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ハイケン1




 ハヤタは、西陽台付近でいつのころからか目撃されている白い犬だ。

 首輪はされておらず、夕方から深夜にかけて、まるで街をパトロールしているかのように悠然と歩いている姿を見かけることができる。

 西陽台付近では有名な野良犬だった。

 黄昏時から深夜にかけて町内を徘徊しているらしく、小学生ぐらいの子供には人気で、ハヤタという名前で呼ばれている。


 何度か、保健所の職員や警察で捕獲を試みたことがあるらしいのだが、そういう時に限って姿が見えず、なかなか捕まえられないのだそうだ……。

 最近ではもう、付近の住民はハヤタが野放しで歩き回っているのを黙認しているのをほぼ黙認していた。


 どこから来てどこへ行くのか、昼間は何処にいるのか、全く分からない。謎めいた犬。

 西陽台でリアルタイム進行中の、ちょっとした都市伝説であった。


     ×   ×   ×


 西陽高校に通う川中沙恵かわなか さえは飼い犬のミッキ(♂)と散歩中、このハヤタに最近ちょくちょく出くわす。


 ミッキは、散歩中に他の犬とすれ違うと、以前は警戒してよく吠えることがあったが、最近は躾のおかげか、落ち着いた行動が取れるようになっている。

 しかし、ハヤタと出会った時は他の犬の時とは反応が違う。

 体が小刻みに震え、その場に伏せてへたりこんでしまうのだ。

 そして、ハヤタが通り過ぎるのをジッと待っているのである。


 ハヤタの方といえば、何食わぬ顔でミッキのことなど眼中にない様子で歩き去っていく。


「クゥゥゥゥゥン……」

 ミッキはへたりこんだまま、情けない鳴き声を漏らす。


「……あの時みたいに腰抜かしてないよね?」

 思わず沙恵はミッキにそう問いかけながら、しゃがんでミッキの顔を見つめる。ミッキがこういう状態になるのは、ハヤタと出会う時を除けば、『あの時』以来だ。


 沙恵は不安そうなミッキの頭をわしわしと撫でながら、記憶の糸をたどる。

 


――そう、あれは中学二年の時だった。


 

     ×   ×   ×



 ハッ、ハッ、ハッ! 


「ちょっと、こら! ミッキ、止まれ!」


 半ば強制的に走らされていた川中沙恵かわなかさえはとうとう息が切れてしまい、そう命じた。


 沙恵の持つ手綱に繋がれている生後二歳の雑種犬の雄、ミッキはぐいぐいと前傾姿勢で疲れた主を引っ張るようにして前に突き進んでいたが、沙恵の言葉に従って速度を落とすと、怖ず怖ずと彼女の少し後ろに位置を変えた。


(……ごめんね。わたしって体力無いから)


 心の中で沙恵は告げる。家の庭やジョギングする人や犬の散歩をしている人しかいない川沿い土手道などでは、同年代の友達を相手にするかのように、否それ以上の親しみを込めて愛犬に語りかけるたりするのだが、今は夕方の往来。

 周りには人も多くて、犬に話しかけるという行為が沙恵にはどうしても気恥ずかしいのだ。


 中学校のクラス委員の仕事も早く終わり、今日は部活もなかった。沙恵はいつもの散歩コースを大きく延長して散歩を楽しんでいた。ミッキはフサフサした黒色の毛並をしているが目の辺りだけ、真っ白な毛に覆われている。

 その白い毛に縁取られたつぶらな瞳をクリクリさせておそらく沙恵同様、初めて来たであろう周りの風景を眺めていた。


 沙恵の住むN区西陽台には住宅地が延々と続く光景の中に、まだまだ畑などが散在している。

 沙恵は少し急な坂を上がり、林を背負う神社の前を通り過ぎ、殆ど無意識に見知らぬ通りの角を曲がっていた。

 そこは左手が高い高いコンクリート塀に囲まれ、右手には用水路を挟んで林が生い茂っている路地だった。見上げるほどに高い位置に住宅が見える。日陰になっていて薄暗く、空気までが冷たく感じた。急に人通りが途絶え、周りには沙恵とミッキの他には誰もいない。


 ――灰色の世界。


 唐突に沙恵はそんな風に思った。

(そろそろ家に帰ろうかな……暗くなってきたし)


 そう思って、元来た道を戻ろうとする沙恵。しかし手に持った手綱がピンと張る。自分が帰ろうと思った逆方向。後ろからである。


「――ミッキ?」


 沙恵は自分の後ろで突っ立ったまま一歩も動こうとしないミッキを怪訝に見つめる。 普段元気が有り余っていて、いつも自分の前を行こうとするのに、今は立ちつくしてその場を動こうとしない。そしてついにはそこに座り込んでしまった。


 いつも『落ち着きがない馬鹿犬』と沙恵以外の家族みんなに言われているくらいで、犬小屋の側に人が近づくだけで誰彼かまわず、うれしそうにその場をグルグルとかけずり回ってキャンキャン鳴くくらいの元気の良さがどこかへすっ飛んでいるようだった。


「もう! どうしたのミッキ?」


 沙恵はしゃがみ込んでミッキの横顔を見る。だがミッキは沙恵の方を見ない。ボーダー・コリーの血が色濃い、つぶらな瞳は前を向いたまま凍り付いている。体は小刻みに震えていた。


(大きな犬でも見ちゃったかな? でも、いつもなら怖がってるくせに無理して突っかかろうとするくらい負けん気が強いのに……)

 沙恵は前方の、ミッキの視線の先を見た。


「あ……!」


 思わず、小さな声をあげた。T字路になっている交差点の向こうのゴミ集積所の側に巨大な灰色の動物がいたからだ。長い狐のような顔を集積所においてあるポリバケツに近づけ、臭いを嗅いでいるように見えた。


(犬?)


 沙恵は一瞬そう思った。しかし犬にしては大きすぎる。セントバーナードより二回りはありそうな巨体であった。


 その動物の毛並みは墨汁を薄めたような濃い灰色だった。沙恵は不審に思った。その大きさもさることながら、その生き物の体の輪郭にどうしようもない違和感を覚えたのである。妙に空気に滲んでいるかのように周囲の光景に溶けて見えた。水墨画に描かれている生き物が動いているかのような錯覚さえ覚える。


 自分の目がどうかしたのではないか? そう思って 沙恵は手綱を持っていない方の手で両目をこする。


 そしてもう一度見たとき、沙恵の心臓は跳ね上がった。

 その生き物も顔を上げて沙恵を見つめたからである。沙恵は真っ正面からその生き物の目を見た。そして目線を急いで逸らす。


 鎖に繋がれている様子はない。その生き物の側に飼い主らしき人はいない。


「クゥゥゥゥゥン……」というミッキの弱々しい鳴き声が耳に聞こえる。だが沙恵はミッキの方を見ることができなかった。金縛りにあったように動けない。


(こ、こっちに向かってきたらどうしよう?)


 その生き物が危険な動物なのかさえもわからないのに沙恵はそんなことを思った。


 と、交差点からエンジン音をたてて宅配便のトラックが生き物と沙恵の間に割り込むようにして路地に入ってきた。

 トラックに灰色の生き物の姿が隠れる。その瞬間沙恵は弾かれたように体を動かした。


「ミッキ、逃げるよ!」


 振り返り、そう言って走ろうとするが、ミッキはその場から動かない。へたりこんだまま、情けなさそうに沙恵の方を見上げる。


 信じられないことだがどうやら腰が抜けて立ち上がれないらしい。


(うそでしょ! そりゃ地震の時とか、犬でも腰を抜かす事があるって聞いたけど――)


 そうこうしている間に、どうやら道に迷ったらしい宅配便のトラックの運転手はしつこいぐらいに左右確認しながらあの灰色の生き物がいた方へと左折する。


 ブロロロロ、と遠ざかっていくトラック。沙恵は早鐘のようになる自分自身の動悸を聞きながらゴミ集積所の方を見た。


「……あれ?」


 そこにあの生き物の姿はなかった。トラックの影に隠れていたのはそれほど長い時間ではない。にもかかわらずあの大きな生き物はもうどこにもいなかった。


 沙恵の動悸は徐々に小さくなっていった。ホッと一つ息をつきながら右手の林の方にも視線をはしらせる。


(いない……)


 不思議に思いながらもゴミ集積所の方へ近づく気にはなれず、ミッキの体を強引に持ち上げるようにして何とか立たせる。足早にその場を立ち去り、沙恵は家路へとついた。

 

 次の日、学校に登校してからも沙恵はあの灰色の生き物のことが忘れられずにいた。生来責任感の強い沙恵はあの生き物が捨てられたペットか何かで野生化しているのではないのかと思っていたのだ。


 テレビのニュースなどで、日本に生息してないはずのワニやニシキヘビが捨てられているのが話題になる世の中だ。昨日自分が見たあの生き物もその類なのではないか……


(やっぱり警察とかに知らせるべきかも……)


 昨日、家に帰ってから家族にその事を相談したのだが「そんな大げさな……」とたしなめられて終わってしまった。


 三時限目の授業後、まだ頭の中がモヤモヤしていた川中沙恵は机に座ってボーっと教室内を眺めていた。


 彼女にはクラス内に友達らしい友達がいない。二年になってクラス替えがあってからどうも人間関係を上手にこなせないでいた。クラス委員として提出物云々のことで催促するときのキツイ物言いが発端だったと自分では自覚している。


 だが生真面目な彼女にはどうしようもなかった。それが川中沙恵の性格なのだ。

 ふと、黒板側の窓際で談笑している女子に目を止める。

             

 綾守斉乃あやもり さいの

 彼女を中心にして数人の女子男子が集まっている。何やらみんな、綾守の話に聞き入ってる様子だった。


(いつも賑やかだなぁ。綾守さんの周りは)


 心の中でそう呟く沙恵。

 そしてハッと気づく。生徒達から集めているこの前の特別授業での人権差別に対する感想文。全ての生徒から集めたと思っていたが斉乃だけがまだ提出していないことを思い出したのだ。


 思い出したら言わずにはいられない。沙恵は席を立って彼女の方へ近づいていった。


「綾守さん」


 ハキハキした声で斉乃の名を呼び、ツカツカと歩み寄る沙恵の姿を見て、斉乃達は即座に話を止めた。沙恵はなぜか居心地の悪さを感じながらそれをおくびにも出さない。


「ん? なに川中さん」


「この前の特別授業の感想文。まだ提出してないよね?」


 さりげなさく言おうとしても詰問口調になってしまう沙恵。

 斉乃は一瞬考える仕草をして「ああ!」と声をあげる。


「ごめーん。まだ書いてないんだ。ごめん! 明日には書いて持ってくるよ」


「えー! まだ綾守さん出してないのー?」


 取り巻きの女子の一人が声高に口を挟む。無駄に元気な声だ、と沙恵は思う。


「提出日の期限はもう過ぎてるから、できるだけ早くね」


「了解了解。すっかり忘れてたよ」


「うん……じゃあ」


 用件をすませたので席に戻ろうとする沙恵。しかし斉乃が呼び止める。


「あ、川中さんは知ってる? ハイケンの話」


 唐突に話題を振られて少し戸惑い、沙恵は怪訝な表情をする。


「ハイケン?」


「いやぁ、川中さんは知らないでしょー」


 男子の一人がおどけた声でそう言う。ちょっと馬鹿にしてるようなニュアンスの言い方に内心ムッとしたが沙恵は表情には出さず、「うん知らない。なにそれ?」と聞いてみた。


「B組の幸田ってさ、小学生の弟がいるんだけどその弟から今小学校で流行ってる変な噂聞いてきたんだってさ。なんか野生化したでかい犬が小学校近辺に出没してるんだって」


(え……)


 沙恵はもう少しで声を出しそうになった。昨日の動悸の激しさが胸の中で甦っていく。

 声は出さなかったが沙恵の表情に余程変化があったのか、男子が数人クスクス笑い、その中の一人が斉乃の後を継いで話しだす。


「それが灰色の犬でさ。だから『ハイケン』なんだけど、様子が普通の犬と違うんだって。もしかしたら狂犬病になってるかもしれないって話もあって小学校じゃちょっとしたブームなんだってさ。

 ほらあそこらへんって神社の近くじゃん? 山とか林とか多いし、動物が隠れる場所いっぱいあるじゃんか――狂犬病って噛まれたら大変なことになるんだと。どうするよ? 夜道を一人歩いてる時とかに遭遇しちまったら」


 沙恵は何も言うことができなかった。


(そう言えば昨日の散歩のコース……神社の前を通りすぎて、団地の奥の、まだ開発されてない林の近くであの灰色の生き物を見たんだ……)


「いや狂犬病はあり得ないよ」

 そう言ったのは斉乃だった。


「なんだよ綾守。お前から話振ってきたんじゃん。それに狂犬病じゃないって何でわかんだよ?」


「聞いたの」


「誰に?」


「三杉に」


 斉乃の口から出た思わぬ男子生徒の名に沙恵を含めたみんなが意外そうな顔をする。綾守はそれを気にとめず、机に座って本を読んでいる当の本人に視線を向ける。


「おい、三杉。ミースーギ!」


 三杉昇一みすぎ しょういち

 クラスの中で一番無口な男子生徒だ。


 驚くほどに存在感が無く空気のような存在だが、それ故に逆に目立つ。そんなタイプの人間で、いわゆるいじめに遭いやすい感じではあるのだが、奇妙なほどに人を寄せ付けない雰囲気を持った少年であった

 単にいじり甲斐がないだけかもしれないが……両親は離婚か別居中で、父親は新興宗教の教祖だとかなんとかいう噂もあり、積極的に関わろうとする者がいないことも確かだ。


 斉乃のような、誰にでも気さくに接することができるような者でなければ声をかけることもないだろう。


 しかしなぜわざわざ今三杉を呼ぶのか。

 沙恵には分からなかった。


 三杉はやや間をおいて読んでいた文庫本から目を離してウザったそうに顔を上げて綾守を見る。


「……なに?」


「あたしさ、昨日チャットでハイケンの噂を教えたじゃん? そん時あんた、ハイケンがいたとしても、そいつが狂犬病だって事はあり得ないって言ってたじゃんか」


(チャット? 三杉君と綾守さんって仲いいんだ……)


 沙恵はこの二人が親しく会話をしているところを見たことはなかったし、想像もできない。例えそれがインターネット上のことだとしても、だった。


「ああ。そうだよ」


 パタンと文庫本を閉じながら三杉は続けた。


「日本ではもう五十年近く狂犬病発生の記録はないよ。予防ワクチンの接種で国内の狂犬病は根絶されたんだ。外国はまだ結構深刻なとこがあるらしいけど……ていうか、そのハイケンの噂自体下らないよ」


 沙恵は授業の時先生に当てられた時以外で久しぶりに、というか初めて三杉の声を聞いた気がした。澱みのない淡々とした口調に意外な印象を受けた。


「えー、なんでよー」


 三杉にハイケンの話を完全否定されて、少し不満なのか斉乃は食い下がった。


「だってそんな大きな犬が野放しになってたら、保健所とかがすぐ動き出すはずだろ。小学校がある丘を下ったところに保健所があるじゃないか」


 斉乃は腕組みをして納得のいかない顔をする。隣にいる女子が口を挟んだ。


「でも、見たって人が凄く多いから、小学校の先生とかが放課後近辺を見回りしたりしてるんでしょ?」


 その一言に三杉はピクリと反応するが、それ以上は何も言おうとしない。


 少しその場に沈黙が流れる。見ると教室内の生徒全員がそれとなしに聞き耳を立てているのが分かった。


 このタイミングで昨日のことを切り出すのはどうかと沙恵は思ったが、思い切って話を切りだした。


「実は、私も見たかもしれない。そのハイケンを」


「え? まじで?」斉乃は身を乗り出した。


 三杉は怪訝そうに沙恵を見ている。


「うん……昨日犬の散歩してた時にすごく大きい灰色の犬みたいな生き物を見たの」


 沙恵が言った時、チャイムが鳴った。次の授業は生物。理科室へ教室移動だ。だが斉乃は全く気にしてないようで沙恵の話に興味津々だ。


「ねえねえ。その話詳しく聞かせてよ。あ、そうだ! 今日みんなでその生き物見た場所に行ってみない?」


 軽くそう言う斉乃に沙恵は顔色を変えた。


「だめ! 危ないよ。ほんとに大きかったんだから」


 そう言って沙恵は自分の席に戻った。

 今、斉乃を注意したのは、委員長気質からくる、生真面目さのせいではなかった。

 斉乃の提案に同意したい衝動に駆られている、自分自身の気持ちに動揺したのだ。


 次の授業の教材を机から引っぱり出しながらも、あの灰色の生き物に見つめられたときのことを思い出していた。


 夕暮れ時の日陰になっている場所とはいえ、まだ日光が途絶えていない世界の中で、あの犬のような生き物の目は鈍く光っていた。


 瞳孔のない、黄色一色の、大きな目。


(つづく)

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