付近住人公認の野良犬
とあるアパート。
空き部屋のはずのドアが、深夜に開いたり閉まったり……。
今年、地元大学を卒業した工藤昭彦は、N区西陽台にある、親所有の賃貸アパートの一〇五号室で暮らしている。
昭彦が大学を卒業し、働き始めたちょうどその頃、地方で暮らしていた兄夫婦が仕事の関係で東京に戻ってくる――という話になったため、兄夫婦が実家に戻るのと入れ替わりに、一人暮らしをすることにしたのである。
木造モルタル。築二十年以上たった、少々古ぼけたアパート。
部屋の間取りは1R。
以前は家族経営だったが、父が他界してからは賃貸物件を管理してくれる会社に仲介等を丸投げしている。
元々、一人暮らしをしてみたかった昭彦にとっては好都合だった。
母が、安めの家賃をさらに安くしてくれたし、実家は自転車を使えば二十分もかからない距離だ。
何の不都合もないはずだった。
だが少々気になることもあった。
交通の便も良く、家賃も良心的な好物件のはずなのに、ここ近年は退居者が多く、新たな入居者もなかなか現れない為、空き部屋が殆どなのだ。
一昨年には見栄えをよくするためにペンキを塗り替え、部屋も全室、ロフトリフォームした。だが、効果はあまりみられなかった。
管理会社の怠慢なんじゃないのか。
常々そう思っていた昭彦は、仕事から帰ってきたある夕方、空き部屋になっている隣の一〇四号室を覗いてみることにした。
ドアノブに手を掛けてみた。
鍵が、かかっていない。
「チッ」
昭彦はカチンと来た。
入居者が現れず、長期間空き部屋になっているのだから、鍵くらいかけておくべきなのではないか?
そう思いながら、部屋に入って、ザッと室内を見回し、キッチンやユニットバスなども見てみるが、どこもピカピカで、キレイなものだった。
ずっと空き部屋のままだと、定期的にキッチンやユニットバスの水道の水を流してやらねば、排水管の水が干上がり、そこから虫がウジャウジャ湧いてしまったりするのだが。
……管理会社は定期的な手入れを怠っているというわけではなさそうだ。
昭彦は肩をすくめて一〇四号室を出た。
「うッ」
思わず声が出た。
部屋を出て、すぐ目の前に犬がいたのだ。
首輪はされていない――結構大きい。
犬種は分からないが、日本犬だろうか。耳と目が小さくて、頭が大きく、首が太い。
口は閉じているが、鋭い牙が見える。
昭彦は固まってしまった。
犬は、微動だにせずじっと昭彦を見つめていた。
遠くで、カラスの鳴き声がした。
犬は、ふいっと顔をそらし、悠然とした足取りでアパートの敷地から表の道路の方へと出ていった。
昭彦は去っていく犬の姿に釘付けになっていた。
完全に姿が見えなくなってから、即座に自分の部屋のドアを開けて中に入った。
……その犬は、西陽台付近では有名な野良犬だった。
黄昏時から深夜にかけて町内を徘徊しているらしく、小学生ぐらいの子供には人気で、ハヤタという名前で呼ばれているそうだ。
昭彦も、仕事帰りの、駅からアパートまでの道すがら、ハヤタの姿はよく見かけた。
なにやら、顔を覚えられているのか、じっと自分のことを見つめることが多いように思えた。
しかもハヤタに見つめられる度に、昭彦はなぜか畏まってしまうような、変な緊張をおぼえてしまうのだった。
「何なんだよあの犬は」
思えば西陽台には野良猫も多い。深夜、コンビニに向かう途中、近くの駐車場に十数匹、群を為してたむろしてたりすることなどしょっちゅうだ。
しかし……野良猫はまだいいとして。
今時、東京二十三区内で野良犬などが存在できるものだろうか。
誰かが保健所に通報とかしていないのだろうか?
先日、近所のレンタルショップに、自転車に乗ってビデオを返却しに行く途中、警官に防犯登録の確認の為に呼び止められたので、思い切って昭彦はハヤタのことを聞いてみた。
「ああ、あの野良犬のことですか――」
警官の話によると、実は何度か、動物愛護センターの職員や警察で捕獲を試みたことがあるらしいのだが、そういう時に限って姿が見えず、なかなか捕まえられないのだそうだ。
しかし、最近は捕獲の要望は稀で、付近の住民はハヤタが野放しで歩き回っているのを黙認しているとのことだ。
……そんなことってあり得るのか?
どうにも気になった昭彦はある晩、自宅のパソコンで西陽台の野良犬の件を色々ネット検索して調べてみることにした。
すると一部ではやはり有名らしく、他にも西陽台で珍しい鳥や蜥蜴などを見たなどという情報もヒットした。隣町の神社などでは狸を見たなどという目撃情報もある――。
ガチャ、バタン。
思わずパソコンのマウスを動かす手が止まった。
ドアを開けて、閉める音。
隣の、一〇四号室……。
翌日。
出勤のためアパートを出る際、一〇四号室をチラリと見たが、軒先には洗濯機などは置かれていないし、窓にはカーテンもなく、外から見た感じでは人が入居した様子はない。
……誰かの悪戯だったんだろうか?
自分みたいに空き部屋を誰かが覗いただけなのかも。
その夜、帰宅して就寝中、また一〇四号室のドアが開き、そして閉まる音がした。
枕元の時計の針は、午前二時を指していた。
その後も、毎日ではなかったが、週に一度か二度、深夜に一〇四号室のドアが開く音がした。
さすがに気味が悪くて、管理会社に問い合わせてみたが、やはり一〇四号室は空き部屋とのことだった。
「とりあえず、明日にでもドアの鍵はかけておきます」
という話を聞いて、幾分か安堵し、その日はホッとした気分で布団に入った――。
ギニャ! ニャアアアアアアア! ニャア!
猫だった。
アパートの敷地内で喧嘩でもしているのか、複数の猫の威嚇するような激しい鳴き声が響き渡っている。
「チッ! もう、何だよくそ!」
昭彦は飛び起きて、外に出ようとドアノブに手をかけたその時――。
ギャ! ッ、ギャアアアア!
猫の鳴き声が、絶叫のような悲鳴に変わり、そしてプツリと途絶えた。そして、
ガチャ、バタン。
「……」
昭彦は、そっと、物音を一切たてないようにして、ドアの覗き窓を覗いた。
一〇五号室と一〇四号室の間の天井に付けられた電灯に照らされ、外の様子はハッキリと見えた。猫の姿は見あたらない。
何事もなかったかのように静かで、不審な点はなにも見あたらない。
一〇四号室のドアは閉まったままだ。
昭彦は音を立てないようにそっとドアを開けた。
なにかあったら、すぐに閉めて鍵をかける心づもりを固めておきながら、ゆっくり、ゆっくりとドアを開けた。周囲をくどいほど確認し外に出る。
周囲には異臭がたちこめていた。
そして、一〇四号室から、声が聞こえてきた。
なにかの呟きのような、歌のような声だ。
――こして……こと……………ならぬ……………………こにしらせるな
――わるさ……こと………ちゃならぬ…………たろうの………………な
しゃがれた、男とも女とも、子供とも老人とも判別できない声だった。
(あ、これはだめだ)
昭彦は、これまで経験したことがないほどの大きな、自分の心臓の鼓動を聞いていた。
体が震え、息づかいが荒くなる。
激しい恐怖に襲われながら、同時に心の中で「これはだめだ」という言葉が何度も何度も浮かんだ。
とにかく離れたい。この場から逃げ出したい。
部屋に戻ることも忘れて、昭彦はなぜか実家まで走って逃げようという考えに囚われ、道路に出ようとした。
その時、ギィィィ、と、一〇四号室のドアが大きく開いた。
異臭が一段ときつくなった。
血と、毛皮に思いっきり顔を埋めた獣臭さ、それの何倍もきつい臭いがした。
鼻がツンとし、涙が溢れた。
一〇四号の室内は真っ暗だ。
しかし、戸口に何かが立っていた。
ドアの高さにおさまらない、大きな何かが、屈んだのが分かった。
闇に光る黄色い目が昭彦を睨めつけた。
目眩がして、昭彦はへなへなとその場に崩れかけた。
だが――。
グルルルルルルルッ
自分の横で、凄まじいうなり声がして、昭彦はハッと我に返り、振り返った。
ハヤタだった。
目を見開き、爛々と輝かせ、全身の毛を逆立たせている。
鼻に皺をよせ、牙を剥きだして、ハヤタは一〇四号室の暗闇に向かって、吠えた。
遠吠えのような、否、もっと激しい咆哮だった。
……昭彦は、ビリビリと自分の体が震えるのを感じたのを最後に、気を失った。
次に気がついた時には、周囲に人だかりが出来ていた。
付近の住民が自分を囲んでいたのだ。
道路から赤い回転灯の光。
警察官が一〇四号室を調べているのが見えた。
床や壁に大量の血や、赤黒い肉片が散らばっている……。
救急隊員に抱え起こされると、昭彦は病院に搬送された。
茫然自失の状態から回復した後日。
昭彦は警察官に色々質問された。
「何があったんですか?」
「……え、と」
答えあぐねていると、警察官があの時の状況を教えてくれた。
一〇四号室で数匹の猫の死骸が発見されたこと。
何かに食い散らかされ、死骸は酷い有様だったこと。
奇妙な点がいくつかあり、猫数匹分にしては、血の量が多すぎたこと。
しかし、それは人間の血などではなく、猿の血だったということ。
「猿……ですか」
「はい。工藤さん、繰り返しで申し訳ないですが、何があったんです?」
「……」
「何を見たんですか?」
一〇四号室の中にいたあの得体のしれない大きな何か……あの、黄色い目。
思いだしただけで背筋が凍るが、同時に野良犬ハヤタのことを思い出すと、恐怖でがんじがらめになった昭彦の心は解きほぐされるのだった。
「すみません。一〇四号室のドアが開いていて、猫の死骸をみて気を失ったこと以外、何も憶えていないです」
「そうですか……」
奇怪な経験をしたというのに、工藤昭彦は一〇五号室に今も住んでいる。
ハヤタは今でもちょくちょく見かけるが、もう自分をジッと見つめることはなくなった。
昭彦は、それをちょっと、寂しく思うのだった。
あとで、改稿するかも、です。
ホラー系ショートショート、どうせなら同じ町を舞台にして色々やってみようと思い、連載形式にしてみました。当面、一話完結形式です。