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E×I  作者: 鉄箱
第三部 運命を穿つ矢
66/81

十一章 第三話 誰の為の笑顔

 反り返った瓦の屋根。

 黒い塗りの木造の屋敷。

 奪ってきたもので造られた広大な敷地。


 その一室に、一人の男が胡座をかいていた。


「まだ始末できんのか!」


 禿げ上がった頭に、鎖骨に届くほどに伸ばした黒い口髭。

 眉はなく、瞼は厚く、その双眸には淀んだ光が満ちていた。


「そ、それが、妙な邪魔が入りまして……」


 それに答えたのは、数名の破落戸ごろつきだった。

 黒一色の中華服に、白い爪を模した刺繍が施された黒い頭巾を被った男達だ。

 バツの悪そうな顔で正座する破落戸たちに、禿頭の男は鼻を鳴らす。


 男の名は、“ワン=スベル”……この影爪会の、頭領だった。


「ウェンの一族に、これ以上邪魔をされてたまるか!

 ……いいか、どんな手段を使っても構わない。絶対に始末しろ!」

「へ、へいッ!」


 破落戸たちが走り去っていく様子を見て、ワンは苛立たしげに杯を掴む。

 そこに満ちた白く濁る酒は、庶民では一生かかっても口にすることができないような、上等な酒だ。


「この栄光、この栄華……潰させはせんぞ、ウェン!」


 怒りにまかせて投げた杯が、壁に当たって跳ね返る。

 ワンのその顔には、醜い疑心の鬼が暗く笑っていた――。














E×I














 昼前の座敷。

 湯気を立てる茶飲みの前で、ナーリャは身体を強ばらせていた。

 左に座る黒髪の少女、ナーヤに微笑まれる度に、右に座る栗色の少女、千里に睨まれる。

 未だ状況を理解し切れていないナーリャは、それに戸惑うことしかできずにいた。


 記憶喪失であることを告げても、ナーヤの態度は変わらない。

 むしろ、献身さを増すほどの勢いだった。


「とにかく、だ」


 そんなナーリャ達を薄く細めた眼で見ていたリャウが、ため息と共に告げる。


「俺には大事な仕事があるんだ。依頼を放棄されては困る」

「放棄するつもりはないよ。

 ……ということだから、戻ってから話を聞きたいんだけど、いいかな?」


 ナーリャが、ナーヤに告げる。

 極力棘を含まないように発せられた言葉は柔らかく、その響きに千里が方眉を上げる。

 板挟みに感じる冷たい空気に、ナーリャは己が何時まで保つかわからなかった。


「また……行っちゃうの?」

「え?」

「また、帰ってこないの?私、そんなのイヤっ!!」


 ナーヤの悲痛な叫びに、ナーリャはたじろぐ。

 その泣き顔が夢の中の光景と重なり、ナーリャは何も言えなくなってしまう。

 沈黙がおり、離れた所にいるイエルも含めて、誰もが口を噤む。

 そんな状況に変化をもたらしたのは、リャウだった。


「……一番大事なのは、明日の議会に出席するまでの護衛だ」


 何を告げようと言うのか、リャウの声は淡々としている。

 俯いているため表情は伺えず、どこか不気味な雰囲気だった。


「だからナーリャ。君は“彼女”と話し合いを続けてくれて構わない」


 そう言って、リャウは顔を上げる。

 気持ちを乗せて言葉を紡ぐその顔は――。


「今日の所は、“チサトだけ”でも大丈夫だからな」


 ――満面の、笑みだった。

 千里の手を引いて立ちあがり、早足で部屋から出て行く。

 あまりの展開に千里が着いていけないのを良いことに、リャウは全力で歩き去っていった。


「くっ、そう来るとはッ!」


 ナーリャはその後を着いていこうと、慌てて立ち上がる。

 だが、ズボンの裾を掴まれて、立ち止まらざるを得なかった。


「行かないで!……一緒に居て、リーヤ兄さん」

「ぁ……」


 もう、リャウたちの足音すら聞こえない。

 ナーリャは立ち止まってしまった己に不甲斐なさを感じながらも、ナーヤの手を振り払えずにいた。


 振り返り、潤んだ瞳で己を見上げるナーヤを見返して、逡巡する。

 喉が詰まったように声が出ず、それでもナーリャは、ゆっくりとしゃがみ込んだ。


「ごめんね、行くにしても行かないにしても、やっぱり話し合っておきたいから」


 ナーヤの手にそっと自分の手を重ねて、優しく振り解く。

 残るにせよ残らないにせよ、曖昧な状況に身を任せたままにしたくは、無かった。


「きっと千里も、外で待っていてくれるから」


 そう言ってナーリャは、宿の外へ走る。

 きっと待っていてくれているから、待たせてはならないと走り、ブーツを適当に引っかけて外へ出た。


 だが――。


「千里っ!――ぁ」


 そこに千里の姿は、無かった。

 人混みに溢れかえった道は、数歩先を見ることも叶わない。

 ナーリャはその光景を見ながら、ただ呆然と立ち尽くす。


「入ろう?兄さん」

「ナーヤ、ちゃん?」

「ナーヤでいいよ。ほら、イエルが美味しいお茶を淹れてくれるから」


 ナーヤは、ナーリャの手を優しく掴む。

 そして、後ろ髪引かれる思いで路地を見るナーリャを、そっと宿へ連れて行った。











――†――











 リャウに手を引かれた千里は、靴を履く段階で我に返った。

 そして、リャウの手を振り払い、立ち止まる。


「チサト……気持ちはわかるが、

 彼も“血縁者”かもしれない人間との再会くらい、噛みしめたいだろう」


 リャウが告げると、千里は何も云えなくなる。

 ミドイルの村で聞いた、ナーリャの事情。

 セアックに拾われる寸前、彼は誰かの名前を呟き、それを記憶のきっかけとするために名乗っていたのだという。


 それがもし、妹の名前を呼び、それから自分の名を言ったのだとしたら。

 優しいナーリャのことだから、充分にあり得る可能性だ。


 ナーヤとリーヤ。

 合わせて――“ナーリャ”。


「待ちたいチサトの気持ちを、無碍にはしたくない。

 俺の事情で付き合わせてしまっているんだ。嫌ならば、今からでも――」

「ごめん、リャウ。でも大丈夫だから。

 だから、あとほんの少しだけ……待って」


 千里はブーツを履くと、小走りで道に立ったリャウに並ぶ。

 そして、宿の中をじっと見つめた。


 十秒、十五秒、三十秒。

 そこまで待って、リャウは千里の手を取る。


「やはり来ないようだ。もう行こう」

「ぁ、リャウ!」


 そのまま歩き出してしまったリャウに、千里は慌てて着いていく。

 最後にもう一度だけ振り返るが、そこにナーリャの姿は無い。

 千里はそのことに辛そうに眉を落とすと、気持ちに蓋をしてリャウに付き従った。


――……ッ

「ナーリャ?」


 振り返っても、そこに広がるのは人混みだけ。

 もう宿の前すら見えないほどの雑踏が、視界と耳を覆ってしまっていた。

 千里は後ろ髪引かれる思いを宿しながらも、今日の仕事を終えてから話し合おうと前を向く。


 そうして二人は――僅かな差で、すれ違った。











――†――











 宿屋の座敷、その机の前に二人は座っていた。

 イエルの淹れてくれた緑茶を飲みながら、ナーリャはただ隣の少女に相槌を打つ。

 その度に少女――ナーヤは、太陽に咲く花のように、柔らかく笑うのだ。


「それでね、兄さん……」


 甘くのしかかる声。

 家族という名の絆。

 失ったはずの自己。


 家庭があり、過程を持ち、結果として家族ができる。

 家庭があって、家庭を失い、結果として絆が断たれる。

 断たれたはずの絆、失ったはずの過程。

 過程は未だ回復していなくとも、家庭に心は宿るのか。


 ナーリャは、胸を突く虚無感に、歯がゆさから目を伏せる。


「兄さん?」


 リーヤという、少年。

 ナーリャは夢の中でしか、その姿を知らない。

 第三者のような視点で流れた、あの地獄のような夢でしか。


「ねえ、ナーヤ」

「なぁに?」


 笑顔を眺めながら、ナーリャは選択をする。

 超えなければならない道程に、踏み込むために。


「君の言う“兄”は、どんな人だったの?」


 ナーリャの言葉に、ナーヤは目を瞬く。

 そして、ナーリャが“自分の事”と言わないことに、僅かだが悲しそうに目を伏せた。

 だがそれも柔らかな笑みの裏に押し隠し、微笑む。


「優しいひと、だよ」


 思い出を辿り、笑みを零すその表情は、可憐で。


「私に、何時も、どんなときでも、笑顔をくれる優しいひと」


 儚い優しさに、満ちていた。


「つらいとか、くるしいとか、全部笑顔の下に隠して」


 唇を噛み、瞳を潤ませる。

 優しげな表情は、一転して後悔に包まれた。


「月明かりように、かすかに笑うひと」


 兄のことを、何も気がつけなかった。

 そんな言葉が、聞こえた気がして。

 ナーリャは自分の胸に、強く右手を押し当てた。


「いつも、思うの。思って、いたの」

「なに、を?」

「リーヤ兄さんは、夢の中のひとなんじゃないかって」

「え?」


 ナーヤに、リーヤという兄が居たことは、間違いのないことだ。

 けれども、それでも、ナーヤは思うのだ。


「日が昇れば、消えてしまう私の夢。

 だっていつも、みんなが笑う頃には、ひとりだけ傷を背負ってしまっていたから」


 伏せられた瞳。

 溢れ出た涙は頬を伝い、一筋の軌跡を残す。

 その雫が、その表情が、その声が、ナーリャの中で心にひっかかった。


――どうして、いつもっ!


 失ったはずのきおくから、少女の声が響いてくる。

 その少女とは、誰のことだったか。

 誰が己に、そう言ったのか。


 答えは、出ているのではないか。


「兄さん」

「ナー、ヤ?」


 声が震える。

 喉が震える

 肩が震える。

 心が震える。


 微かに呟かれた声に、ナーリャは揺れる瞳を向けた。


「記憶が戻って欲しいって思う。

 でも、例え戻らなくても構わないって、思ってもいるの」


 言葉が出ない、身を預けるように己に体重を任せたナーヤを、ただ受け止めることしかできなかった。それが、当然の帰結であるかのように。


「あれが、あの時のことが、

 兄さんにとって辛い記憶であったのなら、どうか思い出さないで」


 ナーヤはナーリャの胸に顔を埋めて、想いを吐露する。


「なんの翳りも無く、なんの苦痛もなく、私は兄さんと二人で暮らしたい」

「二人、で」

「そう。一緒にご飯を食べて、一緒に歌を唄って、一緒に笑い合って」


 二人……ひとりと、ひとり。

 その言葉にナーリャが思い浮かべたのは、栗色の少女だった。

 だが直ぐに、その笑顔が、思い出せない。


 ただ襲い来る記憶と記録の奔流に、ナーリャは身を竦ませることしかできなかった。


「私は、兄さんと――未来を、生きたい」

「ぼく、は……僕は」


 戸惑い、言葉が出なくなる。

 でもそれに頷いてはならないと、頷くべきではないと、誰かが胸の内で言う。

 なぜならば、ナーリャには……最愛の人が、いるのだから、と。


「――僕は」

「ねえ、兄さん」


 言葉だけでも、彼女から離れようとする。

 だがナーリャが何か言うよりも早く、ナーヤは柔らかに身を離した。


「私たちの家に、行ってみましょう。

 あの火災でも、街外れの別荘は残っていたから、ね。

 記憶が戻るに越したことはないって、思うかもしれないし」


 記憶が、戻る。

 セアックに拾われる前、己が求めた自身のルーツ。

 それが戻るという言葉に、ナーリャは何も云えなくなる。


「ね?行ってみましょう」

「う、うん……そう、だね――わかった」


 何か切っ掛けがあれば、この胸の痛みも晴れるかもしれない。

 ナーリャは自分に言い訳をするように、微かに頷いた。

 それをナーヤは、花開いたような笑みで、受け入れる。


「イエル!ちょっと出かけてくる!」

「あれ?もういいのかい?その……アニキ、なんだろ?」

「ふふ、その“アニキ”と、私の家に行くの!」


 ナーヤの嬉しそうな表情に、イエルもつられて微笑む。

 年の離れた友人同士とはいうが、その有様は仲の良い姉妹のように見えた。


「ナーリャ!……ナーヤを、よろしくな」

「イエル……」


 背中越しに手を振るイエルに、ナーリャは反応を返すことができない。

 できずに、ただ肯定とも否定とも取れない曖昧な笑みを残した。


「さ、兄さん!早く!」


 ただ、今は、やるべきことをしよう。

 そう決めたはずなのに、ナーリャの足取りは重い。

 思い浮かべるのは、視界を通る栗色の髪と、優しい匂い。

 可憐な笑顔を思い浮かべて、その名を口にする。


「千里……千里、僕は」


 名を口にしたら、たったそれだけの事で元気が沸いた。


「今行くよ、ナーヤ」

「兄さん?……うん!」


 やれることをやろう。

 考えていることは同じなのに、心意気がこんなにも違う。

 ああ、これなら、頑張れると、ナーリャは彼女の耳に届かないように小声でそう零した。


 向かう先は、街の外れ。

 ナーヤとリーヤの思い出が、僅かに残る場所だ。











――†――











 シエリエの中央にある、議事堂。

 赤く塗られたその大きな建物は、スエルスルードの観光名所にもなっていた。

 そこから宿とは正反対の方角へ進んだ場所に、リャウの仕事場がある。


「議員たちには、寮に一人一人専用の部屋が与えられる。ここは、その一室だ」


 議員たちが住む、社員寮のような建物がある。

 赤で塗られた議事堂とは打って変わって、質素に黒白で塗られた建物。

 中華風の外観に日本の平安時代の屋敷のような内装という、なんとも変わった建物であった。議事堂の側に居を構えるのは許されないらしく、宿の方が近いというような場所まで離されているのだという。


「けっこう、片付いているんだね」


 千里は、招かれた部屋を見てそう零す。


 畳の上に置かれた座椅子と、木の机。

 周囲に置かれた本棚には多くの書籍が並べられていて、綺麗に整頓されている。

 窓辺に掛けられたすだれや、火の点けられていないランプなど、質素ながら上品な高級感が、あった。


「少し纏めなければならない書類があるんだ。

 暇かもしれないが、待っていてくれないか?」

「うん。わかった」


 千里はそう、ぎこちない笑顔で頷いた。

 やはりまだ、気に掛かっているのだろう。

 不安が、表情に残っている。


 リャウはその表情を見て、千里に気がつかれないよう眉根を寄せた。

 見たいのは、彼女のそんな表情ではない。

 花開いたような……千里のそんな笑顔が、見たいのだ。


「……俺の父は、立派な人だった」


 書類を纏めながら、畳の上で正座する千里に語りかける。

 視線は書類から話さず、ただ淡々と。


「リャウ、さんの、お父さん?」

「リャウで良い。……そうだ、俺の父だ」


 リャウは“さん”付けで呼ばれたことに密かに不満を抱きながら、続ける。

 千里はそんなリャウの様子に、小さく首を傾げていた。


「国より憂いを取り除き、民により良い安寧を約束する。

 そのために数多くの悪人たちを退ける政策を立て、

 当時から強い力を持っていた犯罪組織を、国から追い出してきた」


 嬉しそうに語るリャウの表情は、活き活きとしていて。

 千里はそれにつられて、優しく微笑んだ。

 リャウは求めたモノとは少し違うが、それでも彼女の笑顔がみられたことに、嬉しくなる。


「俺は、そんな父の背中に憧れていた」


 大きく、たくましい背中。

 民の笑顔を己の糧に、弁論の場で戦い続けた憧れの人。


「でも、そんな父も――あの“大火災”で、命を失った」


 過ぎ去った日々。

 そこに置いていかれてしまった、大切な存在。

 リャウのたった一人の家族は、そうして息絶えた。


「それからだ。影爪会を始めとした犯罪組織が、力をつけ始めたのは」

「そんな……」


 国は疲弊し、人徳のあった者達は民を庇って死に、スエルスルードの空は悲哀に包まれた。悲しみが、人々を呑み込んだ。

 その光景を思い浮かべて、千里は眉を寄せる。その瞳を、悲しみで伏せながら。


「俺は、父の成し遂げられなかったことを、自分の手で掴み取りたい」

「……リャウ」


 だから、とリャウは頭を下げる。

 千里が思わず片膝を着いて止めようとするのも、構わずに。


「どうか、俺の夢を叶えるための道を、切り拓いて欲しい。

 この国を、民を、平穏を取り返して護るために!」


 千里に頼んだ時、下心が無かったと言えば嘘になる。

 けれどリャウは、千里ならば未来への道程を築いてくれると思ったのもまた、真実だ。

 武の力に偏った者は、皆、影爪会に呑み込まれている。

 だからこそリャウは、千里の力が借りたかった。


「一度」

「チサト?」


 千里は、脳裏に少年の姿を思い浮かべる。

 無茶ばかりするけれど、約束は必ず守ってくれた。

 大切な人で、最愛の人の……柔らかい、笑顔を。


「一度、約束したんだもん。

 最後までやり遂げてみせるから、リャウは自分の事に専念して!ね?」


 力強く、太陽のように笑う。

 その炎は、破滅をもたらした火ではない。

 その炎は、灰燼より再生をもたらす浄化の火だった。


「ありがとう……チサト」

「うんっ」


 礼を言うリャウの、喜色に満ちた声。

 それを千里は、真っ向から受け止める。

 感謝に対して謙遜ではなく受け止めることを選ぶというのは、千里がこの世界に来て学んだことであった。


「さて、書類は纏めた。

 これさえあれば、宿から直接議事堂へ行ける。

 居場所の知られているここよりも、向こうの方が安全だろう」

「それじゃあ、移動だね」


 立ち上がる千里を見て、リャウは柔らかく微笑む。

 真っ向から受け止められて――真っ向から、心を肯定された。

 それが何よりも心地よく、それで何時もよりも力がわいてくる。


「本当に、ありがとう」


 小さく呟くと、リャウは資料を纏めて千里よりも一歩先を歩く。

 彼女に後れを取らないように、彼女が拓いた道を歩けるように。











――†――











 宿屋を出て、ナーヤが現在住んでいるという家に向かう。

 元々は彼女の父が保有していた別荘だったらしいのだが、山火事の範囲外だったため無事だったようだ。


 そこでナーヤは、住めるように日用品などを整えて、家族の思い出と共に住んでいるのだという。


「父さんも母さんも、別荘に連れて行っては釣りや狩りを教えてくれたわ」

「釣りや、狩りを?」

「そう!」


 その道すがら、人の賑わう路地を通りながら、ナーリャは彼女の話に耳を傾けていた。

 少しでも記憶の琴線に触れる物が在れば幸いと、声を弾ませて思い出を語る。

 悲しみを乗り越え、思い出を語ることができるようになったナーヤの声は、温かな喜びに満ちていた。


「父さんは事業が成功するまではお金がなかったんだって。

 だから、食費を使うのが惜しくて釣りや狩りで食糧を確保していたの」


 行動力のある父親だったようだ。

 自給自足で済むのならそれは賢い判断だが、普通は家庭菜園のようなものから始めるだろう。


 それが、手を出したのは釣りと狩り。

 前者はともかく、後者は魔獣と戦う機会がある分命に関わる。


「兄さんも、狩りは得意だった。でも、釣りはあんまり」

「あ、あははは……」


 ナーリャは釣り竿から経験を読むまで、釣りができなかった。

 どうにも苦手だから飛び上がったフリックを射抜くなどという、余計に難しい手段を選んでいたのだ。そのことを思い出すと、苦笑いしか浮かべられない。


「ねえ、今度は兄さんの話を、聞かせて?」


 ナーヤはそう、“兄”譲りの柔らかい笑みで訊ねる。

 子供が宝物を請うような、優しく喜びに彩られた表情だ。


「僕は……森の狩人に拾われて――」


 語り始めたナーリャを、ナーヤは嬉しそうに見る。

 失われた四年間、その軌跡を埋めるように、ナーリャの思い出を呑み込んでいく。


「兄さんの妹分なら、私にとっても妹分だねっ!ふふ、私に妹かぁ」


 ミドイル村の、レネとメリア。

 その下りで、ナーヤは笑みと共に手を合わせて喜ぶ。

 一人残らず失ったと思っていた家族が、沢山できるのだと、頬を綻ばせた。


「――彼女と出会ったのは、僕が拾われた森だった」

「彼女って……あのひとのこと、だよね?」

「うん」


 ナーリャが頷くと、ナーヤは顔を曇らせる。

 そして、足を止めてナーリャを見上げた。


「あのひとは」

「ナーヤ?」

「あのひとは、きっと兄さんを“返さない”」

「え?」


 直感か、それとも他に感じ入る要素があったのか。

 ナーヤは、表情を曇らせたままそう呟いた。


「あのひとに着いていったら、もう兄さんは帰ってこないような、そんな気がするの」


 ナーリャは、彼女の言葉を否定できなかった。

 千里が目的を果たし、故郷へ帰るとき――最愛の人が居なくなるとき、自分はどんな選択肢を取るのか。


 幾度となく考えたこと。

 彼女の望みを知っているから、彼女の郷愁を知っているから、彼女の憂いを知っているから、ナーリャは千里を引き止められない。


 そうして、千里が故郷へ帰り、二度と戻ってこられないのなら――自分は。


「きっと兄さんは――あのひとを、追いかける」

「っ」


 言い当てられた。

 まだ、答えも出ていなかった自分の気持ちを。

 丁寧に蓋をして沈めておいた心の行く末を、ひっくり返された。


 ナーヤは、千里が流れ人であることを知らない。

 けれど、千里が故郷へ帰りたがっているのは、ナーリャから聞いて知っていた。

 帰りたくとも帰れない場所は、行きたくとも行けない場所ということなのだから。


「お願い!ここで私と一緒に居て!

 ――もう……私を、一人にしないで」


 涙を溢れさせて、ナーリャの手を掴む。

 強く強く強く握りしめて、離さない。

 そんなナーヤの姿に、ナーリャは唇を噛みしめた。


 求めていた、家族。

 自分のルーツ、自分の思い出、自分の全て。

 それが目の前にあるかもしれないというのに、ナーリャは掴み取ることを躊躇してしまう。


「僕は――あれ?」


 顔を上げて、ナーヤを見据えようとして……その奥に、視線が流れる。

 議事堂前だろうか、そこで向かい合う少女と少年。

 見覚えのあるその姿は――千里と、リャウのものだった。


 リャウはナーリャに背を向けていて、千里は自分たちの方を向いている。

 だが、会話に夢中になっているためか、距離が離れているせいか、千里はナーリャに気がついていない。


「あのひとって……リャウと、チサトさん、だよね?」

「う、うん……でも、いったい何を?」


 リャウは千里に、なにかを熱く語っているようだった。

 それを受けている千里の瞳は、困惑に彩られている。

 だが嫌がっているようには、見えない。


 やがてリャウは、千里に近づいてその手を握りしめる。

 押され気味の千里と、押しているリャウ。


 ――そしてリャウは、何事か呟いた後に……。


「え?」

「なっ」


 千里の顔へ、己の顔を近づけた。

 どうなっているかは、後ろ姿だけでも判断できる。

 千里ならば直ぐにはね除けることができるはずなのに、それをしない。


 ナーヤは困惑と共にナーリャを見上げて、目を瞠る。

 顔を伏せて、歯を噛みしめるその表情に、ナーヤは痛ましそうな表情をした。


「兄さん、その、うまく言えないけど」


 ナーヤは必死に、ナーリャを慰めようとする。

 確かに、千里の方へ行かないで欲しいと願った。

 だが、ナーヤは、ナーリャを傷つけたいとは思っていなかった。


「に、兄さんの方がずっと素敵だよ!あんなひょろひょろ男より!」


 ナーヤはリャウと仲が悪いのかそれとも気安い仲なのか、辛辣だ。

 だがそんな彼女の声は、ナーリャには届いていなかった。


 そして、リャウから離れた千里の視線が――ナーリャと、交わった。











――†――











 時は僅かに遡り、議事堂の前。

 リャウはその大きな赤塗りの門を、千里に見せていた。

 宿に向かうのに、ちょうど通り道になっているのだ。


「ここが、俺たちの戦場だ」

「ええと、議事堂、だよね?」

「ああ」


 千里が思い浮かべるのは、故郷の“国会議事堂”だ。

 扇形に並んだ机、その中央に位置する首相の舞台。

 彩るのは荘厳な赤で、国会中継を見続けると眠くなる。

 そんな、浮かんでは消える思い出に、千里はどこか寂しそうに笑った。


「ここで明日、俺は全てを賭けて戦う」


 議事堂を見上げるリャウ。

 その視線は強く、鋭い。

 戦いに望む前に、全てを受け入れた表情だ。


「夢を叶えるんだよね」

「そうだ。夢を叶えて、夢を現実にするんだ」


 右手を伸ばして、赤塗りの大きな門に翳す。

 勝利をその手に掴み取り、己の目的を達成する為に。

 そう語るリャウの表情は、命を賭して戦場に赴く戦士の顔つきをしていた。


「色々な人の支えがあった。それは自覚している」


 だが、とリャウは続ける。

 千里の方を向き、正面から向き合い、どこか寂寥を抱いた瞳で千里を見た。

 その目を、千里は困惑と共に見ていることしか、できない。


「けれど、戦いの場において、俺は孤独だった。

 静かな部屋で、父と対面する以外に、己を保つ方法を知らなかった」


 でも、と続けて顔を上げる。

 そこにあるのは、寂寥の青ではない。

 そこにあるのは、決意の赤であった。


「でも俺は、君の笑顔が在れば――きっとどこまでも頑張れる」

「え?」


 首を傾げる千里に、リャウは畳みかける。

 きっとこの想いは叶わない。

 リャウが様々な人間と相対し続けて培った経験が、否応なしに答えを出す。

 それでも、リャウは――なにもせずに、終わりを享受したくなかった。


「俺は国を支えたい。国と民を支えて、より良い未来へ導きたい」


 近づいて手を握る。

 勢いに任せるなど卑怯だ、と自分で自分を誹りながら。


「俺は君の笑顔が、好きだ。

 俺をその笑顔で、支えてくれ。

 俺の側で、一番近い場所で、笑ってくれ」

「ぁ」


 言いながら、リャウは己の唇を千里のそれに近づける。

 千里はそれを見て、はじき飛ばそうとして、自分の力では取り返しの付かない怪我をさせてしまうかもしれないと思いとどまった。


 だから、千里は……。


――パンッ


 ……リャウと自分の唇の間に、手を差し込んで遮った。

 思ったよりギリギリだったことに焦り、一瞬固まる。

 それでも、リャウを傷つけないように、ゆっくりと離れる。


「ごめん、リャウ。私は――え?」


 顔を上げて、リャウを見ようとして……その先に気がつく。


「ぁ」


 目を瞠り、千里と視線を交わす――ナーリャの姿。

 その黒い瞳が、揺らぎと共に伏せられた。


「っごめん、リャウ!」

「チサト!?」


 リャウを押しのけて、千里は走り出す。

 だがその姿を見る前に、ナーリャは踵を返して走り出した。


「まって、待って!ナーリャっ」


 人混みと喧噪に呑み込まれて、声は届かない。

 押しのけて走るのにも限界があって、ナーリャに追いつけない。


――ドンッ!

「どこ見てんだ!」

「す、すいません!あうっ」


 客観的に見て、どんな状況だったのか。

 少し考えれば直ぐわかるからこそ、千里は走っていた。

 人混みを押しのけて、ぶつかり、焦りから躓き、起き上がろうと顔を上げる。


「ナー、リャ?」


 だけどその頃には、ナーリャの姿はどこにも無かった。


「あ、れ?」


 頬に一筋、熱が流れる。

 地面に座り込んだまま、藻掻くように胸元を握りしめ、俯く。


「――いた、い」


 胸が痛い。

 張り裂けそうなほどに、胸が痛んで鼓動が速くなる。


「いたい、痛い」


 痛いと、何度も何度も呟きながら、千里は胸を押さえて涙を流していた。

 ナーリャが最後に見せた顔、失望の表情を思い浮かべる度に、胸に茨が巻き付いた。


「チサト!大丈夫かい!?

 まったく心配になって追いかけてみればアレだ!

 政治家なら女心くらいわかれッてんだ!!」


 走り寄ってきたイエルが、千里の側にしゃがみ込む。

 そして憤りを浮かべながら、千里の背をさすっていた。


「いたい」

「え?どこか、ぶつけたのかい?」


 千里は胸元を押さえたまま、首を振る。

 故郷の親友によく似た気配を感じ取った千里は、ついに嗚咽を漏らして泣き始めた。


「大丈夫、大丈夫だよ、ほら」


 慌てて、イエルは千里を抱き締める。

 その胸の中で、千里はただ声を押し殺すしかできなかった。


「痛い、痛い、痛いよ――――ナーリャ、ぁ……」


 涙が、悲しみと共に……こぼれ落ちた。

ご意見ご感想のほど、お待ちしております。


ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

次話もどうぞ、よろしくお願いします。


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