後押し
死ねばこの苦しみから解放される。
それはいつのころからか、心の中にずっと忍ばせていた考えだった。
なにをやっても、思い通りにいかない。
そんな人生で、一つのことを一途に思い続けてきた。
願い続けてきた。
その、たった一つの願いさえ叶うなら他の全てはどうだっていい。
だが、ことここに至って、そのたった一つの願いさえ、もしかしたら、叶わないんじゃないかと思えてきた。
もしかしたらダメかもしれない。
もうダメかもしれない。
もうダメだ。
時を経るごとに疑念は確信に変わる。
その頃には「どうだっていい」と切り捨てた他の何やかんやは、既に取り返しのつかない遠い処へといってしまっている。
死ねばこの苦しみから解放される。
いつのころからか、その考えは心に根づき、ずっと潜んでいる。
だがそれは……密かに隠し持っている、ナイフやピストルと同じだ。
とある業界で使われている格言にこんなものがある。
「ピストルはぶっ放すもんじゃないです。胸元でチラつかせて相手を脅かすモノですよ(笑)」
――殺し合いや戦争してる訳じゃないんだから。
そうだ。その通りだ。
死ねばこの苦しみから解放される。
その考えは、いわば常備してはいるが実際には服用しない薬のようなものだ。
実際に実行には移さないのだ。
× × ×
男は歩道橋の真ん中で立ち止まり『死ねばこの苦しみから解放される』ことについて思いを巡らせていた。
そして最後に、「ハッ」と小さく鼻で笑った。
(だいたい、そこまでトチ狂えるアホ度胸があるならとっくの昔に死んでるっての)
男は眼下に映る、乗用車やトラックが走り抜けていく多車線道路から目を逸らし、その場を立ち去ろうとした。
だが、ふと、足が止まる。
年度末の強風が吹き荒れている中、一瞬妙に生暖かい風が男の体を通り過ぎていった。
フラリと風にあおられるように、男は振り返った。
手すりに手を掛け、下を見下ろす。
あれ? でもなんか今、いけそうじゃね?
体がふわふわとした感じがする。
謎の高揚感が沸き上がってくる。軽い頭痛がするが、頭は冴え渡っている。
眼下の車はかなりのスピードで自分の下をくぐり抜けていくが、エンジンや車体が風を切る音はなぜか聞こえなかった。
なにかが自分を後押ししているような感覚があった。
いけるいける。今ならいける。
死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。やめとこか。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死ねよ。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死のう。死のう。死のう。死のう。死ね。死のう。死のう。死のう。死のう。
男はグッと身を乗り出そうとした――。
その時、キキーッという鋭いブレーキ音がして、複数のクラクションが鳴った。
男はビクッと我に返った。
耳をつんざくような悲鳴が後ろの方でした。
見ると、歩道に立ちつくしている人が何人かいる。
歩道側の車線に乗用車が止まっている。ドアが開き、運転手が降りてくるのが見えた。
運転手が慌てふためいて駆けていくその先には、車道に横たわっている男性がいた。
飛び出し自殺のようだった。
――あーあ、先越されちゃった。
心の中でそう呟く。
……そして、呟いたのは自分ではないような気がして、男はゾッとした。
逃げるように歩道橋を渡り切り、男はその場を走り去った。