猫の影
週末の余暇を彼女と過ごした吉村氏は、車で帰宅途中だった。
助手席には彼女がいる。
付き合い始めてからそろそろ一年。最近は離れるのがお互いに寂しく、半同棲状態だ。
(そろそろ、一緒に住んじゃおうかな)
そんなことを考えながら吉村氏は自宅マンションに附属している、駐車場に面する路地に車を進めた。
その時、視界の隅に白い影がパッと入ってきた。
「あ、猫だ」
彼女が声を上げる。白い猫だった。
車の進行方向に沿って左側を全力疾走している。
屋外にいる半野良の猫がこんなに走っている姿を、吉村氏は今まで見たことがなかった。
心なしか何かに追われているようにも見える。
「ねえ、轢かないように気をつけてよ」
心配そうな彼女に吉村氏は「わかってるよ」と答えた。
彼女は大の動物好きなのだ。
ちなみに吉村氏はというと、子供の頃から田舎の実家でもペットを飼った経験は一度もない。吉村氏の母が家で犬や猫を飼うのを嫌っていたからだ。
ちなみに今住んでいるマンションはペット禁止である。
吉村氏がスピードをゆるめようとしたその時――。
白い猫は失速しながら、車の方へ近づいてきた。
「あ! バカッ」
吉村氏は慌てて急ブレーキを踏むが――間に合わなかった。
「キャア!」
彼女の悲鳴。その一瞬の後。
ガキ、ボキ、ゴキ!
嫌な音を立てながら、左のタイヤが猫を踏み越えていく震動が伝わった。
車が止まる。折しも、自宅マンション前だった。
向かいの駐車場に、吉村氏は車を止めた。
しばしの間、二人は無言だった。
「ねえ、見てきてよ」
彼女はそう言った。吉村氏が見ると、彼女は目に涙をためていた。
「え~……」
ぼやきながらも、吉村氏は車を降り、猫を轢いてしまった地点に行く。
死体が転がっていたら、保健所に通報しなければならない。そのくらいの義務感はあったが、彼女が感じているであろう、悲しみや罪悪感というものはあまりなかった。
「あれ……」
吉村氏は路地の周囲をくまなく見回すが、倒れている猫の姿は見あたらない。
「ねえ、どう?」
後ろから怖ず怖ずとした声で彼女が聞いてくる。
「いないよ。死体もない――無事だったんじゃないかな」
努めて明るい声を出す吉村氏に、彼女は反論した。
「そんなわけないよ。完全に轢いてたじゃない」
(ああ、もう――やっちまったもんはしょうがないじゃないか)
苛々した吉村氏は、心の中でそう毒づいた。
× × ×
自宅に入ってからもずっと、彼女は意気消沈していた。
めそめそしながら、「道端に倒れてなかったのなら生きてるのかな?」とか「でも絶対怪我をしているよね」とか、猫の話から決して離れようとしない。
吉村氏がいくら慰めても、なだめても、効果がない。
……どうも彼女は、猫を轢いてしまったのに割と平気でいる吉村氏の態度を咎めているような節があった。
(めんどくせーなぁ)
そう思いながらも、吉村氏はふと子供の頃、母親が自分と同じように猫を車で轢いてしまった時のことを思い出していた。
確かあれは中学生時代の頃のはずだ。
当時吉村氏は、田舎から電車で何十分もかかる学習塾に通っていた。
帰りは母親が車で迎えに来てくれた。
ある日の帰り道、飛び出してきた猫を避けきれず、轢いてしまったことがある。
あの時の母親の動揺ぶりは尋常ではなかった。
そして、その後母親がした『あること』を思いだした。
なぜか鮮明に脳裏に焼き付いている記憶だ。
「供養してやろう」
出し抜けにそう告げた吉村氏を、彼女はきょとんとした顔で見つめた。
「え?」
吉村氏はコンビニで線香とおむすび、缶詰タイプのキャットフードを買ってきた。
「うちの家って、神社に熱心にお参りとかする家でさ。動物を殺してしまった時の供養の仕方を教わってるんだ」
「……でも、あの猫、まだ死んだとわかったわけじゃ――」
「でも、死んだかもしれないだろ。だったら『ごめんなさい』って謝って、そして供養してやらなきゃ。あれだけ探し回っても見つからないし、血の跡とかもなかったけど、確かに轢いちゃったんだからさ」
「そっか……そうだね」
神妙な顔で吉村氏は和紙を人の形に切り取り、それに息を三回吹きかけるとむすびとキャットフード、そしてダイニングルームの花を取り出し、新聞紙でくるんだ。
彼女は興味津々な様子でそれをじっと見ていた。
それを見て、内心ちょっと得意な気分になってきた吉村氏は彼女を連れて、猫を轢いた路地まで行くと、そこで供物を置き、線香をあげて、手を合わせてお参りした。
「あとは近くの川に供えた物を捨てるだけだから、先に部屋に戻ってて」
「うん」
大分、機嫌を直した彼女は素直に頷いた。
吉村氏は車で最寄りの川まで行くと、窓を開け、車内から供物を無造作に放った。
ここまですれば、彼女も、自分がちゃんと反省している、猫の死を悼んでいると思ってくれるだろう。
せいせいした気分だった。
× × ×
休み明けの月曜日の朝。
吉村氏と彼女は、一緒に仲良くマンションを出た。
仕事先は違うが、二人とも電車通勤で、最寄りの駅まではいつも一緒なのだ。
ふと、彼女が歩みを止めた。
「あ、あれ……」
彼女の表情は駐車場の方を向いたまま固まっている。
吉村氏が見ると、自分の車のフロントタイヤに何かが絡まっているのが見えた。
新聞紙。そして、見覚えのある花――。
「な、なんでだよ」
思わず吉村氏は走り寄る。
川に投げ捨てたはずの供え物だった。
周囲には米粒とキャットフードも散乱している。
そして、何とも厭な臭いが立ちこめていた。
〈ナァ〉
短い鳴き声が背後のすぐ近くでしたので、ビクリとした吉村氏は振り返る。
だがそこには口に手を当てたまま、硬直している彼女がみえるだけで何もいなかった。
家の中を、得体の知れない、フワッとした見えない何かが漂うようになった。
部屋の中をウロウロと小さな何かが歩き回っているような気配。そして足音。
仕事先でも猫の鳴き声が聞こえたような気がして、辺りを見回す、などということが多くなった。
自分では気づかないが、ボーっとしていることが多くなり、同僚に呼び止められる。
聞くと「なにやらブツブツと独り言を言っていた」と言われるのだが、吉村氏本人には全く自覚がなかった。
次の週末。
彼女がやって来たが、部屋に入るなり、顔をしかめた。
「どうしたんだよ?」
「……猫の臭いがする」
(なんなんだよくそ!)
吉村氏はこの一週間、沸き上がる恐怖を怒りで誤魔化していた。
しかし、それも限界だった。
なにがいけなかったというのか?
たまりかねた吉村氏は実家に電話を掛けた。
「おー、どしたんね?」
電話に出たのは吉村氏の母だった。
その声を聞いてほっとした吉村氏は、事の詳細を話した。
長い間、吉村母は黙ったまま話を聞いていた。しかし、電話越しにも母親が不快感を露わにし、怒り心頭しているのが吉村氏には伝わっていた。
「あんたぁ、馬鹿じゃねぇ! なに考えとるんねっ」
吉村氏が一通り話し終えたあとの、吉村母の第一声は金切り声に近いものだった。
「え、だって」
「紙を切って――何をしたって?」
「だから、映画の『陰陽師』とかであるじゃん。人の形に切り取って息を吹きかけて――」
「そんなことお母さんしてませんッ。あんたぁ漫画とかの見過ぎじゃないんねそれ」
「いや、おれが中学の時やったじゃろ!」
思わず、母親につられて、吉村氏も故郷の方便が混じりだした。
「知りませんッ。あと色々間違っとるけぇねそれ。供え物は“捨てる”んじゃないの!
“流す”の! 橋の中央に立って、上流に顔を向けて、後ろ向きに放らんといけんのんよね。あと、流れが緩かったりして、引っかからないように気をつけんといけんの!」
「マジかよ……」
舌打ちし、ため息を吐く吉村母。ややあってから、こう語り出した。
「でもね。そんな手順とかは、どうでもよくはないけど……細かい事よね。一番大事なんはあんたの気持ちの問題よ」
「気持ち?」
「そうよね。あんたぁ昔っから神様とか仏様とか因縁とか、そういうの全然信じてなかったでしょうが。供え物をして拝んだ時や供え物を流した時に、ホントに『ごめんなさい』って気持ちがあったん?」
「それは……」
とても母親には言えなかった。
彼女の機嫌を取るため、見せかけの態度で供養を行ったなどとは。
「適当な気持ちでそんな大仰なことしたら、逆効果よね」
「………………すみません」
「わたしに謝ってもしょうがないわ。ちゃんと供養をやりなおしんさい。あとそっちの近場の神社にお参りすること。“障り”がなくなるまで真剣にやりんさいよ!」
最後に“お加持”した肌着を送るから、届いたらすぐに最低二、三日はずっと着たままで過ごすこと……と言いつけられ、電話は切れた。
× × ×
それから吉村氏は母親の言いつけ通りに供養をやり直し、時間を見つけては近くの神社に参拝した。
時が経つにつれて、不可解な物が見えたり、音がしたりすることもなくなった。
彼女とは一時期、距離を置いていたが、現在は同棲している。
彼女が言うには、今でも時折、吉村氏から猫の臭いがするそうだ。






