九章 第四話 迷いの森
朝霧がすっかりと晴れ、太陽が顔を覗かせる。
心地よい陽光と暖かい風に包まれる中、千里達はテーブルを囲んでいた。
エリエルの力によって生み出された、蔦と葉と花によって編み込まれたテーブルと、せり上がってきた丸太の椅子。
テーブルの上には、やはりエリエルの生み出した木のコップと、ラランが注いだ花蜜の紅茶が並べられている。
『妖精族は特定の住居を持たず、思い思いの場所に隠れ住んでいる』
トラストはそう切り出すと「見つかったのは運が良かった」と続けた。
領主と名乗っているエリエルもそれは変わらず、カロートニルスの各地を好きなように移動して暮らしている。
そんなエリエルをすぐに発見できたのは、幸運だった。
「ありがとうトラスト。助かったよ」
「うぅ……お恥ずかしいところをお見せしました」
蝶々を追いかけていた千里が、赤くなって俯く。
誤魔化すために口に含んだ花蜜の紅茶は、優しげな甘さがした。
まるで、紅茶にまで慰められているような、そんな気がして千里は更に落ち込む。
「さてさて、それで……我らの王にお目通り願いたい、でしたか?」
「は、はい!」
エリエルの言葉に、千里は顔を上げて頷いた。
そして、胸の内ポケットから、レラの涙を取り出して見せる。
「……ええ確かに、イルリスの導きがあるようですね」
エリエルの表情は変わらない。
最初から最後まで一貫して、微笑みを携えている。
故に、底が知れない。
「それならば私が止めることはありません」
「あ、ありがとうございます!」
「――ですが、私は協力もいたしません」
「え?」
頭を下げた千里は、その言葉にすぐに顔を上げる。
王の住処への道も何もわからないのに、なんの協力も得られない。
それでは、まずいのだ。
「ど、どうしてでしょうか?」
「私も……トラストも、界隈を背負うモノです。人間に協力はできませんわ」
ナーリャがトラストに視線を向ける。
ここまでトラストはナーリャ達に“協力”をしてくれた。
そのことに、“大丈夫なのか?”と視線で問いかけていた。
『王の下へ行くためには、迷いの森を抜けなければならない。
人間相手に、王の砦たる森を先導したとなれば問題になってしまうだろう。
だが、“人間を探るためにエリエルとともに話をする”程度なら何の問題もない』
トラストはそう、一息に語ってみせる。
多くの住人が、千里とナーリャという個人ではなく“人間”の全てを嫌っている。
だからこそその人間に協力したとなれば、暴動が起こってしまうことすら考慮に入れる必要が出て来てしまうのだ。
「それなら、僕たちはあなた方の協力を強制できる立場にありません」
「なんとか頑張って、森を抜けてみます!」
協力を拒否されても、ナーリャも、千里も、めげはしない。
自分たちの罪で拒絶を受けている訳でもないのに、受け入れて前を見る。
その在り方を見て、エリエルはほんの僅かに微笑みを深くした。
「私たちは、協力できません。けれど……」
エリエルは、話しについて行けずぼんやりと紅茶を見る妖精たちを、手招きした。
ファリリナとラランはそれに首を傾げて、しかしエリエルの下へ飛ぶ。
「……妖精が森に迷い込むのは、よくあることなのです」
そしてそう……より一層底の知れない笑みを浮かべるのであった。
E×I
カロートニルスから川沿いに、上流を目指す。
その先の迷いの森は、常に濃霧に覆われている上に王の術がかかっているため、川沿いに歩いても迷うのだという。
その森を、千里とナーリャは歩いていた。
先導を、ファリリナとラランに任せる形で。
「うぅ、なんであたしが人間なんかを……」
「エリエル様のお言葉と、レラの涙の導き付きなんだから文句言わないの」
ラランが愚痴を零し、それをファリリナが諫める。
妖精然とした陽気さを持つファリリナと、妖精らしいイタズラっぽさを持つララン。
傍から見ていても、相性の良い二人であることが伺えた。
「いいか人間ども!あたしの先導があって迷うなど、あり得はしないと知れッ!」
「あはは……うん、頼りにしてるよ。ララン」
ナーリャが苦笑しながらそう言うと、ラランは真っ直ぐな言葉に照れて顔を逸らす。
そんな二人を見て、千里はそっとナーリャの側により、手を繋いだ。
「千里?」
「……なんでもない」
視線を流しながら答える千里に、ナーリャはただ疑問符を浮かべていた。
ナーリャの言葉、ラランの反応、千里の行動。
それらを繋ぎ合わせた結果浮かんだ答えに、ファリリナは含み笑いを零す。
そして、千里の耳元まで、ふわりと飛んでいった。
「とられやしないとおもうけどなぁ」
「っ!?」
首を回した先にある、慈愛の笑顔。
千里はそれに咄嗟に反応することも叶わず、ぱくぱくと口を動かしていた。
瞬間的に熱を帯び始めた頬を、隠す余裕もないほどに。
「千里、大丈夫?」
「だっ、大丈夫!」
「そ、そう?」
強く言い切れられて、ナーリャは少しだけ腰を引かせた。
これから謁見が待っているというのに、なんとも緊張感のない一団であった。
「それにしても……すごい霧だね」
ナーリャが話題を変えるために呟くと、それにファリリナが乗る。
「妖精族は陽光、幽族たちは月光から力を得ることができる。
逆に妖精族は月光で、幽族は日光で力を削がれてしまうの」
ということは、闘技大会の時、トラストは本気ではあったのかもしれないが、全力ではなかったということだ。
闘技大会が夜だったら、あの頃の自分では勝てたかわからない。
ナーリャはそう、密かに戦慄していた。
「それに対して王は、日光と月光から強い力を得ることができる。
でも人間達に度々侵入されるようになってから、
己の領域を深い霧で閉ざしてしまわれるようになったわ」
妖精族を月光から、幽族を日光から護る濃霧。
それは、王の力によって生み出されていた。
晴れた森に住んでいた王は、何時しかその力を己の領域にかけるようになった。
そう語るファリリナの寂しげな横顔に、ナーリャと千里は息を呑む。
陽気な彼女がここまで落ち込んでしまった理由は、財宝を求めた“人間”の欲望にあるのだから。
「私はさ、チサトと一回戦っただけで、二人のことはそんなにわかんない」
「ファリリナ?それならなんで人間どもに、ここまで?」
ラランがそう訊ねて、そしてそれをナーリャ達も疑問に思う。
トラストは刃を交わしたことで心を通じ合わせることができた。
それはナーリャにも納得できることだし、トラストも納得していた。
けれどファリリナと千里の戦いはそれそのものが短く、言葉を交わす余裕もほとんど無かったはずなのだ。
「トラスト様は、さ。
帝国に行く時も色々お世話してもらったし、どんな方かも知っている。
あの方は“他人を見る目”がすごくある方だから、
だから、トラスト様が信頼したあなたたちを、私も信用することができるんだ」
ウルートガルズの領主、トラスト。
彼はその実力だけではなく、人柄でも人望を集めていた。
そんな彼に信頼されていたナーリャ達ならと、自分も信用する気になったのだ。
「だから、さ。あなたたちなら頼めると思うの」
「私たちに、なにを?」
千里が問うと、ファリリナは足を止めて振り向く。
その真っ直ぐな視線に、千里は僅かにたじろいだ。
「王に、翡翠の森を返してあげて。
王の霧を晴らして、ここを翡翠で満ちた森に戻して」
頭を下げるファリリナを見て、ラランは悲痛そうに顔を歪める。
そして、咄嗟に答えられず固まっていた二人を強く一瞥してから、ファリリナに並んだ。
「あーもうっ!あたしからも、お願い……ファリリナの気持ちを、無駄にしないで」
花に惑わせた時も、ラランは謝ろうとしなかった。
けれど今、それでも、ラランは嫌いな“人間”である二人に、頭を下げた。
「ファリリナ、ララン」
「チサト……」
上目遣いで、ファリリナは千里を見る。
千里はそんな彼女に、太陽のような笑みを浮かべて見せた。
「任せておいて。だから終わったら、今度は普通にあの花の香りを嗅いでみたいかな」
ほんの小さな願い。
自分の欲望の限り、足元を見ればいいのに。
千里はただ、胸を張って笑って見せた。
そんな千里に、ナーリャは笑みを浮かべる。
慈しみの、優しい笑みだった。
「うんっ……ありがとう、チサト」
「なによ、良いこと言えるじゃない。人間の、くせにさ。
でも、その……ありがとう。とびっきりのを、用意してる」
腕を組みそっぽを向きながら、それでもラランは礼を言う。
その頬を真っ赤に上気させて、千里に感謝の礼をした。
――†――
濃霧の中を進み続けると、だんだんと霧が和らいできた。
その中で、ファリリナとラランは足を止める。
「わかる?」
ラランが指した先。
そこには、翡翠色に輝く一本の木があった。
「あの木の向こうが、王の領域。
あたしたちはここから先に行くことができないけど、ここから先は真っ直ぐだから」
「私たちの案内は、ここまでなの。
だからあとは、お願い……チサト、ナーリャ」
二人の言葉に、千里とナーリャは強く頷く。
そして安心させるために、力強く笑って見せた。
「任せて!」
「ここまでありがとう。ファリリナ、ララン」
笑顔で手を振るファリリナと、腕を組んでそっぽを向くララン。
そんな二人を背に、ナーリャ達は歩き出す。
翡翠の木は、鉱石と樹木の中間のような、不思議な木だった。
その幻想的な雰囲気に呑まれまいと、千里は頭を振る。
「仲良くなれると良いね、ナーリャ」
「うん……そうだね、千里」
木を通り抜けて、最初に千里がそう零す。
その哀愁の篭もった横顔に、ナーリャはただゆっくりと頷いた。
ここから先も、当然ながら濃霧に包まれている。
だが、辛うじて見える半径一メートルほどの視界の中には、翡翠の石や翡翠の木々が鮮やかに立ち並んでいた。陽光や月光を素直にその身に受けていたならば、どれほどに美しいのだろうと呻らせる。
「ひたすらまっすぐ、だったよね」
「うん。不思議と、まっすぐ歩く道には障害物もないように見えるね」
千里の声に相槌を打ちながら、ナーリャは時折周囲へ視線を流していた。
空間にあるのは、翡翠の植物や鉱石と、土のみ。
そこに生物の気配はなく、静かすぎる空間だった。
「千里、止まって」
「え?……ぁ」
足を止めてみた先。
そこには、突然深くなった霧が壁のようにそびえ立っていた。
千里はゆっくりと、その壁に手を這わせる。
「変な感じ。なんか、弾力がある」
「……本当だ。雲を、触っているみたいだ」
通り抜けることは、できそうにない。
千里に次いで壁に触れてみたナーリャは、そう歯がみする。
「そうだ、千里」
「ああ……レラの涙!」
ナーリャの声で思い出し、千里はレラの涙を取り出した。
そしてそれを持ち上げると、ゆっくりと壁に近づける。
どうしようもない時には、これを使うべきなのだ。
――……イルリスの、導きか。
霧の向こうから聞こえてきた声に、千里とナーリャは身体を強ばらせる。
濃霧の中、壁の向こうで複雑に反響した声は、年齢どころか性別すらもわからない。
――して、何用か。
「え、えと……神託に従い、地下大神殿グ、グライ……グライ……」
「千里、“グライズホルン”だよ」
「グライズホルンへ入るための鍵を、いただけないでしょうかっ!」
グダグダである。
案の定覚えることができていなかった千里は、微妙に頬を上気させていた。
この分では、他の地名やアイテムの名前も、覚えているか怪しい。
――神託により宝を求めるか。
心なしか、声のトーンが下がったように思えて、ナーリャは眉を寄せる。
何が声の主の琴線に触れたのか、答えは明白だった。
――言葉を連ねたところで、解らぬのが“人間”だ。
「え?」
諦念と僅かな怒りが込められた声に、千里は息を呑む。
反論しようにも、そうさせない声の主の感情が、霧にうねりを持たせていた。
――ならば此度も変わらない。平等に、試練を超えよ。
「……それで、認められるのならば」
荒れ狂う霧に怯む千里を庇うように、ナーリャが一歩前に出る。
そして、霧に向かって手を伸ばした。
――待て。
「……なにか、問題が?」
ナーリャは、先程から続く遣り取りで“嫌な予感”を感じていた。
ここで何とか自分が名乗り出ておかないとならないような、そんな予感。
ナーリャが得てきた経験からもたらされる、直感だ。
――神託を受けし者しか、この先の試練は受けられん。
「……」
口を噤むナーリャの手を、千里が掴む。
千里は一度ナーリャを見上げて微笑むと、強く笑って見せた。
「私が神託を受けました」
――ならば、ここを通れ。
力強く頷き、千里はナーリャを見る。
自分を心配そうに見る目。
その目を安心させるために、千里は笑ってみせた。
「私は大丈夫。だから、信じて待っていて」
「……そう、だね。わかった。待っているよ、千里」
「うん。それなら……頑張れる」
千里はそう微笑み、そしてナーリャの肩に手を乗せる。
気合いは充分……だと、言えるようにするために。
そっと背を伸ばして、その頬に口づけをした。
「ぁ」
「それじゃあ行ってくるね!」
霧を潜り走り抜けようとする、千里。
耳まで赤くなったその表情に苦笑すると、通り抜ける前に千里の左手を取った。
「へ?」
「行ってらっしゃい、千里」
少し、気障だろうか。
そんなことを考えながら、ナーリャは千里の薬指に、口づけをする。
「っ~行って、きます」
「うん」
手からするりと離れて、千里は走る。
その背中に、精一杯の想いを込めて。
――別れは終わったか。
「どういう、意味でしょうか」
声に、ナーリャは鋭い視線を向けた。
一時とはいえ、離れる。
そのことをナーリャに“不安”にさせたのは、この声が発する失望感が原因だった。
もうどんなものにも、期待を寄せてはいないかのような。
――私の役目は、与えるだけだ。
「与える、だけ?」
――そうだ。ただ、安寧を与えるだけだ。
夢を叶える。
そう称された声の主――精霊の王。
その意味を考えて、ナーリャは眉を寄せる。
「試練の、内容とは?」
――残りし者は、言葉を持たない。持つのは、進む者だけだ。
「帰ってこなければ、明かされない試練……か」
この精霊王の試練について、噂話すらも聞いたことがない。
その理由も、彼の言葉を思い出せば自然とわかった。
試練を受けた者が……誰一人として、帰ってきていないのだろう。
――試練を超えなければ、この森からは出られない。
「試練を受けた者が戻ってこなければ、未来永劫ここに閉じ込められると?」
――そうだ。最早、逃げられん。
言い放つ、王の言葉。
そこに、蔑みの類は含まれていない。
宿るのは、諦観のみだ。
「逃げるつもりはないよ」
――ほう。
「千里は、必ず帰ってくるからね」
千里が見せた、真っ直ぐな瞳。
それを、ナーリャもまた見せていた。
どんな障害も乗り越えて、笑ってみせるという強い意志。
折れることのない心の、表れであった。
――ならば待つがいい。十年でも、二十年でも。
そう言い放ち、声の気配が離れる。
ナーリャはただ一人残された霧の前で、祈るように拳を握った。
「彼女に、千里に……エルリスとイルリスの、加護を」
これから先は、千里の戦い。
ナーリャにできるのは、ただ待つことだけだ。
霧に消えた千里。
残されたナーリャ。
諦念を宿す王。
その想いが、ここに交差しようとしていた――。
次回前後編で、九章を終えたいと思います。
ご意見ご感想のほど、お待ちしております。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次話もどうぞ、よろしくお願いします。