十一章 第一話 民主国スエルスルード
暗い雲が、空に広がる。
鬱蒼と茂る木々の中、微かな吐息が緑の中へ吸い込まれていく。
むせ返るような、血の臭い。
周囲の充満する死の臭いに、森に住む獣は反応していた。
『グルルル……』
涎を垂らして、紅い目に二又の尾を持つ黒い狼が、集まり出す。
群れの一部、四匹ほどのアインウルフが、目の前の“餌”にありつこうと息を荒げていた。この森で倒れ伏し、森に還ることは最早避けられないだろう。
そうして獣に食われて、終わるはずだった。
けれど、それは誰の気まぐれか、偶然一人の老人が通りかかった。
「先見三手、二拍時雨」
黒い弓を持つ、大柄な老人。
撫でつけた白髪と口髭、鋭い目は空を射抜く青。
老人は先の三手を見据えて、上空へ一息三射、二連の矢を放って見せた。
『ガウッ』
飛びかかろうとしたアインウルフを、その矢が制す。
倒れ伏す人間、その“少年”を取り囲むように突き刺さった矢を見て、アインウルフは小さく呻り声を上げた。
「去れ、黒き狩人よ」
『グルルルル……ガウッ!』
一喝。
その静かで、それでいて猛々しい声にアインウルフは走り去る。
森は彼の領域だ。森の主でも出てこない限り、彼に敗北はない。
「人……子供か」
年の頃、十四歳か十三歳か。
倒れ伏す少年を見て、老人は呟く。
裂傷や打撲、それから火傷。
誰かに浚われて捨てられでもしたのか、血糊の付いた足跡などは見あたらない。
「まだ、息がある」
老人は少年に近づくと、そっとその身体を持ち上げた。
傷に響かないように背負い、なるべく急いで家に帰るようにする。
その間、老人は少年の意識が途絶えないように、声をかけ続けていた。
「大丈夫か?出身地や、自分の名前は言えるか?」
「な……ま、え?」
「あぁそうだ。名前だ」
反応がきた。
そのことに軽い安堵を覚えながら、老人は先を促す。
どうにか彼の命を救おうと躍起になっている自分に、老人は小さく自嘲して、それでも少年を繋ぎ止めようと足掻いていた。
「な……り……――…ゃ…」
「ナーリャ?女性の名前か?」
「―――…………―……」
途切れ途切れの言葉の中、聞き取れたのはそれだけだった。
曖昧だが、誰かの名を呟いたことはわかった。
だから老人は、気を失った少年が残した名を、記憶する。
――それは、過ぎ去りし日の一幕。
老人と少年の、出逢いの光景――。
E×I
晴れ渡った空の下、アルトノーアが波止場に錨を降ろす。
食料の調達と次の島の情報収集、そしてナーリャの記憶を求めて立ち寄った大陸。
その初めて訪れる町並みを見て、千里は目を輝かせた。
「うわぁ……っ」
赤い塗りの木造建築。
反り返った瓦の屋根。
白と黒と赤のコントラストに浮かぶ金字の看板が、アジアンチックな雰囲気を醸し出す。
千里にとっては非常に懐かしい、“東洋”の光景だった。
「みんな僕みたいな髪の色をしているんだね……」
「ぁ……言われて見れば、そうだね」
東洋は黒髪、というイメージがあった千里は、言われて初めて人を見る。
男性は、ゆったりとした袴のような服。
女性は、腰の高い位置にスカートがある着物のような服。
その黄色人種系の顔立ちには、黒髪黒目がよくマッチしていた。
「もしかしたら、ここに僕のルーツが」
小さく呟いたナーリャの、声。
千里はそれに「良かったね」と、口にすることができなかった。
わけもわからないまま、開きかけた口を閉じる。
――同時に、彼女の胸に小さな傷みが走った。
「千里?大丈夫?」
「ぇ……う、うん!それより、もっと見て回ろうよ!」
「あ、あぁ……うん。そうだね」
どうしても、素直に祝福することができなかった。
記憶が見つかるかもしれないと、諸手を挙げて喜ぶことができなかった。
懐かしさを覚える、中華風の建物。
その町並みに綴られるのは、漢字ではなく見慣れない文字。
それが郷愁の心を強くしながらも、素直に懐かしいと受け入れられない。
大きな手を取って。
――ズキンと、胸が痛む。
驚いた目が、優しい瞳に変わり。
――ズキンと、胸の奥が疼く。
そっと手を握り返してくれて。
――ズキンと、心を茨が覆いだして。
やがて柔らかい微笑みで、千里を包んだ。
――ズキンと、ズキンと、ズキンと、千里の心を鋭い針が突き刺した。
「いたい、なぁ」
呟きは、届かない。
痛みだけが、残る。
――†――
大きな朱色の門。
金のラインが眩しい塔。
見慣れた中華飯店の屋台には、見慣れない物もあって。
千里はナーリャと手を繋ぎながら、スエルスルードの町並みを堪能していた。
「千里、そろそろ宿を探そうか」
「あ、忘れてた!」
呆れた表情で、それでいて楽しそうに笑うナーリャ。
その笑顔に、千里は少しだけ拗ねて見せて、それからいつもの笑顔に戻る。
会話を交わすことが、笑顔を交わすことが、なによりも大切で。
その時間を一時でも長く、味わっておきたかった。
「人通りの多いところから、順に見てみようか」
「そうだね、まだ探す時間はありそうだし」
スエルスルードの港に構えられた首都、シエリエ。
その町並みをたっぷりと見て回ったような気もしたが、朝の早い時間から始めたのでまだ昼過ぎだった。
「そういえば、お昼ご飯もまだだね。ナーリャ」
「そうだね、どこか屋台で買って食べようか」
周囲の屋台から漂う匂い。
油を使ったこってりとした料理の匂いは、空きっ腹によく響く。
そう認識した途端、千里はそっと腹に手を乗せて、苦い表情を浮かべた。
「あー、でも路銀が危ないかも。先に、狩り場を探して何か売った方がいいかな」
「そっか。私も手伝うよ、ナーリャ」
「あはは、それは心強い」
一端街を出て周囲の森でも見て回れば、売れるような獣も居るだろう。
魔獣退治を斡旋して貰えればそれに越したことはないので、最初に向かうのはあまり活用してこなかった、ギルドが良いだろう。
――ガシャンッ!
「っ……今のは?」
ナーリャが鋭い目で、振り向く。
千里もそれに合わせて振り向くと、少し先で騒ぎがあった。
「喧嘩?いや……」
「女の人が、襲われてる!?」
腕を押さえて蹲る男性と、その前に立ちふさがる女性。
黒い波打った髪をポニーテールにしている女性はなんとも勝ち気で、その姿が千里の中の“親友”のものと重なった。
「ナーリャ!」
「援護するから、行って!」
「うん!」
人混みの真ん中で、ナーリャが弓を構える。
こんな街中で矢を番えたナーリャに、周囲の人がどよめいた。
「おい兄ちゃん、危ねぇだろ!」
騒ぎに駆けつけようと走ってきたのだろう。
黒髪に白髪が交じった中年男性が、息を荒げてナーリャを怒鳴る。
だがナーリャは自信に溢れた笑みを浮かべて、それに答えた。
「大丈夫ですよ。……“誰にも”当てませんから」
「なに?」
大きく右足を上げて、落とす。
すると、足踏みの音がしなやかに響いた。
その反響音こそが、ナーリャの一手。
「【領域把握】――先見三手、二拍時雨」
一息三射、二連六矢。
上空に放たれた矢は、大きな放物線を描く。
そしてその先では、千里が一直線に走っていた。
「チンピラが、六人かな」
煌億剣を抜き放ち、マガジンをセットする。
こんな人混みで大立ち回りはできないから、見た目でどうにか竦ませることができるように、最近手に入れた力を解放した。
「背中の男を出せば、許してやるよ」
「ハッ、よってたかって恥ずかしくないのかい!?」
「君!よすんだ!俺のことは良いから、逃げろ!」
「へっへっへっ、俺たち“影爪会”に逆らおうってか?」
どうやら、男性と女性は知り合いではなかったらしい。
それでも襲われている男性を見て、歯止めが利かなくなったのか。
文句を言いながら助けてしまう姿が、親友のものとますます重なる。
「野郎ども、一斉に……」
――タタタタタタンッ
「……う、うわっ!?」
上空から降り注いだ矢が、男達の足を止める。
驚いて身動きがとれなくなった男達。
その輪の中心で男性と女性を庇うように、千里が降り立った。
「“雷響剣|≪ミール=イグゼ≫”」
その手に、黄金の電撃を纏わせた槍剣を掲げて。
「な、魔法使いか!?」
「私の稲妻で丸焦げになりたくなかったら……」
――ジ、ジジ、ジジジ、ジジジジジジジジ……
断続して響く、電撃の音。
暗雲から降り注ぐ稲妻を具現化したような光に、男達はたじろいだ。
「……今すぐこの場から、退きなさいっ!!」
――ジジ……ガァァァンッ
「ひぃっ……や、野郎ども!撤退だ!」
男達の足下に、解放された稲妻が落ちる。
ある程度なら電撃を操る事が出来るのが、雷響剣の特徴だ。
他にも、この剣には“超加速”じみた能力も備わっている。
千里は男達が逃げていったのを見ると、マガジンを外して剣を収めた。
そして、息を吐いて、振り向く。
「大丈夫?」
初対面なのに敬語が取れてしまっている。
親友と重ねてのことなのだが、千里自身はそれに気がついていなかった。
「す、すごいじゃないか!アンタ、冒険者かい!?」
「う、ううん、私はただの旅人……かな」
女性に詰められて、その勢いにたじろぐ。
よく見てみれば、千里とさほど年が離れて無さそうな、少女の顔つきだった。
身長が女性にしては高く、故に遠目ではわからなかったのだ。
「ぐ、つぅ」
「あっ!そうだった、アンタ大丈夫かい?」
女性が、思い出したのか後ろを向く。
自分が背に庇っていた男性が、腕を押さえて蹲っていた。
「彼は?」
「アイツらに殴られてたのさ。それで、見て居らんなくてさ」
よく見れば、腕を押さえて冷や汗を掻いていた。
おそらく折れているのだろう。早くどうにかせねば、後遺症が残ってしまう可能性もある。
「見せて」
だから千里は、そっと男性の側にかがみ込んだ。
手の平から光を出現させて、それを優しく男性の腕に当てる。
「【光よ、癒せ】」
「へぇ、すごいねぇ、魔法って」
女性の声に曖昧に笑いながら、千里は男性の腕をあっという間に癒してしまった。
雷と光の二属性を操る上に、骨折をも瞬時に治すほどの腕前。
そんな本職の魔法使いが見たら卒倒してしまいそうな光景も、魔法の知識が少ないその場の人間達から見たら“こんなこともできるのか”程度のものだった。
「あ、ありがとう。君は……?」
「私は千里。高峯千里。ただの旅人」
顔上げた男性は、やはり幼さの残る顔立ちだった。
ナーリャとさほど年が違わないくらいの、少年だ。
少年は顔を上げて、千里を見たまま動かない。
黄金の輝きと共に降り立った、少女。
その姿に、少年は――確かな“熱”を宿した瞳で、彼女を見ていた。
「チサト……本当にありがとう。できれば君たちに礼がしたい」
少年は千里と少女に、そう告げる。
屈んだ千里の手を、両手で握りながら、彼女に詰め寄ろうとして……。
「ごめん、遅くなった」
その手を、千里の身体を、少年から引き離された。
側に駆け寄り、千里の肩に手を回して引き寄せたナーリャ。
側に立ったナーリャが微笑むと、千里もまた可憐な笑みを浮かべる。
そんなナーリャの様子に、少年は小さく眉をひそめ、そしてすぐに笑顔の下に隠した。
「君が矢を放ってくれたんだね。ありがとう、助かったよ」
「いや、構わないよ。偶然通りかかって放って置けなかっただけだから」
「何かお礼がしたいんだが、時間をくれないか?」
「残念ではあるんだけど、これから宿を探さないとならないんだ」
一触即発。
そんな雰囲気が流れていることに気がつき、千里はたじろぐ。
どうしていいかわからずナーリャの服の裾を掴むのだが、それがナーリャと少年の間に散っていた火花を、大きくした。
「アンタ、宿屋を探しているのかい?だったら……」
「……兄ちゃん、だったらウチに来な!」
少女の声を遮って、中年男性が声をかける。
ナーリャが弓を構えた時に注意をしたこの男性に捕まっていて、ナーリャは到着が遅れたのだ。どうやら、さんざん感心されていたようだ。
「父ちゃん!?」
「街中で大立ち回りなんかするんじゃねぇ!」
「あだっ!?」
少女の頭を、男性が小突く。
どうやら彼女たちは、親子関係にあるようだ。
「オレはシム=トウイ、でこっちは娘のシム=イエル。
少し離れた所にある宿屋、リューウォンの店主だ!」
男性の紹介に、千里とナーリャは目を瞠る。
声を上げて笑うトウイの姿からは、面倒見の良い親父肌な雰囲気が出ていた。
尤も千里は、名字名前の順番が東洋風なことにも驚いていたようだが。
「あ、でもナーリャ。お金は……」
「それなら!」
置いていかれていた少年が、直ぐに割って入ってきた。
そして、にこやかな笑顔で提案をする。
「丁度良い仕事があるから、是非引き受けていただきたい」
「丁度良い、仕事?」
「あぁ、そうだ。チサト、是非君に――俺の護衛をして貰いたい」
女の子への頼み事にこれは、情けないと言われれば情けない気もするが、狙われていることには違いない。割と切実な問題なのだろうが、意図的にナーリャを除外して話している当たり、本気だ。
「俺の名前はウェン=リャウ、と言えば聞いたことがあるかもしれないが」
「えぇ?!アンタがかい?!」
来たばかりなので、千里とナーリャはわからない。
けれどシム親子は気がついたのか、目を瞠っていた。
「あぁチサト、あの人はこの国の“議員”なのさ。改革派の“最年少議員”」
「ぎ、議員って……すっごく偉い人なんじゃ!?」
「いや、俺はまだまだ下っ端役人だよ」
思わぬ出自に、千里やナーリャはもちろん周囲の人間まで驚く。
議員の顔を知らないものなのか、と千里は思いはしたが、すぐにそれを打ち消した。
テレビも写真も無いのに、全ての人に容姿が伝わったりはしないのだろう。
「どうかな?」
「とりあえず、宿には来るだろう?」
シム親子と、リャウ。
二人に詰め寄られて、千里は頬を引きつらせながらナーリャを見上げた。
「どうしよう、ナーリャ?」
「とりあえず……他に選択肢は無さそうだね」
渋々と頷くナーリャを見て、シム親子は諸手を挙げて喜んだ。
リャウもそれを見て、満足げに頷いている。
「そういえば、二人はどんな関係なんだい?」
イエルの言葉に、千里は薄く頬を染める。
だがナーリャは、イエルの言葉を受けた上で、リャウを鋭く睨んだ。
そして、気圧されたリャウとナーリャの様子に周囲が気がつく前に、答える。
「恋人です」
「あわわわ、ナ、ナーリャ」
いつになく自信満々に言い切ったナーリャに、千里は慌てる。
イエルトウイのニヤニヤとした視線が、痛い。
「そう、なのか?チサト」
リャウが千里に確認をすると、千里は目を泳がせながら、俯く。
そうして首から耳まで顔を真っ赤にして、ゆっくりと、頷いた。
「ぅ…………うん」
「そ、そうか」
リャウがナーリャを睨み、ナーリャはただ千里の肩を引き寄せる。
いつになく積極的なナーリャに戸惑いを覚えながら、千里は今は香水は使っていないはずだと自分に言い聞かせていた。
周囲には決して漏らさぬように、火花を散らしながら進んでいく。
スエルスルードの、二人の初日。
そこには既に、波乱の予兆が瞬いていた――。
今回から十一章。
今話は導入となります。
ご意見ご感想のほど、お待ちしております。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次話もどうぞ、よろしくお願いします。