十一章 第四話 君の為に笑顔を 前編
小高い丘の上。
澄んだ川の畔。
緑の木々に囲まれて、二階建ての家が建っていた。
「着いたよ、兄さん」
「ここが……」
ナーヤに連れられてきたナーリャは、息を吐きながら建物を見上げる。
白塗りの壁と丸い窓が特徴的な、こぢんまりとした家であった。
「さ、入って」
「う、うん」
ナーヤに手を引かれ、家の中へ入る。
靴を脱いで土間から板の間に上がり、廊下を進む。
真っ直ぐ進む間に二部屋ほど並んでいて、更に先へ行くと曲がり角があった。
そこまで行って奥を覗き込むと、その先には階段があり、更に先には台所があるようだ。
「私たちの家は燃えてしまったけれど、ここには兄さんの私物も置いてあったの」
幼い頃の物だけだけれど、とナーヤは付け加える。
階段の前の部屋。そこの板の扉を開くと、質素な部屋に出た。
六畳一間の部屋には畳が敷かれていて、箪笥や机などの家具が置かれている。
「これが、彼の」
箪笥の上に置かれている、写し絵。
精巧に描かれたそれには、幼い彼らの姿があった。
黒髪の少女の手を握る、黒髪の少年の姿。
「僕が、幼ければきっと……」
ナーリャをそのまま幼くしたような、柔らかい笑みを浮かべた少年。
絵師に向かって照れているのか、その顔にはうっすらと朱が塗られていた。
「どう?思い出した?」
「……いや、でも、僕は」
「なぁに?」
「なんでも……ないよ」
家族の存在に、ナーヤは嬉しそうに笑う。
兄が帰ってきたのだと、一緒に居られるのだと、彼女は笑っていた。
その笑顔を前に、ナーリャは何も云えなくなる。
思い出す気配すらせず、よく似た別人なのではないかと、言えなくなる。
「そうだ!久しぶりに私が夕ご飯を作るよ!ね?いいでしょ?」
小走りで近づき、ナーヤはナーリャの腕を抱き締める。
楽しそうな表情で笑いながら、ナーリャの温もりに身を埋める。
その熱を、ナーリャは振り払うことができずにいた。
ただ時間だけが過ぎる中、ナーリャは思いを馳せる。
どんな顔をして、千里と向き合えばいいのか。
ただ、痛みと焦燥だけが、ナーリャを包んでいた。
明日には、リャウの仕事を完遂し、新たな地に向かわなければならない。
そのはずなのに……ナーリャの脚は、動いてくれなかった――。
E×I
宿の一室。
座敷の端で、千里とリャウは向き合っていた。
その様子を、肩を怒らせたイエルが見張る形で。
「本当に、申し訳ないことをした」
リャウが見ているのは、千里ではない。
失意から目を伏せる千里を見続けるのが辛い――のではなく、視線は畳に向いていた。
スエルスルードに伝わる伝統的でかつ最大級の謝罪方法。
正座から両手を着き、畳に額を擦り続ける継承されてきた“ごめんなさい”の伝統。
そう――“土下座”である。
「痴漢議員」
イエルが呟いた言葉に、リャウは肩を振るわせる。
失恋してそれなりに傷ついていたリャウを慰めたトウイは、マエルに正座させられている。そのまま額を畳にこすりつけるのも、時間の問題だろう。
「ほら、チサトも一緒に」
「そ、それだけはっ!」
「黙りな、変態議員」
「ぐぅっ」
正直、罵る気にはなれなかったので、千里はただ苦笑いを浮かべていた。
憤りは感じたし、失意もあった。けれど、一晩経って早朝を迎えた現在、イエルにずっと慰めて貰っていたこともありリャウに対する怒りは残っていなかった。そもそも未遂だった、というのも大きい。
だからこの失望は――不甲斐ない、自分に対するものだった。
「俺は――俺は、チサトにそんな顔をして欲しかった訳じゃないんだ」
リャウは一度頭を上げ、そしてもう一度深く下げる。
千里の表情を見たリャウは、眉を寄せて唇を噛んでいた。
「だから君の心が晴れるというのなら、好きに罵ってくれて、構わない」
「リャウ……」
その表情を見て、千里は薄く笑い、そして顔を引き締める。
頭を下げるリャウに、なるべく厳しい声が出せるように構えて、そうして口を開いた。
「謝罪したいって、思ってる?」
「……もちろんだ。なんでも、言ってくれ」
覚悟を決めたリャウ。
それに千里は、ゆっくりと告げた。
「それならさ、その気持ちも上乗せして、この国の人たちを救ってあげて」
「……チサト、アンタ」
イエルの驚いた声。
リャウも思わず顔を上げて、千里を見て、目を瞠る。
「ね?」
優しい笑みだ。
前を向けと、自分を傷つけた人間に告げる、優しい表情。
それをリャウは、深く胸に刻みつけ、そして鋭い目で頷いた。
「ああ……ああ、任せてくれ!」
胸を張って、告げる。
その目に翳りはなく、その姿勢に後ろめたさはない。
意志を定めた男の表情で、リャウは千里にそう言い切った。
「はぁ……チサトがそれで良いなら、あたしはもうなにも言わないよ」
「ごめん、ありがとう。イエル」
「なに、チサトは命の恩人だ。これくらい、どうってことはないよ」
快活に笑うイエルに、千里は頬を緩ませる。
彼女が側で慰めてくれていたから、千里は今こうして笑えているのだから。
「そろそろ出発したいのだが、いいか?」
「ぁ……うん。わかった、リャウ」
千里は煌億剣を手に取り立ち上がると、同じく立ち上がったリャウに着いていく。
その様子を、イエルはじっと見守っていた。
「ナーリャが戻ってきたら、説明しておくよ。
だから、安心していっておいで」
「うん。何から何までありがとう、イエル」
千里はイエルに背を向けたまま、礼を言う。
その言葉は心なしか震えていて、それでもイエルは彼女の顔を伺うことができなかった。
「いってきます」
そう告げる千里の背は、小さく儚く。
そしてとても脆いような、そんな雰囲気があった。
今にも折れてしまいそうな背を、イエルはただ見送ることしかできず歯がみする。
せめて、ナーリャに真実を告げるだけでもしなくては、命の恩の欠片すら返せない。
イエルはそう独りごちると、雨の降り出してきた外を見つめるのであった。
――†――
ナーヤの作った夕食を食べ、談笑し、一夜明けた現在。
ナーリャは曇りだしてきた空を見上げながら、自問していた。
「僕は、どうすれば」
目を眇めて、ただじっと曇り空を見つめる。
脳裏のよぎる光景は、ここに来る前に見た千里の姿。
朱色の門の前で抱き合い、受け入れ合うが如き姿を思い出す度に、ナーリャの胸に鋭い傷みが走った。
「僕は、どうするべきだ?」
連続して痛む胸。
千里の花開くような笑顔と、ナーヤの寂しげな涙。
その二つが交差する度に、ナーリャは右手で己の胸を強く握っていた。
「いや、違う」
頭を振って、瞑目する。
眉根を強く寄せて悩む姿は、どこか痛ましさすら覚えさせていた。
「僕は――どうしたい?」
家族――親愛。
恋人――恋慕。
どちらかを取らなければならない。
本来は、相容れるはずの感情なのに。
選択を、迫られる。
「僕は」
左手で握りしめた、一振りの刀。
気がついたら、ナーリャはこれを手に取っていた。
千里とは異なる流れ人が残した、生命の証だ。
――君が後悔を抱かぬよう、これを鍛えた。
「っ」
気を抜いていたせいか、脳裏に声が流れる。
普段なら千里の言葉を思い出して拒むはずの、記憶の逆流。
それをナーリャは、どこか諦念にも似た気持ちで、受け入れた。
――君が後悔を以て歩む姿を、見たくなかったんだ。
優しげな、男の声。
これは、声の主の記憶ではない。
これは、声を聞いている人間の、記憶だ。
――ぼくはきっと、このまま息絶えるだろう。
足下がふらついて、どんっと勢いよく壁にもたれかかる。
思わず胸に置いていた右手を額に持っていくが、左手の刀は手放さない。
見ている光景に上から映像が重なるような、奇妙な光景に、ナーリャは歯がみしていた。
――それでも、こうして君が夢を諦めないのなら。
今にも消えて無くなりそうな、儚い笑顔。
見たことのないはずの男性の姿に、記憶から召喚された感情が、疼く。
――ぼくは絶えることなく、君と歩むことができる。
差し出された剣を、一振りの刀を掴む。
頬を伝う涙の意味は、生涯の友と二度と逢えないという覚悟からか。
黒い袈裟姿の男は、友の笑顔に涙していた。
――侍はまだ死んでいないと、伝えるんだろう?さぁ、行くんだ。
男は、寡黙だった。
声に出して言葉を交わして感情を表現することに、意味を見いだしていなかった。
だから、それはこの時においても変わらない。
ただ一度、正面を見て頷いて、流れる涙を隠そうともせず刀を抜いた。
――何度後悔してもいい。だがそれを抱き続けるな。
――前を見て進むときは、抱いた後悔を捨てろ。振り向いた先に道はない。
青年はそこまでを真剣な表情で語ると、大きく咳き込む。
そこに多量の赤が交じっていることに気がついた男は慌てて近寄るも、青年はそれを手で制した。
――確かに君の家は、守っていた宝を無くしたかもしれない。
――けれどそれは、戦によってもたらされたものだ。気に病むことではない。
――それでもそれが心のとっかかりになっているのならば、その刀を新たな宝としろ。
今にも崩れそうな身体で、青年は語る。
後悔に依らない、強い意志と決意を黒い目に宿して。
――なに、相応しいかどうかなど、全て君が証明すればいい。
大きく笑って、青年は男の肩に手を置く。
優しく、そしてどこまでも強かった青年は、男に全てを託していた。
――気張れよ、阿蘇兼定藤治郎。君が持つのは、真実国宝になり得る刀だ。
最後にそれだけ言い、青年は崩れ落ちる。
男はそれを慌てて支えると、まだ息があることに胸を撫で下ろした。
そっと、青年を布団に横たえる。
側では、彼の妻が悲しそうに、それでいて優しげに微笑んでいた。
夫婦で背を押され、止まっていられるほど自分は大人ではないと、男は気がつき小さく笑う。
刀を手に、袈裟姿でその場を去る。
僧侶の姿に刀という珍妙な格好ながら、男の背に迷いはない。
――後悔に依らない、人生がために。
男はそう呟くと、最初の一歩を踏み出した。
この国に、心の荒んでしまったこの国に、未だ残る物があるのだと。
人生を以て証明するための一歩を。
意識が、戻る。
ほんの一瞬のことだったのだろう、時間は余り経っていない。
だが頬を伝う冷たい汗が、記憶を読み取ったということを証明していた。
「後悔に依らない、人生」
今ここでナーヤと生きることを選択して、己は後悔を抱かないのか。
答えは否だと、ナーリャは己に自答する。
きっとこのまま別れてしまったら、一生変わらぬ後悔を抱き続けるだろう。
そしてそれは、己だけではなく周囲のモノも翳らせるのだ。
庭から見上げた空。
それはまるで、後悔を抱いているのかのように薄暗い。
けれど空は、後悔を抱き続けたりはしない。
いずれ雨となって人々に恵みを与え、そして清浄な青と共に輝きを見せるのだ。
「ごめん、千里。約束、もう一度破る」
ナーリャは、ナーヤが未だ起き出していないことを振り返って確認すると、大きく頷いた。その瞳には、大きな決意が宿っている。
「やったことはない。けれど、強い思いが残るこの地なら、きっと」
膝を着いて、地面に右手を当てる。
大地を掴み取るように手を広げ、ナーリャは瞑目した。
「――【継承把握】」
シエリエの地に強く刻まれた、その記憶。
それが光の奔流となって、ナーリャの身体を包み込む。
まるでこの地が、ナーリャに記憶を見せたがっているかのように。
――/――
瞬く間に、炎が広がった。
木々が燃え、草が焼かれ、空が赤に染まる。
逃げだそうとした動物たちも、前日までの嵐で土地を乱されており、そのほとんどが炎に飲まれた。
それが街に辿り着くまで、時間は要らなかった。
紅蓮の劫火はいとも簡単に街を覆い、人間達に牙を剥く。
いち早く対応を始めた大人たちは、街の人間を水辺に誘導し始めた。
「くっ……炎が!」
男が、そう叫ぶ。
黒い口髭と後ろで結った髪の男性だ。
「ウェン=リュウ!」
名を呼ばれ、男――リュウは振り向く。
彼が真っ先に先導を初めて、それから街の公安が人々の救出を行い、そして今彼の下に自警団が集合した。
「指示を!」
「……わかった。一分隊から四分隊まで東西南北にあたれ!
家屋に取り残されている人間の救助。ただし、決して無理はするな。
自分の家族の行方が解っていないものはそちらを優先しろ!」
「はいっ!」
散り散りになっていく中、その中に一人の少年が残った。
年の頃は十四か十五歳くらいだろう。耳にかかる程度の黒髪と、黒曜石のような瞳を持っている。
「君は……リーヤか?どうした?」
「妹が、まだこの先にいるかもしれないんです!」
「そうか……ならば共に来い!」
「はい!」
ナーリャを幼くすれば、なるほどこの少年に見えるだろう。
リーヤと呼ばれた少年は、残った人間を捜すために山側を捜索するリュウに、加わった。
誰かに手を差し伸べながら、必死に妹の姿を探す。
まだ十歳になったばかりの少女を、救い出すために。
「この辺りは、もう」
「いえ、諦めません」
強く言い放つリーヤに、リュウは瞑目する。
やがて小さく、頷いた。
「私はこのまま山沿いを、公安と共に捜索する。
君も、安全が確認できたら来なさい」
「……はいッ!」
リュウと別れて、リーヤは走る。
足を縺れさせながら、灰によって咳き込みながら、炎によって肌を焼かれながら。
痛みも苦しみも全て振り切って、リーヤはただ走っていた。
――そして、視線の先に、黒髪の少女を見つけた。
今にも倒れそうなほど、弱々しく歩く少女。
それは見間違えるはずのない、己の妹の姿。
「ナーヤ!」
声を上げても、ナーヤは気がつかない。
爆ぜる家々の音が、リーヤの声を消してしまっていた。
走っていて疲れてたのか、ナーヤはついに座り込んでしまう。
その頭上に降り注ぐ、倒壊した家屋に気がつかぬまま。
――ドンッ
「ごめん、ナーヤ。大丈夫?」
背中に走る熱は、炎よりもずっと熱い。
それでも庇えたことが、嬉しかった。
「にい、さん?」
「くっ…ぁ………本当に、ごめ、ん」
声が漏れてしまう。
心配させたくないのに、苦しげな声のせいで、背中に突き刺さった木材に気がつかれてしまった。それがリーヤは、苦しい。
「にげ、よう。ぼ、く、は……大丈夫、だから」
安心させようと、大丈夫だと言いたいのに。
声は途切れ途切れで、はっきりと言葉が伝わらない。
「だめ、だめだよ!じっとしてなきゃだめ!」
「大丈夫、大、丈夫、だよ」
それでも、いや、だから。
立ち上がって笑ってみせる。
ナーヤの背を押して、声をかける。
「絶対着いていくから、走って」
「や、やだ!兄さんが先に……」
「僕を信じて、お願いだから」
「で、でも、兄さんっ」
「早くッ!」
痛みを堪えて、嘘を吐く。
リーヤはナーヤに見せたくなかったのだ。
己の、姿を。
走り出したナーヤの後ろに、ついて走る。
離れないように、時折声をかけて安心させてやりながら。
走って、走って、走って、そうしている内に人影が見えた。
他地区を担当していた、自警団のメンバーだ。
「ほら、みんなだ。走って!」
「うんっ」
安心して、ナーヤは最後の力を振り絞る。
だがリーヤは、それ以上動くことができなかった。
今まで平然と走っていたのが不思議なほどに、体力が奪われている。
もう自分は助からない。
リーヤはそう、感じ取っていた。
「どうか、幸せに」
炎が広がり、リーヤの視界を覆う。
もうこれで、リーヤは向こう側に行くことは叶わなくなった。
だが視界の奥で、気絶して運ばれるナーヤを見て、安心したように微笑んだ。
「あぁ、よかった。ほん、とう、に」
ふらふらと、歩く。
それは如何なる偶然か、リーヤが歩けるだけの道は残されていた。
一歩一歩と進んで、やがて雨が降り出す。
「これで、火は消えるかな」
燃えるものが無くなって、鎮火し始めた山。
そこをふらふらと、登っていく。
後には赤黒い道だけが残っていた。
「ぐ、ぁ」
ずるりと、背中から木材が抜け落ちる。
リーヤはその衝撃に顔を歪め、だがそれでも更に進んだ。
山の奥、黒ずんだ大木に背を預けて、座り込む。
「ごめん、ナーヤ。ぼくは……」
そう呟いたきり、リーヤは目を閉じた。
その瞳が開かれることは、もうない。
だというのに、その表情は、どこか安らかだった――。
――/――
地面から手を離し、ナーリャはふらふらと立ち上がる。
そっと家の敷地を抜けて、そのまま山を歩いて行く。
四年で緑を取り戻しつつある、川向こうの山。
この川のおかげで、別荘のある山は無事だったのだろう。
歩いて、歩いて、歩いて。
記憶に従って歩いた先には、黒ずんだ大木があった。
その幹からはすでに、新しい目が芽吹いている。
「やっぱり、そうか」
その根元。
そこにあるのは、息絶えた少年の亡骸ではない。
大きな石が置かれ、摘んだばかりの花が添えられた――墓があった。
「君は、知っていたんだね」
背中に、声をかける。
背後をずっと着いてきていた、小さな気配。
そっと振り向いた先には、諦観を浮かべたナーヤが、立っていた。
「帰ってきたって、思った。約束を、守ってくれたんだって」
泣き出しそうな表情を、無理矢理笑みの形に固定しようとする。
けれど長くは叶わず、涙が溢れ出してきた。
「記憶がないって、わかって。もう兄さんしか居ないって思った。
ただ似ているだけの人だったら、記憶がある人だったら、
少しだけ甘えさせて貰って、振り切ろうと思った」
でも、ダメだった。
ナーリャに記憶はなく、そのキーワードとなる名前も、ナーヤとリーヤを合わせたかのような名前だった。
「おかしいよね。兄さんは――――わたしが、みつけて、弔ったのに」
ナーヤは途切れ途切れにそう零すと、崩れ落ちる。
そんな彼女に、ナーリャはゆっくりと近づいた。
「僕は、行かなきゃならない」
「うん」
「それはきっと、僕が本当に“そう”だったとしても、選んでいたと思う」
「うん」
「でもさ、あとほんの少しだけなら、君と一緒に居られるから」
「え?」
肩に手を置き、ナーヤが顔を上げる前に、強く抱き締めた。
「だから、あと僅かな時間だけは、僕に全部ぶつけて。……ナーヤ」
「あ……ぁあぁぁぁ、ぁ、ああああぁぁぁっっっっ!!!!」
ナーリャの胸に顔を埋めて、声を上げて泣く。
涙を堪えて生きてきた少女は、ただひたすら泣いていた。
二度と逢えないと思っていた兄に、想いの丈の全てをぶつけるように。
ただ、ただ、涙を流す。
そうして泣き止んだナーヤは、泣き疲れて眠ってしまった。
そんな彼女を抱き上げると、ナーリャは山を下りる。
大事な弓や槍を宿に置いてきたことに、今更ながら気がついた。
「千里、君が僕から離れて行ってしまうのなら、何度だって繋ぎ止めよう」
そう呟くナーリャの瞳。
そこには、強い決意が宿っていた。
「だから、待っていて」
山を下りて、目指す先。
そこに居るであろう最愛の人を求めて、ナーリャはただ、走る。