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ハイケン2

 その日の授業が終わり、沙恵さえは文芸部の活動を早めに切り上げて下校した。


 他の文芸部員はちょっと物珍しそうな目で沙恵を見送っていた。大体いつも、沙恵が一番遅くまで文芸部の活動の場である図書室に残るグループだからだ。


 沙恵はずっと考えていた。昨日自分が見たあの灰色の動物。


 アレはなんなのか?

 小学校で噂になっている『ハイケン』なのだろうか?

 その事が気になって仕方がなかった。

 校門を出てからも沙恵の心には二つの気持ちがわだかまっていた。


 (もう一度昨日の散歩で行ったあの場所に行ってみたい)という気持ち。そして(怖いし危ないからあの場所には絶対に行きたくない。行かない方がいい)という気持ちである。


 沙恵の自宅は住宅地が立ち並ぶ丘の上にある学校から一気に坂を下っていく途中にある。その距離は徒歩で約十数分。今日はそこまでの道のりがずいぶん長く感じられた。


 見たい映画が二つあって、どちらにするか決めかねたまま映画館に足を運んでいるような心境だ……と沙恵は妙な事を思った。


 迷い、ハイケンに対する恐怖を感じながらも家の前を通り過ぎて、沙恵は小学校がある方向へ向かっていた。神社の前を行き、ミッキと一緒に通ったコースを忠実にたどる。


 そして沙恵はあの路地に入っていった。


 あの時とは雰囲気が全く違うことに沙恵は気づく。ミッキと一緒に目と肌で感じた、のっぺりとした灰色の色彩と冷たさが今はない。鞄の中から携帯を取り出す。

 時刻を見たが昨日と同じくらいの時間帯だ。灰色の生き物がいたゴミ集積所には鴉か猫に散らかされたのか昨日はなかった細かい生ゴミとビニール袋が散乱していた。


 昨日は人がまったくいなかったのに、今はまばらに人通りがある。拍子抜けした気分で沙恵はゴミ集積所に近づいていった。


 すると、昨日宅急便のトラックが入ってきたT字路の交差点から見知った顔が沙恵の視界に入ってきた。向こうも沙恵に気がつき、意外そうな顔をする。


「川中じゃないか」

 そう言ってこちらに近づいてきたのは三杉昇一みすぎ しょういちだった。


「三杉君。こんなとこで何してるの?」


「川中こそ何してるんだよ?」


 そう言いあって、お互いきまりの悪そうな顔する。

 沙恵の方は斉乃に「もしまたいたら危ないし、近づくのはよくない」と言ったし、三杉はハイケンの噂そのものを否定していたのだ。


「ハイケンを探しに来たの?」


 そう三杉に聞きながら、また自然と口調が詰問気味になってしまっていることに沙恵は内心舌打ちする。


「別に……いや、まあ、そういうことになるかな……川中こそどうしたんだよ?」


 そう三杉が言ったとき、強い風が吹いた。横から思いっきり吹き付けてくる強風に思わず顔をしかめる二人。


 風が止んだ後、太陽が厚い雲に隠れたように妙に辺りが暗くなったような気がした。沙恵は空を見上げた。


 今日は曇りだ。最初っから曇っている。なのに沙恵は日光が急に遮られたときに感じる寒さを感じていた。


 何かを言おうとして言おうとして沙恵は口を開きかけたが、閉口する 。

 三杉がまるっきりそっぽを向いていたからである。その顔は妙に真剣だった。


 彼の視線の先を沙恵はたどる。ゴミ集積所の、散らばっていたビニール袋や細かい埃が風の力で浮かび上がったいた。吹き飛ばされているのではなく、つむじ風によって巻き上げられ、グルグルと同じ場所に停滞して、回っているのだった。


 三杉はそれを見ていた。少なくとも沙恵にはそう見えた。

 突然ゴミ集積所の方へ歩き出す三杉。その後を沙恵はついて行く。


「ど、どうしたの?」


 三杉は答えない。彼がたどり着く前に、強い風が空高く渦巻いていたゴミを突き上げていく。三杉はそれを少しの間見上げ、そして今度は集積所のポリバケツをじっと見ている。


 沙恵は生ゴミから発する臭気に顔をしかめる。


 腐臭に混じって、あまり今まで嗅いだことがない……毛皮などに顔を埋めた時の臭いを何倍にも強めたような獣臭を感じた。


 口を半開きにして惚けているようにも見えるが目だけは妙に真剣な三杉に沙恵はなかなか声をかけづらかった。

 ややあって三杉は弾かれたように沙恵の方を見る。ほっと息をついて彼は言った。


「昨日は見えてたのに、今日は見えなかったの?」


「え?」


「灰色の生き物を見た時、犬の散歩中だったって言ってたよね?」


「う、うん」


「その時の状況を詳しく教えてくれないかな?」


 三杉のその言い回しをまるで異国の言葉のように沙恵は感じた。『その時の状況を教えて』なんてドラマの中の刑事とか言うセリフだ。


 沙恵が無言なので、三杉は「まあ……もし差し支えなければ、だけど」と付け加える。

 それを聞いて沙恵は苦笑いする。


「別に詳しく話すって程のものじゃないけど」


と最初に言って、沙恵は昨日の出来事を三杉に話した。

 飼い犬のミッキを散歩に連れて行ったこと。いつもよりコースを延長してこの路地まで来たこと。そして、異様に大きな犬に似た生き物を見たこと。ミッキの反応が異常だったこと……


 黙って沙恵の話を聞いていた三杉はおもむろに口を開いた。


「今日さ……ミッキを連れてまたここに来ないか?」


「きょ、今日?」


「うん」


「どうしてそこまでこだわるの? 『ハイケンなんていない』って、三杉君言ってたじゃない」


「いや、僕も見たから」


 沙恵は三杉をまじまじと見た。


「いつ?」


「……さっき、かな。知りたいんだよ。アレが何なのかを」

 

 沙恵が家に帰った時、時刻は十八時半を過ぎていた。沙恵は二階の自室で急いで私服に着替えると、ドタドタと階段を降りると、妙に嬉しそうな顔をしている母親が廊下で待ち受けていた。


「お母さん、ミッキの散歩行って来るね」


「ふ~ん。散歩ねぇ」


「ど、どうしたの? ニヤニヤして」


「外にいる男の子、誰なの?」


「クラスメイトの三杉君だけど……」


「へぇ~あんな子いたっけ?」


「ごめんお母さん。ちょっと急いでるから」


 まだ何か話しかけていた母を無視して沙恵は玄関の扉を開けた。


 昨日の散歩のコースを沙恵はたどりながらチラリチラリと横にいる三杉を見る。

 辺りはもう暗くなっている。


 三杉は沙恵の方を見ようとはせず、前を向いたままだ。

 沙恵もどちらかというと『必要なこと』以外で他人に話しかけるということをしないので、居心地の悪さを感じつつも無言のまま、坂を上がり神社の前を通り過ぎる。


 ミッキの短くて荒い息づかいだけが聞こえる。最初沙恵の腕を強く引っ張るくらいに先を進んでいたミッキだったが、あの高いコンクリート塀に囲まれた路地に近づくに連れて沙恵の方がミッキを引っ張らなければいかなくなった。明らかに灰色の生き物を見た方角をミッキは避けていた。


「ちょ、ちょっとミッキ。そっちじゃないってば!」


 沙恵が行こうとする方向の常に逆の道をミッキが選ぼうとするので、ついに沙恵は声を荒げて愛犬を叱った。


「クゥゥゥン……」


 心細そうなミッキの鳴き声に反応して、三杉が重い口を開いた。


「随分と嫌がってるみたいだね」


「昨日はこんなこと無かったんだけど……いつもはいい子なんだよ?」


「ふーん」


「……」


「……」


 神社の前を通り過ぎた時、ひんやりとした空気が前方から流れてきた。

 沙恵は持っている手綱が昨日のようにピンと張るのを感じる。


 ミッキはその場に伏せて消え入りそうな鳴き声をあげている。


 沙恵は暗やみに包まれている前方に一瞬、大きな黄色い目を見たような気がした。だが瞬きした次の瞬間には消えていた。

 その直後、突然三杉が何も言わずに走り出した。


「よ、三杉君?」


 沙恵は後を追おうとしたが、ミッキが石のように硬直して動かない。その合間にも三杉の後ろ姿はどんどん小さくなっていき、あの路地とは逆の方向へ曲がって坂を下っていった。


「……もう!」


 沙恵は近くのガードレールまで手綱を思いっきり引っ張ってミッキを連れてくるとその場に繋いで後を追おうとする

 キャンキャンキャンキャン!


 独り残されることに気づいたミッキが不安でたまらないといった鳴き声をあげる。

 何故か胸をまさぐられるような後ろめたい気持ちになった沙恵は叫ぶ。


「すぐ戻るから待っててね!」


 だがそんな言葉はなんの役に立たなかった。次第にミッキの鳴き声が狂気じみたものになってゆくのが何となく分かった。しかし、沙恵は三杉を追った。


 沙恵は三杉の後を追って角を曲がったがもう三杉の姿はどこにもなかった。人通りはなく、明滅する古い街灯だけが見える。

 その時、視覚ではなく、嗅覚が異変を察知する。強烈な獣臭によく似ている。犬も飼っているし、ペットショップによく冷やかしに行く沙恵には分かった。

 沙恵はその臭いの跡をたどって沙恵は坂を下っていった。


 そのうち舗装されてない道に入った。明かりがないので足下がおぼつかなくなる。

 目にしみるような獣臭になにやら焦げ臭い臭いも加わる。

 細い土砂道をなんとか抜けると、そこは丘の麓だった。遠くにビル群の明るい光が見える。比較的大きな街道の裏通りだ。


 確かここは……


 視線を巡らすと、数十メートル先のある建物の門の前で立ちつくしている三杉を見つける。何となく大きな声で呼びかけるのがはばかられて、彼の側まで小走りに近づく。


「三杉君、ここは?」


「保健所の裏門だよ」


 三杉は沙恵の方を振り返らずにじっと建物の敷地内を見ている。

 沙恵は息を呑んだ。

 敷地内にはたくさんの灰色の生き物がいた。その多くは犬に似た姿をしているがそうでないのもいた。

 暗闇に体の輪郭が溶け込んで、瞳孔のない黄色い大きな目だけが浮かび上がって見える。何匹もいる。スッと建物の壁を通り抜けてまた新たに灰色の生き物が増える。


(お、お化け!)


 反射的に沙恵は三杉の背後に身を隠し、彼の学生服の裾をギュッと掴む。


「大丈夫だよ」


 穏やかに三杉はそう言う。が、沙恵は取り乱した様子でその場に立ちすくむ。

 と、車のエンジン音が近づいてくる。

 のっぺりとしたデザインのどこにでもあるライトバンだ。保健所の裏門入ろうと曲がってきた。

 三杉は邪魔にならないように沙恵を引っ張るようにして脇による。

 ライトバンは門に頭を突っ込んだ状態で急に止まった。

 エンジン音が途絶えた。運転席の窓が開く。


「どうしたの? 保健所に何か用?」


 妙にやつれた声だと沙恵は思った。

 窓越しに話しかけてきたのは白っぽい作業服姿の中年の男だった。

 三杉は無言でいる。沙恵は何かを言いかけようとしながら保健所の敷地内を指さそうとする。だが途中で三杉に制される。


「うん?」


 ライトバンの運転手は保健所の敷地内を見渡す。車の強烈なヘッドライトを避けるようにして黄色い目は暗がりに身を潜めている。だがその視線はじっと沙恵と三杉を見つめていた。

 ややあって、何事もなかったように運転手は視線を沙恵達に戻す。


「君たち中学生?」


(見えていないの?)


「はい」


 三杉は答えた。


「保健所に用があるってわけじゃないようだね。こんな時間に何をしているんだい?」


「実は、犬の散歩してたんですが、手綱を振り切ってどこかに行っちゃって。探しているんですよ。あのう、おじさんは保健所の人?」


 淀みなく口から出任せを言ってのける三杉に沙恵は内心驚く。

 運転手は三杉の答えに微妙な顔をした。


「ああ。ここ最近、この近くで大きな犬が野放しになっているという噂が絶えないんだ。いくつか通報もあったし、もし本当なら危ないからね……こうして探してるんだがね。そうか。迷い犬を探しているのか……」


 疲れ切った声音で運転手は言った。

 そして、「もし大きな犬を見つけたら」といいながらエンジンをかける。


「保健所に連絡するようにね」


「はい」


 窓を閉める前に男は言った。


「飼い犬、早く見つかるといいねえ……野良犬なんかもそうだけどさ。迷い犬だって――いや、何でもない――野良犬の運命ってさ。想像以上に悲惨なものだよ」


 ライトバンは敷地の奥の駐車場の方へ行ってしまった。


「三杉君……あの灰色の生き物って……」


 三杉は答えず、裏門の側にあった小さな石碑を見つけてその前に立つ。


「野犬なんか見つかるはずがない」


 沙恵はじっと石に刻まれた碑文を見る。暗いので細かい字は見えないが、石碑が何のためにあるのかは分かった。


 それは保健所で薬殺された動物達のための、慰霊碑だった。


 キャンキャン!


 聞き慣れた鳴き声がするのでハッと沙恵は後ろを振り向いた。


「ミッキ! どうして?」


 ガードレールに繋いだはずのミッキは全力疾走で沙恵に飛びついた。尻餅を付きそうになる沙恵の背中を三杉が押さえた。

 思いっきり尻尾を振って甘えてくるミッキを沙恵は抱きしめた。

 ミッキは沙恵の顔をペロペロと舐める。

 三杉はしばしの間、沙恵とミッキを見つめていた。


「この子さ……」


 三杉の方を見ずに沙恵はミッキの頭を撫でながら言う。


「この保健所から引き取ってきたんだよね。年に一度しかない犬や猫の譲渡会の予約取って……」


 三杉は無言でもう一度保健所の敷地内を見つめてた。

 いつの間にか、ハイケン達は姿を消していた。

                                      

     ×   ×   ×


 

 中学を卒業し、高校に通うようになってからも、沙恵はミッキを連れて散歩に出かけているが、それ以来、ハイケンを見たことはない。


 だが、近頃の西陽台には不穏な空気が立ちこめているような気がする。

 どんな空気かといわれても沙恵にはそれを言い表せる言葉を持っていない。


 ただ、ハイケンを見た時と似ている。 


 晴天の日中でさえ時折感じる、雲が急に太陽を隠した時のような、胡乱な暗さと寒さ。

 見知った路地なのに、見知らぬ世界に踏み込んだような、錯覚。

 

 灰色の世界。


 そういったものを、街のいたるところで感じているような気がする。

 広がっているような気がする。

 濃くなっているような気がする。


 ふと、「三杉君なら何か知ってるんじゃないか」と、沙恵は思う。


 三杉昇一は沙恵と同じ西陽高校に通っている。クラスは違うが。


 やっと立ち上がったミッキと一緒に、沙恵は家路につきながら、ハヤタのことも考えていた。

 ミッキは、ハイケンの時と同じような反応をしてしまうが、あの白い犬に沙恵は悪い印象はない。

 

(今度、三杉君に会って色々話をしてみようか)


 うざったそうな、めんどくさそうな三杉昇一の顔を想像しながら、沙恵はくすりと笑った。(了)

おつかれさまでした。

このエピソードは以前あげていた短編を西陽台用に書き直した物です。


以前アップしていた方に感想をくださったダメ坊主さん。

このエピソードを書き直せたのは、ダメ坊主さんとの交流のおかげです。

ありがとうございます。

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