八章 第二話 神聖国家ノーズファン
光の翳る、朧月の夜。
滑らかな材質によって構成された、白亜の神殿の中。
法衣の上から白金の鎧を身に纏った青年が、書類を片手に歩いていた。
「嵐により到着予定がずれこんだ、か」
澄んだ声だった。
深い底を余すことなく透かす湖のように、澄んだ声だ。
ため息と共に吐き出される言葉、憂いげに揺れる淡い空色の瞳。
「歓待の準備が整った、と思えばいいのでは?」
金の髪に青年が手を当てて息を吐いていると、そのやや後方から声がする。
こちらは、砂漠に吹きさすぶ風のように、どこか荒々しくも熱い声だった。
「ズレ込みが無くても、用意は整っていた」
金の青年が振り向くと、先ほどの声の主が見える。
編み込んだ白い髪に群青色の瞳、それから赤褐色の肌。
白い法衣に、やはり白金の鎧を着込んだ青年だった。
「余裕を持つことは、どちらにせよ良いことだろう?」
「余裕を持ちすぎて、気を抜きすぎることは寛容できない」
白の青年は、堅い表情ながら柔らかく思考する。
金の青年は、表情こそ堅くないが、堅く思考する。
どこか似通っていながら、どこか正反対な二人だった。
「それで、何をそんなに気に負っている」
「歓待に浮かれた神官達のことだ。まったく、それで抜かれては意味がない」
金の青年は、資料の束を己の副官である白の青年に渡す。
そして渡された資料にざっと目を通すと、なるほどとため息をついた。
「小型の魔獣、デプシーモルトか?」
「そうだ。それも大量に」
デプシーモルト。
有り体に言えば、黒いネズミである。
小型の魔獣とはいうものの、全長二十五センチから四十センチほどの大きさで、顎の力が強くすばしっこい。おまけに夜目が利くものだから、夜に活動されては目も当てられないという、はた迷惑な魔獣である。
「いくらふ抜けていても、そうそう侵入は許すまい」
「だから頭を抱えているんだ。神殿が魔獣まみれなど、示しがつかない」
金の青年はそう、再び頭を抱えた。
魔獣の気が立っている今、下手な騒ぎでノーズファンをぐらつかせたくない。
そう考えていても、些細なミスで乱されているようでは話にならない。
「“神託”は?」
「そんなことで、オリヴィア様の気を遣わせる訳にはいかない」
白の青年が訊ねると、金の青年は真剣な瞳で首を振る。
ノーズファンの最高権力者にして神に通ずる巫女である女性の顔を、思い浮かべながら。
「これ以上なにも、起きなければいいのだが」
「これ以上なにも、起こさせはしない」
金の青年の、決意の込められた声。
それに白の青年は、不安げな表情を押し隠すのだった。
E×I
水面を見下ろせばフリックが泳ぎ、空を見上げれば渡り鳥のラムルゥが飛ぶ。
吹きさすぶ風は肌を打つ程度には強く、それ故に会話が周囲に零れることはない。
「何故、異性の従者ではならないのか、聞いていなかった訳ではあるまい?」
もうすぐノーズファンが見えようという、船の上。
その甲板で、ナーリャと千里は肩を落として説教を受けていた。
額に手を当てながら注意を告げているのは、金の髪を靡かせているフィオナだ。
「神の言霊を授けられるという神聖な地。
そこへ行くまでの間に“いかがわしい”ことがあったとなれば一大事だ」
フィオナはそこで一度言葉を句切ると、必死に目を逸らす二人を睨む。
といってもその視線に含まれているのは、若干の呆れであった。
「要件を告げ戸を叩き、そうして手順を踏んで中に気配が在れば、
返事がなかったとしても入室はしてくるだろう。偶然、私だったというだけのことだ」
それもフィオナの要件というのは、もうすぐノーズファンに到着するというもの。
伝えに行こうとしていた船員を引き止め、病み上がりのナーリャの調子を見てこようと、メッセンジャーを引き受けたに過ぎないのだ。
「男性同士にしか見られなかったとしても、問題であることには変わりない。
むしろ、“主の営み”から外れると言うだけ、他国で行うよりも問題だ」
勢いに任せて、というのとは少し違う。
確かに両者の意志の元で及んだ行為であるからこそ、ナーリャと千里は気まずげに肩を落とす。
そも、こんな説教を“させてしまっている”という時点で、申し訳なかった。
「……頼むから、到着後に追放騒ぎなど起こさないでくれ」
「は、はい」
項垂れてそう零すフィオナに、ナーリャは慌てて頷く。
視線があって、鼓動が速くなってしまう。
それを見とがめられて連鎖的にバレでもしたら、ノーズファンを“欺いた”のだと騒ぎになるだろう。
「向こうでは、少し距離を離していた方がいいかもしれない」
真剣な顔でそう呟くナーリャに、千里も頷く。
必要なのが緊張感であるというのなら、ある程度離れて行動した方が良いだろう。
「それじゃあ私は、なるべくレウかフィオナさんについた方が良いのかな?」
「そうだな。まぁ従者繋がりでレウだろう。異性間という認識を考えると、な」
男装して入るのだから、扱いは男性である。
それはつまり、フィオナとは“異性”と認識されるという事だ。
「リリアの時みたいに、すぐばれるのは避けなきゃ」
「そうだね。っていても、対策がある訳じゃないけど」
千里とナーリャが、揃って肩を落とす。
そんな二人に、フィオナは訝しげに眉を寄せた。
「まずバレはしないだろう……と、解っていたのではなかったのか?」
「へっ?」
「えっ?」
目を開いて驚く二人に、フィオナは今日何度目かも解らないため息をつく。
額に手を当てて首を振る仕草からは、なんといえない気苦労が漂っていた。
「異性の従者は連れてこない。
……そんな常識を、まさか歓迎まで受けつつ真っ向から破られるとは思わない」
それが常識である以上、女性っぽいと思われても問題ない。
自信満々に門を潜り、神の御前で堂々としているのだ。
それがまさか女性であるなどと疑うのは、神託により招いた“神”そのものを疑うことに他ならないのだ。
「解ってやっているものだと思ったのだが、な」
フィオナの言葉に、二人は揃って気まずげな笑みを浮かべる。
そうしていると、船から汽笛が響いてきた。
「到着だな。気をつけてくれ、本当に。本っ当に、な」
「は、はい!」
「う、うん!」
同じタイミングで返事をし、そのことに若干の照れを見せて顔を逸らす二人。
その姿に、フィオナは深く……深くため息を吐くのだった。
――†――
その街の形容を一言で表すのなら、“純白”だ。
白亜の、石造りの建物が並び、白い布のような服を身に纏った人たちが歩いている。
活気はあるのだが、それも度を超えることなくどこか物静かで、和やかな光景。
そんな静かな街並みの奥。
高い丘の上にそびえる白亜の神殿に、千里は感嘆の息を吐く。
「パルテノン神殿みたい……あ、でもどこか教会っぽいかも」
歓迎を受けて進んでいく、ナーリャとフィオナ。
その後方からついていく船員や軍人たちのなかに、千里は混じっていた。
大きな丸い石柱を揃えた、巨大な玄関口。
その奥にそびえる城のような教会。
圧倒的な存在感と息を呑む神聖さが両立された、荘厳な建物だった。
両端に列を作って頭を下げている人たちは、みんな黒い法衣を身に纏っていた。
奥に行くにつれて白い法衣の人が見えることから、階級によってある程度分けられているのだろう。
「鎧を着た人も居る?」
「あぁ、あれは神殿騎士だね」
横から聞こえてきた声に顔を上げると、そこにはレウが歩いていた。
周囲に私語が聞こえないように、小声で千里の疑問に答えているようだ。
「白い法衣に鎧を着た人が、神殿や“巫女”の警備をする神殿騎士、通称近衛騎士」
顔を向けて説明するレウの、視線を追う。
誰も彼もが美青年に美女という、華やかな騎士達だった。
「で、手前にいる黒い法衣に鎧を着た人たち」
入港から警備をしていた、黒い法衣の上から白金の鎧を着た人たち。
どこか無骨なイメージのある騎士達だ。
「彼らは、街の治安維持を行う騎士だね。
扱いとしては、白い法衣の神殿騎士の“分団”にあたる人たちだ」
こちらは、男女の対比が同程度だった神殿騎士に比べて、ほとんだが男性。
それも、一部を除いて大柄で厳つい人たちで構成されていた。
レウの説明に相づちを打ちながら、周囲を見回してみる。
誰も彼もが歓迎ムード。数年ぶりに“神託”によって招かれた戦士達を、心待ちにしていたようだ。心地よい明るさが、場の空気を支配していた。
自分の扱いは、所詮オマケだ。
それでもどうしてか気恥ずかしくなり、千里はレウとは反対側へ大きく顔を逸らした。
「ぇ」
その、視線の先。
黒い法衣に、黒金の鎧。
背に抱える、暗い漆黒の大剣。
夜を溶かしたような髪と無精髭、宵闇を讃えた右目。
盾に一本傷の入った左目は、空虚な蒼色の――。
「あれ、は……“なに”?」
千里は、“誰”ではなく“なに”と呟いた。
その右目が捉えているのは、千里ではなくナーリャ達。
いや、それよりももっと先――神殿を、見ているように思えていた。
その瞳が――どうしようもなく、怖い。
「あの鎧は……噂に聞く“第十三分団”かな」
「十三、分団?」
千里が首を傾げると、レウは「そう」と頷いた。
そうして声をかけられると、もう視線の先にいる大柄な男性に、奇妙な恐怖心は抱いていない。あくまで刹那的に感じた、妙な感覚だった。
「犯罪者の中でも特に凶悪な者を取り締まる、近衛騎士と対を成す騎士達だ」
ノーズファンの治安が乱れることがないのは、信仰の元に集った治安維持の騎士達によるものだが、それでも“あぶれた”ものは出る。
そういった通常の騎士達では対処できないような凶悪な犯罪者や魔獣と相対するのが、第十三分団である。
「黒に黄金の装飾となると、十三分団、団長……かな」
分団の統括者。
その横にいる病弱そうな青年は、副官だろうか。
白い髪に細い眼と、長方形の眼鏡をかけた男性だ。
「十三分団、かぁ」
それだけ呟くと、千里は最後にもう一度だけ、団長の姿を視界に納める。
そしてすぐに視線を逸らし、神殿の中へ踏み込んでいった。
――†――
神殿の内部も、やはり白で覆われていた。
まっすぐと伸びる青の絨毯、その先に見える玉座は、この地の最高権力者のものだ。
その謁見の間の玉座の前で、ナーリャとフィオナは跪いていた。
荘厳な音色を奏でる、パイプオルガン。
聖歌を歌う乙女達と、目を伏せて並ぶ白金の騎士。
ステンドグラスから差す陽光に、ナーリャは二度ほど瞬きをした。
右側から誰かが入ってくる気配。
まだ、顔を上げはしない。盗み見て無礼だと判断されるわけには、いかないのだ。
「面を上げてください」
心の内側を揺るがすような、魂の中へ染み渡るような。
そんな、清涼で透きとおった声が、ナーリャ達に当てられる。
そうして顔を上げて、ナーリャはほんの一瞬息を呑んだ。
「ようこそ、神の伝達者達の国、ノーズファンへ」
月を溶かし込んだような、黄金の髪。
星を呑み込んだような、淡い金の瞳。
光を纏い込んだような、白く儚い肌。
純白の法衣、簡易的なドレスのような服に身を包んだ、美しい女性。
その姿はまさしく、“神秘的”という言葉がよく似合う。
いや……それ以外に、表しようがないような、気さえするのだ。
「あ、れ?」
だが、ナーリャが驚いたのは、それとは少しだけ違っていた。
もちろんその容姿の美麗さに驚きはした。
けれどもそれ以上に、輝きを纏ったその雰囲気が、“似て”いたのだ。
――光の粒子を纏い、黄金に輝いた時の、千里の姿に。
「む、ぅ」
それは、ナーリャの左隣で跪くフィオナも、同様だった。
周囲に感づかれない程度に、ほんの一瞬訝しげな声を上げたのだ。
同じ疑問を持ったナーリャでなければ気がつけないような、微かなものだった。
「私はノーズファンにて神の意志を受け取る資格を持つ者。
神託の巫女――“オリヴィア=リウリアス=イルエレス”」
リウリアス=イルエレス。
その名前の響きに、ナーリャは再び思考を巡らせる。
「長い旅路、本当に――」
一度思考に潜ってしまったためか、オリヴィアの言葉がほとんど耳に入らない。
それでも考えておかなければならないような、そんな気がしたのだ。
「イル=リウラス?」
小さな声で、そう言葉を紡ぐ。
響きが似ているだけといわれれば、そうかもしれない。
けれどあらゆる部分で、似すぎているのだ。
千里と、千里の“力”に。
「――神託を行うのは、月が完全となるその夜です。
それまであと三日ほどしかございませんが、どうぞごゆるりとお過ごしださい」
オリヴィアがそう告げ微笑むことで、ナーリャははっと我に返った。
そして、フィオナが頭を下げたのに倣って、ナーリャも慌てて頭を下げた。
本来ならばもう二日ほど早く到着する予定だったのだが、嵐で思わぬ足止めを受けてしまった。そのため、神託までの暇が、ほとんど無くなってしまったのである。
オリヴィアが立ち去った後、ナーリャ達は玉座の間を出て騎士に対面した。
白い法衣に白金の鎧と、金の装飾。
黄金の髪と、淡い空色の瞳。
近衛騎士の名に相応しい、端整な顔立ちの美青年だった。
「私は神殿騎士団団長、
“アルトレイ・アラカ=ディン=ソルトオウズ”と申します」
丁寧で洗練された礼に、ナーリャは僅かにたじろぐ。
そんな慣れない様子のナーリャを節目に、フィオナは薄く微笑んで受け入れていた。
「こちらは私の副官で、名を“クラウト・セルス=メセレナセ”といいます」
「以後お見知りおきを。ロウアンス様、フェイルラート様」
続いて頭を下げたのは、白髪に群青色の瞳、赤褐色の肌の男性だった。
こちらもやはり、端整な顔立ちの美青年である。
「え、えと、ご丁寧にありがとうございます」
慌てて頭を下げ返すナーリャだが、それではどちらが客か解らない。
そんなナーリャに苦笑しながら、フィオナは軽く目を伏せて顎を引いた。
「手厚い歓待、感謝します」
こちらもまた短すぎるといえばそうなのだが、心は篭もっている。
両者の形は違えど思いのこもった礼に、アルトレイは僅かに微笑みを浮かべていた。
だがそれを、生真面目にもすぐに打ち消す辺りが、彼の性格を表しているようにも感じられる。
挨拶を済ませると、白い法衣の侍女達に連れられて個室に案内される。
白を基調とした質素な装飾の、一人部屋だった。
「ふぅ、緊張するなぁ」
品の良い木製の椅子に腰掛けて、ナーリャは大きく息を吐く。
戦士として招かれたためか、武器は取り上げられていない。
だがあまり多く持ち運ぶのは邪魔なため、ナーリャの腰には短剣しか提げられていなかった。
「たぶん、戦意を削る結界とか、張ってあるんだろうなぁ」
一度も武器に触れようと、思えなかった。
それは神殿に入る直前、“鋭い視線”を感じても、なお。
「僕に向けられたものじゃ無かったみたいだけど」
それでも、厄介ごとである可能性は、高い。
ただ神託を受けて国を出るということには、なりそうに無いと、ナーリャはこれまでの経験から感じ取っていた。
「気は抜かないようにしないと」
そう零しながら、ナーリャはふらりと立ち上がる。
愛用の弓と帝国から使用している槍は、現在千里に預けている。
従者として預かって貰えるという事が、頼もしい。
備え付けられた窓。
そこから覗く光景は、静かで和やかなものだ。
城の庭園に咲く花と、吹き上がる噴水、静かな空気。
乱れることが考えられない。
だからこそ、注意しておく必要がある。
ナーリャはそう決意を胸に、ただじっとその光景を眺めていた。
――†――
ナーリャ達とは別の案内を受けて、千里は従者用の部屋の前にいた。
緊張が抜けきっていないためか、千里の表情はやや堅い。
「こちらが、リクトさまの部屋になります」
侍女の少女が、そう笑顔で頭を上げた。
その人を安心させる笑みに、千里も幾分か肩の力を抜く。
「こちらが、神殿の地図になります。
赤い線で区切られた場所は立ち入り禁止区域ですので、ご注意くださいね」
ここの侍女は、みんな優しい笑みを浮かべている。
そのことを思い浮かべて、千里は少しだけ感動していた。
最近会った侍女は、斧やら棒やらを振り回していたのだから、仕方がないだろう。
「部屋から出る時は、この紙をかざしてください」
「これは……カード、かな」
長方形の、堅い紙。
堅さ的に、紙というよりはプラスチックなどでできたカードのような感覚だ。
その表面は蒼く光沢があり、銀色でなにか見たことのない刻印が施されている。
「魔法を用いた、特製の鍵になります」
「鍵、なんだ。なるほど」
ようは、指紋センサーのように、かざしただけで作用するカードキーである。
千里もそう納得すると、鍵を受け取った。
「日が落ちるまでは、基本的に自由に行動することができます。
ですので、それまではどうぞご自由に過ごしてください」
「わかりました。色々と、ありがとうございます」
侍女の少女に頭を下げて、別れる。
あてがわれた部屋は、品の良い、質素な部屋だった。
ナーリャ達よりもランクは下がるが、それでも彼女たちは客人。
一般騎士よりもランクの高い個室が、一人一部屋に与えられていた。
そうして部屋に入ると、白いシーツのベッドまで歩み寄る。
「はぁ、緊張したぁ」
千里はそう、ため息と共にベッドに腰掛けた。
手元には、煌億剣イグゼと、ナーリャの弓と槍が置いてある。
従者として預かったはいいが、軽い気持ちでこれらのものを持っている気には、なれなかった。
「なにも無いと良いんだけど……そんな風にいってられるかなぁ」
そう零しながら、イグゼのマガジンを玩ぶ。
現在中身が入っているのは、二つ。
灼雪と蒼炎という、両極端な二属性だ。
「使わずに済めばいいけど、でも」
気になるのは、あの暗い瞳。
十三分団団長という男性の、空虚な左目だ。
脳裏に浮かぶその闇を、千里は首を横に振ることで、払う。
「あー、だめだ。息抜きしよう」
ここの侍女たちに渡された案内図を広げると、それに光の粒子を流し込む。
すると、書かれていた内容――地図と、立ち入り禁止区域が千里の脳裏に浮かんだ。
「っ……説明書さんみたいに、声が流れるとは限らないんだ」
唐突に脳裏に浮かんだ、明確なイメージ。
それに千里は、驚きながらも感心していた。
素直に納得できてしまうのは、純粋な“慣れ”であろう。
「えーと……庭園なら、出歩いても良いんだ」
千里はそう零すと、ドアを開けて外へ出る。
白を基調とした廊下と、蒼い絨毯の道。
脳裏に浮かぶ地図に従いながら、千里は庭園まで歩いて行った。
「えーと、ここを曲がって……わぁ」
思わず、息を吐く。
青、黄色、橙、桃色、緑、藍色、白。
七色か、それとももっとか。
色々な種類の花が、美しく咲き乱れていた。
「すっごーい……」
歩いて回ると、花々が綺麗に並んでいるさまがよく見えた。
形も整えられていて、また華やかすぎず、上品だ。
千里が“こちら”に来てから、花園のような場所なんて一度も見ることができなかった。
だからこそ、この光景に目を輝かせて、見回る。
「あ、良い匂い……」
花びらに顔を近づけて、軽く匂いを嗅ぐ。
自然の花の匂いというのは香水のように濃いものでは無く、爽やかで甘い。
ここ最近で、もっとも肩の力を抜くことができる、光景だった。
……だから、気を抜いてしまったのだろう。
――ゴウッ
「わわっ!?」
一際強い突風は、風の気まぐれか。
舞い上がった花びらと共に……茶色のカツラがふわりと舞い上がる。
「っまず!」
飛んでから直ぐ、常識離れした脚力でカツラを取り。
慌てて頭に乗せる。飛んでいってしまったら、本当に目も当てられないことになっていただろう。フィオナにも、ナーリャにも顔向けできなくなるところだった。
「あ、あぶなかったぁ」
「――え?あれ?今の……」
背後から聞こえてきた、声。
高い、少女のものと思われる声に、千里は肩を振るわせた。
振り向かなければならないのは解っているのに、流れる沈黙が千里の身体を縛る。
「え、えーと……」
「……ひ、秘密にしてくださいっ!」
反転と同時に、勢いよく頭を下げる。
それはそれは見事な礼で、サラリーマンもののドラマに出てきそうなほど、美しい礼だった。
「秘密って……今の、ですよね?」
「えーと、はい、今見たものをどうかっ」
少女の顔を、見ることができない。
顔を上げるどころか目を開くこともできず、千里はぎゅっと目を閉じていた。
「うーんと……いいですよ」
「そこをなんとか……って、へ?」
驚きながら、顔を上げる。
そこで漸く、少女の姿を見ることができた。
背丈は、千里と同程度。
白い法衣は、千里を部屋に案内した侍女のものより、やや上等な色合いだ。
白に近い、淡い色の金髪と、少し濃い海のように青い瞳。
幼げだが整った顔立ちの、優しげな少女だった。
「ほ、ほんとにっ?!」
「は、はい。えーと……でも、その代わり」
「な、なに?」
交換条件があったか、と千里は肩を震えさせる。
なるべく無茶なことでなければいいけれど、などと思いながら。
「代わり、というか、お願いなんですが……私と、お友達になって」
最後の一言は、敬語が抜けていた。
はにかんだような、可憐な微笑み。
突然何を言っているのだろうと小声で呟いている姿を見るに、気恥ずかしいのだろう。
「えと、その……私でよければっ」
「ほ、ほんとうに?
突然こんなこといっちゃったから、断られたらどうしようかと……」
状況的に、イヤでも断れないのだが、そのことは考えていなかったのだろう。
千里とて嫌と思うことはなかったため、そのことには思い至らなかったが。
「私はルフィル。オリヴィアさま付きの侍女をしているの。貴女は?」
「私は陸人……って名乗ってるけど」
友達になろう。
そういわれて、本名を隠すのは、嫌だった。
だから千里は、胸にのしかかる箍を笑顔で外して、笑う。
「千里……千里=高峯っていうの。でも、これは秘密、だよ?」
「うんっ、いいよ。えへへ……早速お友達との“秘密”だぁ」
そう、嬉しそうに微笑むルフィルの姿に、千里もつられて微笑む。
友達がいるということに慣れていないのか、会話を一つするにしても、戸惑いが垣間見えていた。
「えーと、向こうに腰を下ろせるところがあるから、少しお話ししよう?」
「うんっ……と、そこって」
「大丈夫、人はあんまり来ないから」
ルフィルに手を引かれて、駆け足で庭園の奥へ行く。
始めは強く引っ張られて引き摺られがちだった千里も、すぐに歩幅を合わせた。
その顔に、安心と安堵の笑みを、浮かべながら。
走り去る二人の様子を、じっと見る影があった。
庭園の端、花々の下、土の上。
黒い体と赤い瞳を持つ、大柄なネズミだった。
走り去る二人の姿を最後まで見ると、ネズミは踵を返す。
そしてまた、建物の間を抜けて、走り去っていった――。
漸く、名前だけ出続けてきたノーズファンに辿り着きました。
今回から、本格的に第八章を進めていきたいと思います。
ご意見ご感想のほど、お待ちしております。
それでは、ここまでお読み下さりありがとうございました。
次話もどうぞ、よろしくお願いします。