印象をT君はおぼろげに持っている。
しかし、妹が小学生に入学した頃から、徐々に付き合いが乏しくなり、正月や盆に顔を合わせる程度になっていた。
そして、T君が中学に上がる頃には完全に疎遠になっていた。
それとなく、T君は何度か両親に伯父夫婦のことを聞いてみたが、曖昧な言葉が返って来るのみだった。
ある日、学校から帰ってきて、T君は自分の部屋で着替えると、塾に行く準備をして家を出ようとした。
玄関に向かっている時、ふとダイニングルームのテーブルに目がいった。
テーブルには黒い液体が注がれたグラスが置かれていた。
普段使わない大きなグラスだ。
それにたっぷりと注がれている。
父はまだ仕事から帰ってきていない。
母はT君と入れ違いでどこかへ外出していた。
急いで塾に行かなければならなかったが、興味を引かれて、T君はグラスを手に取ってみた。
「あ、お兄ちゃんなにそれ」
振り返ると、自分の部屋から出てきた妹が立っていた。
「知らない。お前が帰ってきた時から置いてあった?」
「ううん、気がつかなかった」
T君はグラスに鼻を近づけて匂いを嗅いでみた。
コーラの匂いがした。
「ねえお兄ちゃん。私にもそれちょっと見せて」
妹はそう言って手を差し出してきた。
物欲しそうなボーっとした顔だった。
「……やだね」
わずかに迷った後、T君はコーラを一気に飲み干した。
炭酸の抜けた、妙に苦い味だった。腹と喉が熱い。
「あっ」
非難がましい声をあげる妹を尻目に、T君は空になったグラスをテーブルに置くと家を出た。
T君は自転車に乗り、近所の塾へと急いだ。
立ち漕ぎで、かなりのスピードを出して路地を走っていると、五分とたたないうちに、頭がクラクラしだした。
頭が熱い。視界が回る。
体が斜めになった――と思った時は凄まじい勢いで転倒していた。
頭がアスファルトにぶつかり、T君は目を瞑った真っ黒な視界に火花が散った。
「おい!」
「大丈夫ッ?」
気がつくと、倒れた自分を中心に人だかりが出来ていた。
手や足を何カ所も擦り剥いて、頭がズキズキと痛んだ。
しばらくの間は立ち上がれなかった。
正直、泣きたかったが、何とか我慢して、周りの人に「大丈夫です」と言って立ち上がると、塾には行かず、家に戻った。
帰ってきた母親はT君の傷を見て大慌てで傷口に薬を塗り手当てしてくれた。
「明日、一応病院で検査してもうおうね」
と、心配そうに言う母に、そばにいた妹が、ものをねだるような口調で、テーブルにあったコーラのことを聞いた。
母親は「そんなの、置いた覚えはないわよ」と、怪訝な顔をして言った。
テーブルに置いたはずのグラスは無くなっていた。
その夜、親戚から電話がかかってきた。
伯父夫婦の訃報だった。
外食した帰り道に、交通事故で即死したとのことだった。
× × ×
そして、現在。
大学生になったT君は友達の家でどんちゃん騒ぎをやっていた。
生まれて初めての酒盛りである。
安物のウイスキーを買って、色んな飲み物で割って呑んでいた。
ある飲み物を口にした途端、T君は「アッ」と声をあげた。
それが、自転車で転けたあの日、飲んだものと同じ味わいだったからだ。
ウイスキーのコーラ割りである。
T君の両親は酒は一切飲まない。
おぼろげだった幼い記憶が蘇る。
伯父が家に来てお酒を呑んでいた時――。
当時、伯父が使っていたグラス、あの日テーブルに置かれていたグラスとそっくりじゃなかったか?
T君は、なぜ伯父夫婦との付き合いが無くなったのか、両親に時折聞いてみるのだが、いつもはぐらかされている。